廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

3つの禁句は封印して

2015年08月02日 | Jazz LP (Europe)

Rolf Kuhn / Solarius  ( 東独 Amiga 8 50 046 )


このアルバムを語る際に使われる3つの定型キーワードが「コルトレーンを消化したクラリネット」「モードジャズ」「フリー前夜」。
誰が言い出したのかはわかりませんがよほど気に入られたようで、このデッドコピーが出回っていますが、私にはこれは的外れに思えます。
無機質なジャケットデザインの印象がそういうイメージをより補強するだろうし、彼らのその後のキャリアに関する知識がそういう先入観を助長している
のはよくわかりますが、このキーワードはこれをまだ聴いたことがない人をミスリードしてしまうので、封印するほうがいい。

ここでやっている音楽は、完全にブルーノートの4000番台前半のマイナーキーのモダンジャズ。 ただ、ヨーロッパの白人の演奏なので黒人のブルース感が
まったくなく、そこがぴったりとブルーノートに重なることが無いので、そのズレた部分に欧州らしさを感じてアメリカ音楽にはない新しさを覚える。 
だから、これを聴いていいと感じないジャズ愛好家はいないはずです。 殆どの曲がマイナーキーなので強い哀感が漂い、夜の雰囲気が濃厚だから、
ジャズファンが喜ばないわけがない。 なので、私もこのアルバムがとても好きです。 ジャズの一番おいしいところがわかりやすく集約されている。

曲が普通のモダンジャズなのにピアノのヨアヒム・キューンがブルーノート・スケールを殆ど弾かないものだから、そこに普通のジャズにはない雰囲気が
出ていて、これがモードとかフリーという言葉を連想させるんでしょう。 また、ロルフ・キューンのクラリネットにはコルトレーンの影などはなく、
どちらかと言えばエリック・ドルフィーを連想させる吹き方をしています。 従来のクラリネットの吹き方ではなく、サックスのような吹き方をしている。
コルトレーンを連想させるのはロルフではなく、ミヒャエル・ウルバニャクのソプラノ・サックスのほうです。 ロルフ・キューンはアメリカでのジャズ修行で
得たものをそのまま披露しているにすぎず、ここでの実質的な音楽監督はヨアヒム・キューンだったんだろうと思います。


ドイツは他の欧州諸国とは違って植民地経営を殆どしなかった国なので、異文化流入のないまま純血的で閉鎖的な環境が長く続き、文化的には
極めて保守的でした。 それはクラシック音楽にはとてもいい作用を及ぼしていて、バッハの時代から流れるクラシック音楽の神髄のようなものが
まったく汚れることなく現代まで保存されてきた、いわば総本山になっていますが、ジャズやロックのようなポピュラー音楽には大きな逆風でした。
特に東ドイツはゆるい共産主義体制だったとはいえ、個人所有は排除されて多くのものが国有化・公共化されていたため、人々の文化的モチベーションは
総じて低く、60年代初頭でもジャズ・ミュージシャンはダンス音楽を演奏しなければ生きていけない有様でした。 だから、50年代後半から60年代初頭に
かけて多くの若者や文化人がベルリン経由で西側に流出したわけで、その中にロルフ・キューンも混ざっていたのです。

この知識の国外流出が社会問題となり、国内への締め付けが緩和されるようになってロルフはアメリカから戻ってきます。 そして制作したのがこのアルバムです。
もし時の政府がこの緩和を行っていなければこのアルバムは産まれることはなかったでしょうから、たかが一介のポピュラー音楽のこととはいえ、
その背景にはいろんなことの積み重ねがあってのことなんだなと思うと、このアルバムにもそれなりの重みのようなものを感じとることができます。


この Amiga というレーベルは東ドイツの唯一の国営レコード会社であった VEB Deutsche Schallplatten Berlin のポピュラー音楽部門のレーベル名で、
このレコード会社のレーベルのメインはもちろんクラシック部門の Eterna でした。 この "Solarius" は1964年11月の録音なので、オリジナルのマスターは
ステレオ録音だったはずですが、ステレオ盤は見たことがありません。 看板だったエテルナレーベルのほうは早くからステレオ盤を発売していましたが、
脇役のこちらはステレオ盤の発売まではしてくれなかったのかもしれません。 このレコード会社のモノづくりはとても優秀でクオリティーが高く、
エテルナのステレオ盤は総じて音質がとてもいいので、この "Solarius" のステレオプレスが出ていればきっと目の覚めるようないい音が聴けたでしょう。
ただ、このモノラルプレスもダイナミックレンジは狭いながらも十分にいい音で、特にベースの音が大きく綺麗に録れているので、これが夜の雰囲気を
作りだすのに大きく貢献しています。



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アイスランドのジャズ

2015年07月16日 | Jazz LP (Europe)

Jazzvaka A Hotel Sogu  ( Jazzvakning Records JV 002 )


アイスランド。 ノルウェーとグリーンランドの間に浮かぶ、北海道と四国をたしたくらいの大きさの島国で、人口は32万人、人口密度は1平方キロ当たり
3人(日本は337人)。 冬場は極夜になるので、人々は外出もせず、家に籠って本を読んだり音楽を聴いたりして過ごす、まさに氷の国。
そんな彼の地にもジャズは当然のようにあって、こうしてレコードだって作られています。 ただ、その種類はとても少ないらしくて、このレーベルも
非営利団体なんだそうです。 

トランペット、テナーを加えた2管クインテットで、1980年9月26日に当地のホテル・サーガで行われたライヴを録音したもの。 写真の中央に写っている
ベースの Bob Magnusson がリーダー扱いになっているようです。 この人はアイスランド出身ですがアメリカでプロとして活動している人で、音盤も
そこそこ出していたり他のいろんなレコーディングにも参加していて、我々に一番身近なところだと復帰後のアート・ペッパーの "Among Friends(再会)"
でベースを弾いています。 他の4人も皆アイスランド出身で、トランペットの Vidar Alfredsson は英国BBCのオケで仕事をしています。

とにかくこの5人は演奏がものすごく上手い。 ライヴでこれだけ一糸乱れず緻密で弾けるような演奏をする技量はファーストコール並みです。
特にテナーの Runar Georgsson は硬質で深みのある素晴らしい音を鳴らしていて、レイキャビクなんかに留まらずにもっと広く世に出て活躍してくれたら
いいのに、と思います。

スタンダードを2つ、地元の作曲家が編曲を加えたアイスランドの民謡をモチーフにした楽曲が3つというプログラムで、リーダーのベースソロに
スペースを大きく与えた演奏になっていますが、もうちょっと管楽器の演奏がしっかりと聴ければもっと良かった。  
録音は極めて良好です。

アイスランド独自の何かが音楽から感じられるかというとそういうことはありませんが(というか、そもそも何がアイスランドらしいのかもよくわかりませんが)、
現代のレベルの高いモダンジャズになっており、世評の定まったありきたりの名盤に食傷した耳には新鮮に響くマイナーなレコードとして愉しめます。



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価格の振れ幅

2015年04月19日 | Jazz LP (Europe)

Harold Ashby, Paul Gonsalves / Tenor Stuff  ( 英Columbia 33SX 1379 )


去年1年間にこのレコードが売られているのを3回見かけました。 1回目は100,000円、2回目は60,000円、そして3回目は18,000円で、
これは私が買わせて頂きました。 更に、DUの買取WANT価格が15,000円、つまり売価は32,400円くらいということです。
1枚のレコードの価格で同時期にこれほど振れ幅が大きかったものは、私が見た範囲ではこれが1番でした。

廃盤価格は時価なのでどれが正しいということは当然なくて、その時に自分が買えるかどうか、若しくは欲しいと思うかどうか次第です。
使えるお金の嵩は時期によって大きく波があるし、どのレコードを欲しいと思うかも自分の中のマイブームには大きな波があります。
要は、タイミングの問題でしかないわけです。 

この「タイミング」という見えざる神の手が作りだす大きな波に翻弄されながら、愛好家はレコードを買い続けて行きます。 
そして、この不安定な波にゆらゆらと漂うことを楽しめるかどうかで、レコード漁りという趣味の質は大きく変わっていくような気がします。

1回目に見たものは問い合わせやウォントが多いからそういう値段でもイケると踏んだのかもしれないし、あるいは委託品だったのかもしれません。
3回目のものは盤もジャケットもきれいなのに(相対的に)安かったのは、転売ではなく個人所有のものを売りに出したからなのかもしれません。
そういうバックヤードは藪の中でよくわかりませんが、いずれにしても、ゆらゆらと漂う中での邂逅でした。

ネットのせいで価格の一極化が進む中で、こういう風に値段がばらつくものがあるのは有り難いことです。
じゃなきゃ、レコード漁りをする愉しみは無くなります。

今回はこのレコードの内容には触れません。 書くと、悪口しか出てきそうにないからです。
私はデューク・エリントンの音楽が何より好きなので、それを演奏してくれているメンバーの悪口はできるだけ書きたくない。

最近めでたくCD化されましたので、高いオリジナルを買う場合は事前に聴いておかれるとよいと思います。
聴き手をかなり選ぶ内容だと思います。



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ジャケ買いの1枚

2015年03月29日 | Jazz LP (Europe)

Various Artists / Swingin' The Blues  ( Tempo Tap 21 )


英国ジャズの何たるかが全くわかっていなかった頃に、ただただジャケットに惹かれて買った1枚。 収録された曲の半分はそれまでに発売された
レコードには時間の関係で収録されなかった曲で、残りの半分は既存の7inchやアルバムからピックアップされている、いわゆるオムニバス盤。

ジャンルを問わず、レギュラー盤から外された楽曲というのは当たり前ですがやっぱり出来が悪いというのが一般的です。 ジャズで言えば
"Cool Struttin'"セッションがいい例で、収録された4曲と選から外れた楽曲の出来の落差はあまりに激しく、同じセッションだったとは
到底思えない。 だから再発時に別テイクを加えることに賛否両論が出てくるのは当然だろうと思います。

ただ、マニアとしては未発表曲や別テイクがあるとなれば聴いてみたいと思うわけで、そういう意味ではこのアルバムのような編集のしかたは
合理的かもしれません。 はじめからそういうものだ、と思って聴けば内容の出来不出来を考える必要もないし、気が楽です。

こういう編集盤は時間を置いて作られるのが普通ですが、この盤のように全盛期のラインの中で作られるのは珍しい。 そのおかげでチープな
ジャケットではなくこだわりのデザインで作られたのは、内容は別にして、運が良かったんだなあと思います。



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時間が止まってしまうということ

2015年01月18日 | Jazz LP (Europe)

Don Byas et ses rythmes / Les Plus Celebres Melodies Americaines  ( 仏 Blue Star No 6802 )


1912年にオクラホマで生まれたドン・バイアスは、17歳の時に地元のジャズバンドで演奏を始め、ロス、ニューヨークと拠点を移した後、1946年に
演奏旅行で渡欧したのをきっかけに、そのまま帰国せずに残り、1972年に亡くなるまで欧州で暮らした人です。

名前は有名なのにアメリカの主要レーベルに彼のレコードが全く残っていないのはそのせいですが、これは大きな損失だったと思います。
50年代の欧州のジャズレコード産業は本当に零細状態だったし、この人の演奏を記録に残そうという志を持った人もいなかった。
それだけジャズという音楽は人気がなかったし、アメリカのように新興レーベルを興そうなんていうベンチャー精神の土台もなかった。
だから、50年代という時代はドン・バイアスの演奏史においては、一部の客演を除いて、完全にミッシングリンクとなっています。

だから、この人の演奏を聴くには40年代のSP録音か、60年代後半の数少ないレコードくらいしかないので、実際にはどういう音楽家だったのかは
今となってはよくわからないと言わざるを得ない。 渡欧直後の46~49年にフランスのブルー・スターやヴォーグがSP録音を熱心に行っていて、
たぶん、これが若い頃の彼の姿を唯一まともに捉えた音源だろうと思います。 この時の録音は、フランスではブルー・スターやヴォーグ、
イギリスではフェルステッド、アメリカではアトランティックから50年代初頭にLPの10inch盤として切り直されています。

ただ、この時期の内容はジャズというよりはムード音楽に近いもので、ワンホーンで古いアメリカの歌モノのバラードをアドリブを入れずにゆったりと
吹き流すだけの演奏です。 しかも元のSPも10inchサイズだったので、どの曲もおそろしく短い演奏時間です。 とてもドン・バイアスのジャズの
演奏の真髄を聴く、というにはほど遠い内容です。

でも、これは仕方のないことです。 これが、当時の社会の要請だったということだと思います。 本場からやって来たジャズの巨人ということで
大事に迎えられ、その演奏を目の当たりにした人々が彼に録音して欲しいと望んだのがこういう内容だった、ということだったんだろうと思います。
いわゆる男性的な太く低い音で悠々と吹く人ですから、そのバラード演奏にみんなが酔いしれたんでしょう。 きっと、当時はまだ小僧だった
バルネ・ウィランやベント・イェーディグも、彼の生の演奏をかぶりつきで聴いていたんじゃないかなあと思います。

デューク・エリントンによると、40年代後半から50年代のアメリカのジャズ界は弱肉強食の生きるか死ぬかの競争社会だったそうです。
そういう環境に身を置くことがなかったドン・バイアスは、ある意味では1946年で時間が止まってしまっていたのかもしれません。 
そして、それは現在の我々のような聴き手も同じなのかもしれません。

もちろん欧州でも若手が切磋琢磨していたとは思いますが、このレコードを聴いていると、年齢的に血気盛んな時期を過ぎていたこの人は
そういう喧噪からは距離を置いたところにいつもいて、こんな風に悠々とテナーを吹いていたんだろうなあ、と思ったりします。



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想定外の仕上がり

2015年01月11日 | Jazz LP (Europe)

Dino Piana / Cosi' con Dino Piana  ( Ricordi MRL 6020 )


この人は息の長い演奏活動をしているにも関わらず録音が少なく、名前は知られていても演奏の実態はあまり知られていないのが実情なんだろう、
と思います。 その少ない録音も大半は和声の補強要員としての参加で、LP期でしっかり演奏が聴けるのはおそらくこのアルバムくらいなんでしょう。

このアルバムの特徴はピアナの実像がよくわかるということ以外にもう1つあって、それは内容に "欧州臭さ" がまったくないということです。
演奏のアレンジ全体をピアノのレナート・セラーニがやっているのですが、これが功を奏したんだろうと思います。
ベースがジョルジョ・アッゾリーニ、ドラムがフランコ・トナーニという顔ぶれなのに、まるでアメリカの地味なマイナーレーベル
~カールトンとかクラウンとかドットとか~ に収録されたかのような牧歌的で陽気な音楽になっているのが不思議なところです。

ヴァルヴ・トロンボーンのワンホーンという珍しい編成で、こういうのは一般的にはあまりジャズのスモールコンボとしては向いていませんが、
ピアナはマイクロフォンに楽器を近づけてアタックの強い音で吹いている感じなので、こもって聴こえがちなこの楽器の音がクッキリと録れています。
4人の演奏はとても闊達で、上手いです。 だから、どの楽曲にもとてもメリハリが効いています。

アメリカのスタンダードを1曲も取り上げず、イタリアで作られた楽曲だけを演奏するという自国のアイデンティティへの強いこだわりを見せていたり、
現代ジャズではよく演奏されるB.マルティーノの "Estate" を早くも収録していたり、と独自の感性で作られたアルバムですが、その内容は意外にも
アメリカのマイナー・ジャズっぽく仕上がっており、そこに"田舎の陽気なカンツォーネッタ"というフレーバーが加わった、面白いレコードだと思います。
バッソ&バルダンブリーニやイデア6のイメージで聴き始めると、ズッコケます、きっと。



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頂上を目指して真っすぐに進むアルバム

2014年12月29日 | Jazz LP (Europe)

Tete Montoliu Trio / A Tot Jazz 2  ( Concentric 5703 SZL )


このころのテテ・モントリューはまだコードをたくさん鳴らしてメロディーを構成するスタイルで、単音でフレーズを紡ぐ時はどこを切っても
バド・パウエルのフレーズそっくりの、まだまだ発展途上のピアニストでした。 特にこのレコードを聴くと、この人はバド・パウエルの演奏をお手本に
練習していたんだなあ、ということがよくわかります。

ところが、そのパウエル・ラインに被さってくるのが当時世界を席巻していたコルトレーン・カルテットのサウンドの影響をモロに受けたベースとドラムで、
その中でもビリー・ブルックスのドラムはエルヴィン・ジョーンズのドタバタ太鼓のまんまコピーなので、ジャズに精通したリスナーはバド・パウエル~
ジミー・ギャリソン~エルヴィン・ジョーンズという、決してあり得ないはずのピアノ・トリオを聴いている感覚に面喰ってしまうことになります。

ピアノの上手さはこの時点で既に完成していて、最後に収められた "ソルト・ピーナッツ" の長いアドリブを一息で弾き切ってしまう様子は圧巻です。
まるで雪解けで水量の増した渓流の早い流れを見ているようで、ピアノの音が発する情報量のおびただしさにこちらが押し倒されてしまう感があり、
そういう意味においてはジャズピアノというよりはクラシックピアノに近いものがあります。

楽曲が本来持っているモチーフをドラマチックに表象させるのがとにかく上手い人で、"チム・チム・チェリー" の8小節の主題からブリッジに移る時の
ジェットコースターのような急降下ラインは、場面転換時に流れる舞台歌劇曲のようだし、"シークレット・ラヴ"ではモードジャズっぽい独特の
アレンジで最後まで幻想的に進みながらも、なぜか懐かしいビング・クロスビーの歌が聴こえてくるような美旋律の陶酔感があります。

これを聴いていると、この録音の3~4年後にやってくるこの人の音楽的頂点に向かって真っすぐに伸びた道が見えてくるような気がしますが、
上記のような音楽的にかなり凝った仕掛けがあちこちに施されているなかなか高度なアルバムです。



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軽さに拍車がかかった音楽

2014年11月24日 | Jazz LP (Europe)

Franco Cerri / International Jazz Meeting  ( 伊 Columbia 33QPX 8018 )


前回のレコーディングから1年半後、再びコロンビアのスタジオにメンバーが集まり、似たようなアルバムが制作されます。

ただし、ここで聴かれる音楽は前回のものと比べると少し音楽らしさを取り戻していて、1年半という時間の経過を実感できます。
バッハだって、平均律クラヴィーアの第1集は未熟な曲想だったのに、20年後に再度創った第2集ではグッと深みが増したんですから、
アーティストにとって時間の重みというのは重要なんだな、ということがよくわかります。

なぜかはよくわかりませんが、全体的に南米の演奏家が演奏するジャズを聴いているような雰囲気があります。 内省の欠落したような、
どこか枯れた諦観が漂うようなところがあります。 この変化は何だろう、と訝しい気持ちで聴いていると、短い演奏はあっという間に終わります。

前回のゲストはラース・ガリンで、ちょこっと顔を出しただけで何のために参加したのかよくわかりませんでしたが、こちらはバルネがソプラノで
参加しており、アルトのフラヴィオがソロを全然取らないのでかなりの存在感があります。 

もう1つ不思議なのは、前回のレコードよりも新しい録音にも関わらず、こちらの再生音は全体的にエコーが強めにかかっているせいか、
かなりフォーカスが甘くぼやけていて、音場も1歩後退したような音になっていることです。 レコードは同じ時期に製造されたようですが、
音の良さで言えば前作の方が遥かにいい。 このアルバムはCDも聴いてみましたが、はっきり言ってレコードとはほとんど差異はなかったです。
CDはレコードの雰囲気をうまく捉えられていて、よくできています。

バルネが入っているということで特別視されているようですが、ソプラノをメインに吹いているので豪放さは微塵もないし、そもそも音楽自体は
サロンミュージックのような軽いものなので、実際に聴くと事前のイメージとはかけ離れた内容にがっかりする人もいるんじゃないでしょうか。

無責任に飛び交う流言飛語に踊らされずに、よく見極めることが必要かもしれません。



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欧州版 Norgran

2014年11月23日 | Jazz LP (Europe)

Franco Cerri / And His European Jazz Stars  ( 伊 Columbia 33 QPX 8010 )


このレコードの印象を一言で言うと、「欧州のノーグラン・レコード」。

フランコ・チェリのギターはとにかくタル・ファーローにそっくりで、もっともあれほど上手くはなくて技術的にはその足許にも及びませんが、
ブツブツと歯切れのいい音やフルアコらしい音色の作り方がまったく同じです。 また、グループのアンサンブルのスカスカ感といい、
重心が高く地に足がついていないようなテンポ感といい、バップ色やブルース感の一切ないノーマン・グランツのレコードに一貫して見られる
「中庸なジャズ」と瓜二つな内容が展開されます。 

ノーマン・グランツは最盛期がとうに過ぎて老齢に差しかかった巨匠ばかりを好んで使ったのでああいうレコードになった訳ですが、ここに集まったのは
若くこれから登り坂を上ろうとする演奏家がメインだったのにこういう演奏になったのは不思議です。

曲によって演奏者の構成がクルクル変わるので全体的な統一感がなく、かなり散漫な印象です。 その中で目立つのはフラヴィオ・アンブロセッティの
アルトですが、この楽器特有の軽快さがない吹き方なので少しテナーっぽく聴こえます。 これだけがグループの中で老成した演奏なので、
アンサンブルの中にうまく馴染めずに浮いている感じが否めませんが、それ故に却って演奏が前に押し出されていて、他ではあまり聴く機会のない
この人の姿がよくわかります。 欧州ジャズらしく各々の演奏はしっかりしていますが、唯一、ジョルジュ・グルンツのピアノだけがヘタで耳障りです。
早々とアレンジャーへとシフトしたのは正解だったんだなということがわかります。

こうやって部分的なところばかりに耳が行くことからもわかる通り、全体的には音楽的な情感が乏しく、聴いていても心を動かされることはないので、
そういう切り口での褒め方はできません。 歌劇の国の音楽とはとても思えない内容だけれど、ただ、このレコードは大手レーベルの確かなモノづくりの
おかげで音がいいし、ジャケットや盤の質感も高いので、コレクターが有り難がる理由はよくわかります。 だから、聴くためのレコードではなく、
持つためのレコードだろうと思います。

英国やイタリアのコロンビアの音源はアメリカではエンジェル・レーベルがライセンス販売していましたが、アメリカ盤は見たことがないし、
あるのかどうかもよくわかりませんが、60年代初頭にリリースされたこの内容をアメリカに持って行っても、アメリカ人から見れば自国では
10年近く前に作られていたような音楽をなんで今更、という感じだったんでしょう。 相手は、既に "Kind Of Blue" を産み出していた国です。
フランコ・チェリ本人も、これでは恥ずかしくて持ってはいけなかったでしょう。



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選から漏れてしまった英国ハードバップ

2014年11月09日 | Jazz LP (Europe)

The Jazz Five featuring Vic Ash and Harry Klein  ( 英Tempo TAP 32 )


普段はけなしてばかりの英国ジャズですが、中には「これは凄い」と思うものも当然あって、その筆頭がこのレコードです。

ヴィクター・アッシュという人はクラリネット奏者という印象が強いですが、実際はサックスもよく手にしていたようで、このアルバムもテナーを
吹いています。 ただ、クラリネットの印象が先行しているせいか、欧州の名盤が語られる際にはこのレコードはいつも選から漏れてしまって
いるような気がします。 でも、仏のアルバニタの "Soul Jazz" や独のナウラの "European Jazz Sounds" と互角に張り合える英国産は
これだろ、といつも思うのです。

テナーとバリトンの2管フロントという超重量級のサウンドで全編が固められた素晴らしいハードバップで、文句の付け処が見つからない。
収録された6つの楽曲がどれもみな素晴らしいですが、特にA面最後の "Hootin'"、B面最後の "Still Life" がカッコいい。 
演奏の技量も非常に高くて、ほころび1つありません。 まるで現代の最優秀な常設グループの演奏のようです。
作品が他にもあるのかどうかわかりませんが、一定期間レギュラーグループとして活動していたのかもしれないと思わせる纏まりの良さも見事で、
アルバムがこれ1枚しかないのだとしたら、本当に残念なことです。

唯一のスタンダードの "Autumn Leaves" では間奏をクラリネットで吹きますが、バックのハードバップサウンドにクラリネットの音色が絶妙に
ブレンドされて、こんなサウンドカラーは他では聴いたことがありません。 そういうセンスの良さもあちこちで光ります。
アメリカのハードバップを詳細に研究した跡が伺えますが、その模倣にならずにきちんと自分たちの音楽を作り上げているところが素晴らしい。

1960年の晩秋にロンドンのデッカ・スタジオで録音され、レコードのプレスもデッカ工場でされているので、音質も極上の仕上がりです。

スター・プレイヤーがいない地味なメンツのせいかあまり目立たないレコードのようで、英国内でもこのレコードの存在を知らない人が結構いる
という話を教えてもらったことがあります。 でも日本の愛好家には普通に知られており、つくづく日本はすごい国だなと思います。



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チェット・ベイカーにみるウェストコーストジャズからの脱皮

2014年11月02日 | Jazz LP (Europe)

Chet Baker / Quartet  ( 仏Barclay 84017 )


ウェストコースト・ジャズが嫌い、と言いながらもどういう訳か嫌いなままじゃいけない気がして、どうしてだろうと考えてみたり、どこがダメなのかを
探るために何度も聴きかえしてみたりします。 別にそんなことする必要はないとは思うんですが、まあ、ヒマだからなのかもしれません。

ただ、どんなにパシフィック・ジャズのレコードを聴きかえしてみてもよくわからないので、そういう時は目線を変えてみようということになります。
そうすると、例えば昨日のマルコ・ギドロッティのCDを聴くと、マリガンたちのやった曲はバップとしても演奏できるのに、彼らは意図的にそうは
しなかったんだな、ということがわかります。 

マリガンがチェットとコンボを組んでいたのは1952年から53年にかけてのたった1年間だけだったにも関わらず、その音楽がその後の西海岸のジャズの
方向付けを決めてしまったというのは驚異的なことです。 52年の時点でピアノレスにしたことは先見性の高い画期的なことでしたが、そこでできる
サウンドの空白をトランペットが大きな音で埋めようとはしなかったことがこのバンドの卓越したところだったと思います。 
それを担ったのが、チェット・ベイカーだったわけです。

53年にマリガンが麻薬の不法所持で投獄されたのでバンドは解散、チェットはソロ活動を開始します。 そして、55~56年に欧州へ渡って、フランスの
バークレー社にまとまった数の録音をします。 ここで聴かれる音楽はパシフィック・ジャズのレコードの延長線上にあるもので、音楽監督がいない分、
型にはめられることのない自由さはありますが、それでもやはり観葉植物のような印象です。 変なアレンジがされていないので鼻につくことは
なくなりましたが、退屈です。 フランスのリズムセクションはあくまでもチェットがそれまでやってきた音楽に合わせようとしたため、新しい音楽が
生まれることはなく、それまでの相似形で終わってしまっています。 チェット・ベイカーという名前のおかげで許されているようなところがあります。




Chet Baker & Paul Bley / Diane  ( SteepleChase SCS 1207 )


それから大きく時間を経て、チェットは変わります。 トランペットや歌の様子はあまり変わりませんが、彼が作る音楽が変わるのです。
かつての飛び出ることを恐れてわざと平均点を狙っていたような様子はどこにも見られず、この人にしかできない独特の音楽をやるようになりました。

ライヴ録音は体力の衰えが痛々しく聴いていて辛くなるものもありますが、スタジオ録音には良い内容のものが結構あります。
その中でも、このポール・ブレイとのデュオ作品は素晴らしい傑作です。 スティープルチェイスの音盤はデッドな録音が多くて興をそがれることが
多いのですが、この盤は豊かな残響感としっとりと濡れたような楽器の音が素晴らしいし、ポールの音数を極力抑えたプレイとチェットの
いつになくイマジネイティヴなフレーズの共存がとにかく素晴らしく、静かな音楽にも拘らず聴く者を圧倒します。

やはり、ウェストコースト・ジャズは東海岸へのアンチテーゼとしては強力に作用したけれど、それにこだわり過ぎて何か肝心なものを置き去りに
してしまったんだろうな、と思うのです。




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Charlie Mingus が残してくれたもの

2014年10月19日 | Jazz LP (Europe)

Lars Lystedt Sextet / Jazz Under The Midnight Sun  ( Swe Disc SWELP 10 )


60~70年代のジャズを聴いているとチャーリー・ミンガスの影を感じることが結構あって、特に辺境の地に行くほどそれは多いような気がします。

日本人は元々音楽に対して教条主義的に接する悪いクセがあるので、チャーリー・ミンガスのような思索的な音楽を前にすると畏怖の念を持って
しまいがちで、理解もできないし好きでもないのに褒めたりしますが、西洋の人々はもっと直感的に、肉感的に彼の音楽を聴いているような気がします。

私が20年振りにレコード買いを再開する前の下調べでネット検索をしていた時、クラブジャズが流行った頃にさかんに書かれたブログの残骸の中に
このラース・リーステットのレコードがよく載っていて、The Runner という曲がカッコいい、とやたらと褒められていました。 へえ、そうなのか、
と思い、程なく手に入れて聴いてみましたが、私が感じた印象は少し違うものでした。

このアルバムは、ブルースの形の崩し方、管楽器の音の発色やハーモニーの重ね方、馬の嘶きのようなサックスのフレーズ、祝祭的な調子はずれの
旋律など、あきらかにミンガスの音楽の影響が濃厚です。 もちろんそれだけではなくて、独特の北欧的な暗さが全体を覆っていることや平均律からの
逃走を試みるピアノのフレーズの多用などがブレンドされているので、一聴すると他では見られないオリジナリティーで武装していると感じますが、
それでも彼らがミンガスの音楽に心酔していてこれを創ったんだろうな、ということが容易に聴き取れます。 でも、そういう複雑な構成要素が
混乱することなく整理されているところにセンスの良さがあって、それが多くの人を魅了するのだと思います。 まあ、いいレコードです。

そう言えば、その昔、ヴィンテージマインでこのレコードが何年もの間、売れ残ってポツンと置かれていたのを思い出します。 セカンドプレスだった
せいかもしれないし、その割に高額だったせいかもしれませんが、大きな部屋の窓際の隅っこに設けられた欧州盤コーナーに長い間残っていました。
もっとも、当時この盤のことを知っていた人はほとんどいなかったはずで、あれがセカンドだなんて誰にもわからなかったか・・・



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渡米前の Victor Feldman

2014年08月10日 | Jazz LP (Europe)
私はアメリカ西海岸のロックが昔から大好きで今でも日常的によく聴くのですが、そういう音楽の中でヴィクター・フェルドマンの名前を
時々見かけます。 彼は渡米して西海岸に住んだので、自然とそういう人たちとの交流ができたのでしょう。 昨日もアーロ・ガスリーの
CDを聴いていたら彼の名前が出てきたので、こんなところにも参加してるのかと少し驚きました。

ヴィクター・フェルドマンは変化にきちんと対応できた賢いミュージシャンで、アメリカに移住してから音楽の幅が大きく拡がりました。
ロックのレコーディングにも積極的に参加したけど、そもそもそういう人たちから誘ってもらえるということが凄いことです。
英国ジャズで好きな人はいませんが、唯一、この人だけは自分から殻を破って外へ行くことができたので偉いなと思います。

渡米前の若い頃は、英国でオーソドックスで辛気臭いジャズを真面目にやっていて、その片鱗は少し記録に残っています。



Victor Feldman Septet  ( Tempo LAP 5 )

ディジー・リース、ジミー・デューカー、デレク・ハンブルが加わった七重奏団による演奏ですが、これが例によって何がやりたいんだかが
よくわからない演奏に終始しています。 アメリカの白人ビッグバンドのスタイルで退屈な楽曲をやっているのですが、若者たちが集っているせいか
勢いはあります。 ただ、聴いていてもすぐに退屈になるので、ディジー・リースの音はドナルド・バードにそっくりだなあ、とか、デレク・ハンブルの
アルトソロが聴けるのは珍しいけどこの人はなんでリーダー作がないのかなあ、とか、そういうどうでもいいことを考えるようになります。

一定の調性とリズムの上で持ち寄った楽器たちがただ鳴っているのを聴いているだけで、音楽を聴いているという実感が持てません。
私が英国ジャズを嫌うのは、そういうものが圧倒的に多いからです。

聴き終わっても、どういう曲だったのかがさっぱり思い出せないし、どういう演奏だったのかも思い出せない、管楽器が勢いよく鳴っていて、
その背後でヴィブラフォンが鳴っていたなあ、という印象しか残りません。 どこかでこの音楽が流れていても、自分がそのレコードを持っているとは
全くわからないんじゃないか、と思います。 裏を返せば、聴くたびに初めて聴く演奏のように思えるから新鮮かもな、という訳のわからないことに
なりかねないレコードです。



Victor Feldman / Modern Jazz Quartet  ( Tempo LAP 6 )

こちらはヴィブラフォンにピアノトリオという編成でスタンダードも少し入っています。
明らかにMJQを模倣していて、全体的にしっとりとして落ち着いた演奏になっていて、これは内容的にはいいんじゃないかと思います。
ただ、この10inchくらいの長さでちょうどいい感じであって、これ以上長くなると変化の無さに飽きてくるだろうと思います。


ヴィヴラフォンはピアノとパーカッションの合いの子のような楽器で、きれいな音がなることにかけては随一ですが、インパクトがある分、
最初の感動はすぐに薄れるし、人間の身体に直接触れずに鳴らすので音色の変化も出しづらい。 これ一本でやっていくのはいろいろ難しいだろう
というのは容易に想像できる訳で、この人もピアノやパーカッションでもレコーディングするようになります。 でも、この人は楽器の種類だけ
ではなく、自分がやる音楽そのものも拡げていけたので、音楽家としての寿命は長かった。 上記のレコードに参加している他の面々はそうは
なれなかったわけで、楽しきゃそれでいいでしょ、ということだけでは世の中やっぱりマズイようです。




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ビッグバンドを支えた人たちの矜持

2014年07月20日 | Jazz LP (Europe)

The Third Herdmen Blow in Paris Vol.1  ( 仏Vogue LD.204 )


私が嫌いなジャズは、ウェストコースト・ジャズ、50年代の欧州ジャズ、現代のきれい系ピアノトリオ、の3つ。 最初の2つは既に絶滅したので
もういいですが、最後のは未だに世界中で跋扈しています。 

DUの新着中古CDを物色していると、それらの半分以上はピアノトリオものです。 これだけ音盤が溢れていると、ピアノトリオものが好きな人は
買うのが大変なんだろうなあ、といつも溜め息が出ます。 1つ1つの違いがさっぱりわからない(AKBとモモクロの違いがさっぱりわからないのと
同じような感じ)のは、あながち自分が興味ないからだけとは思えません。

絶滅した2つのほうはもちろん好きなレコードはそれなりにありますが、総論としては嫌いです。 欧州ものでざっくり言えば、スペインやデンマーク、
北欧の一部はいいと思うのですが、英国やフランスは駄目。 特に、英Tempo、EsquireやVogue/Swingなんかを聴いていると、この人たちは
ジャズという音楽の肝がなんにもわかってなかったんじゃないか?と思ってしまいます。 レコードの意匠が素晴らしいのは私もそう思うので、
コレクターが有り難がるのは当然だと思いますが、工芸品の意匠の話と音楽の話はまったくの別物です。 

そういう何がやりたいのかさっぱりわからない音盤の中で、アメリカから渡欧したミュージシャンが現地で録音したものを聴くと、そのまともさに
胸をなでおろすことが多い。 この2枚も、そういうレコードの1つで、ウディ・ハーマン楽団が54年に渡欧した際にメンバーの一部が仏Vogueに
録音したものですが、Vogue/Swingのレコードという切り口で聴くと、他の駄目盤との無意識の対比のせいでかなりまともな演奏に聴こえます。 



The Third Herdmen Blow in Paris Vol.2  ( 仏Vogue LD.205 )


全体の印象は、ビル・パーキンスやラルフ・バーンズ以外は無名に近い人ばかりなのに、やはりビッグバンドで鍛えられた人たちの演奏は基礎体力が
全然違うな、ということです。 それに加えて、どうすればグループとして音楽を上手くやれるかがわかってるんだな、ということが理屈抜きに
聴き手に伝わってきます。 アンリ・ルノー作の非常につまらない楽曲もこの人たちが丁寧に演奏するもんだから、普通に聴けてしまいます。
これがこのレーベルお抱えの人たちがやったらつまらな過ぎて眠ってしまうところです。

"Thanks for You" という小さなバラードを Jerry Coker というテナー奏者が吹きますが、ブラインドで聴かされたらほとんどの人が
「スタン・ゲッツ?」と言うでしょう。 こんなサックス奏者がちゃんといたんだ、と感心してしまいます。


全体的に好印象な書き方ですが、但し、これはVogueのレコードとしては、という前提条件がつきます。 このメンバーの演奏なら、本来は米デッカや
キャピトルのようなアメリカのレーベルで録音されていたはずで、もしそういうレコードなら、誰も見向きもしなければ褒めもしないレコードに
なっていたでしょう。 バップではないし、当時の多くの白人ミュージシャンがやっていたブルース感の希薄な淡泊でスコアアレンジな演奏で、
録音も悪く、今の中古市場ならせいぜい1~2千円くらいの値段が関の山な内容です。

私だって2枚とも5千円で買ったので余裕綽々な感想を書いていますが、これが数万円で買っていたら、レコードを床に投げつけて「カネ返せ!」と
怒鳴っていたと思います。 盤はどちらも無傷でこのレーベルには避けられないプレスミスもないのですが、ジャケットの4辺がテープ張りされて
いたせいで(きれいに剥がれましたが)こういう値段だったんだろうと思います。 じゃなければ、音楽としてはつまらないことはわかっていたので、
このレコードはきっと買うこともなかったと思います。

ジャケットにテープを張るなんて我々マニアには言語道断の愚行に思えますが、裏を返せば、レコードを大事にしようという気持ちの現れだった
のでしょう。 そのおかげで盤面はきれいな状態で維持されたのかもしれません。




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説明が難しいレコード

2014年06月01日 | Jazz LP (Europe)

Roy Haynes ( 仏 Swing M.33.337 )


昨日ダメ出しした Jimmy Gourley は、ここにもその名前が見られます。 この頃の録音にはよくあるいろんな楽器のごった煮のようなセッションで、
テナー、バリトン、ギターを入れたセクステットが何をやりたいのかよくわからない演奏を繰り広げますが、バルネの初録音とも言われる演奏が
聴けることや渡仏したロイ・ヘインスを中心にしたよく纏まった演奏になっているところなどはまあまあいけるかな、という内容です。

"Jordu"ではギターがテーマの主旋律を弾いてアンサンブルを引っ張るアレンジで悪くないかなと思いますが、他の曲では陰影に乏しい単音の
フレーズを弾いていて、アメリカのギタリストたちと比べると魅力に欠けます。 この人も確か生まれはアメリカだったはずですが、
この頃から既にフランスで活動をしていたようです。 

この頃の古いレコードというのは内容の説明が難しくて、これ以上何か書こうにも何もなくて本当に厄介です。 聴くべきところも見当たらず、
未熟な音楽という以外に何もありません。 そう考えると、同時期にアメリカで大量に作られていたダンス・ミュージックなんかはレコードと
しての価値は低くても、内容は立派だったなあと思います。 少なくとも、それなりに楽しめますからね。 こういう無味乾燥なレコードを
聴いた後は、例えばボビー・ハケットのキャピトル盤のような優美なレコードが聴きたくなりますが、今は持ってないんだよなあ・・・・




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