今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」のおかげか?幕末ブ~ムが起きているらしいです。本屋の歴史コーナーでも幕末関連本~特に龍馬などの幕末の志士についての本ばかり目につきます。
物事の見方というのは、一方的ではなくて色々な角度から見ることや感じる事が出来るようになりたいと、いつも私は思っています。片方が絶対に「正義」だと思っているような事がもう一方には「極悪」だったりするのは、現代の世の中にも沢山あって、例えば米とゲリラの戦いなどは少々の話合いでは解決しない位に拗れてしまっています。
そこまで話が飛躍しなくても、私が生活日常でも沢山あります。善悪が全く逆の立場に挟まれるというような事は、日常茶飯事です。
さて、司馬遼太郎の「峠」を今回は面白く読みました。偶然なのですが、この秋に演奏旅行が多くて、持ち歩いている本が読み終わると土地土地の本屋に行き別の本を買う事が多々ありました。この「峠」は上中下巻3冊になっているので、上巻を読み終わった時に中巻は、家に置いてあるし他の本を読むかという事で、同じ司馬遼太郎の「世に棲む日々」を街の本屋で買って読み始めました。
同じ幕末の時期を書いた小説で、同じ作家の江戸幕府側と薩長側の人の物語を同時に読む事になったのです。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見てても思うのですが、どうしても主人公に肩入れして見てしまうのは普通の事ですので、もし「世に棲む日々」だけを読んでいたならば、薩長=善、江戸幕府=悪のような気持ちになるのを、両側の小説を同時に読むことで、かなり客観的に小説を読み進めることが出来ました。
で、「峠」の話。
主人公の長岡藩家老~河井継之助の人生を追った小説だったのですが、幕末に全国を歩き色んな人と交流を持ち、大家と言われた人々に教えを請い語り合うという若者達の行為には、我々音楽家が色んな音楽家と出会い、色んな物を吸収して、交流して自分の感性を高めるというのに少し似ているところがあると思いました。彼らは、日本の将来を危惧したり、自分の仕官のためや出世のためにその行為をしていたのですが、我々はただ自分の音楽の表現を拡げるためという目標は全然違いますけど・・・・。
歴史は変える事が出来ないと言いますが、今から見れば河井継之助も高杉晋作を初めとする幕末の志士達も同じ時代に生きています。少しのタイミングと関わっていた藩が違うだけで、こうも違う人生が待っていたのかと思わずにはいられません。薩長側と江戸幕府側という違いはあれど、生活してきた文化が大きく違うわけでもなく、修業時代は同じような過程を踏んできているのです。
実際、河井継之助のいる長岡藩が西軍に所属して、倒幕側になっていてもおかしくない歴史事実があるわけです。河井継之助は、中立をめざしましたが叶わないで、北越戦争に巻き込まれます・・・・・。
小説内の長岡藩を始め、米沢藩・庄内藩・会津藩・新発田藩など私が今生活している土地の人々の苦悩は、客観的にはなかなか読む事が出来ませんでした。
この小説だけを読み進めると、郷土愛からどうしても薩長=悪・佐幕派=善に強く感じてしまいますが、「世に棲む日々」を同時に読む事で、こういう人生もあるんだなと読み進めることが出来たのは、物事を一方からしか見ないというのに役立ったと思います。
ただ明治の新政府のその後を知る今となっては、河井継之助のような大物がいた方が良かったような気がします。領民を思い、藩を思い、国を思い出来る政治家の出現を期待しましょう。
河井継之助
長岡は毎年のように滞在しますので、あらためて河井継之助の記念館に行くと感動が違うかも知れません。この小説に出会って良かったと思いました。
物事の見方というのは、一方的ではなくて色々な角度から見ることや感じる事が出来るようになりたいと、いつも私は思っています。片方が絶対に「正義」だと思っているような事がもう一方には「極悪」だったりするのは、現代の世の中にも沢山あって、例えば米とゲリラの戦いなどは少々の話合いでは解決しない位に拗れてしまっています。
そこまで話が飛躍しなくても、私が生活日常でも沢山あります。善悪が全く逆の立場に挟まれるというような事は、日常茶飯事です。
さて、司馬遼太郎の「峠」を今回は面白く読みました。偶然なのですが、この秋に演奏旅行が多くて、持ち歩いている本が読み終わると土地土地の本屋に行き別の本を買う事が多々ありました。この「峠」は上中下巻3冊になっているので、上巻を読み終わった時に中巻は、家に置いてあるし他の本を読むかという事で、同じ司馬遼太郎の「世に棲む日々」を街の本屋で買って読み始めました。
同じ幕末の時期を書いた小説で、同じ作家の江戸幕府側と薩長側の人の物語を同時に読む事になったのです。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見てても思うのですが、どうしても主人公に肩入れして見てしまうのは普通の事ですので、もし「世に棲む日々」だけを読んでいたならば、薩長=善、江戸幕府=悪のような気持ちになるのを、両側の小説を同時に読むことで、かなり客観的に小説を読み進めることが出来ました。
で、「峠」の話。
主人公の長岡藩家老~河井継之助の人生を追った小説だったのですが、幕末に全国を歩き色んな人と交流を持ち、大家と言われた人々に教えを請い語り合うという若者達の行為には、我々音楽家が色んな音楽家と出会い、色んな物を吸収して、交流して自分の感性を高めるというのに少し似ているところがあると思いました。彼らは、日本の将来を危惧したり、自分の仕官のためや出世のためにその行為をしていたのですが、我々はただ自分の音楽の表現を拡げるためという目標は全然違いますけど・・・・。
歴史は変える事が出来ないと言いますが、今から見れば河井継之助も高杉晋作を初めとする幕末の志士達も同じ時代に生きています。少しのタイミングと関わっていた藩が違うだけで、こうも違う人生が待っていたのかと思わずにはいられません。薩長側と江戸幕府側という違いはあれど、生活してきた文化が大きく違うわけでもなく、修業時代は同じような過程を踏んできているのです。
実際、河井継之助のいる長岡藩が西軍に所属して、倒幕側になっていてもおかしくない歴史事実があるわけです。河井継之助は、中立をめざしましたが叶わないで、北越戦争に巻き込まれます・・・・・。
小説内の長岡藩を始め、米沢藩・庄内藩・会津藩・新発田藩など私が今生活している土地の人々の苦悩は、客観的にはなかなか読む事が出来ませんでした。
この小説だけを読み進めると、郷土愛からどうしても薩長=悪・佐幕派=善に強く感じてしまいますが、「世に棲む日々」を同時に読む事で、こういう人生もあるんだなと読み進めることが出来たのは、物事を一方からしか見ないというのに役立ったと思います。
ただ明治の新政府のその後を知る今となっては、河井継之助のような大物がいた方が良かったような気がします。領民を思い、藩を思い、国を思い出来る政治家の出現を期待しましょう。
河井継之助
長岡は毎年のように滞在しますので、あらためて河井継之助の記念館に行くと感動が違うかも知れません。この小説に出会って良かったと思いました。