廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

グルダの本音はどこにあったか

2020年10月17日 | Classical

Freidrich Gulda / J.S.Bach, Prelude and Fugue No.32, W.A.Mozart, Sonata No.8  ( 英 Decca LXT 2826 )


フリードリヒ・グルダの本業はもちろんクラシック。ウィーンで生まれ、モーツァルトを最も敬愛し、「モーツァルトが生まれた日に
自分も死ぬ」と公言し、本当にそうなった。まあ、変わった人である。

ジャズへ転向すると言って世間を騒がせたり、似合わない変な帽子をいつも被っていたり、とクラシックの世界ではその演奏力は
認められていたにも関わらず、一般的にはやはりちょっと変わった人という感じで見られていたように思う。

グルダの演奏を順を追って聴いていくと、やはりジャズにハマっていた前と後では、その演奏が変わっていることがわかる。
私は彼が再びクラシックに軸足を置くようになった後期の演奏はどうも好きになれずまったく聴かないが、前期のデッカと契約していた
頃の演奏には興味深いところが色々あって、面白いと思いながら聴く。

彼のレパートリーは基本的に保守的で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンをメインにしていた。そして、そういう正統的な
保守派の音楽の中に型破りな新しい風を吹かそうと常に模索していくという、ちょっとややこしい音楽家だった。そういう思考が
彼をジャズへと走らせた訳だが、そういう片鱗はまだ若かったデッカ時代の演奏の中にも見て取れるのが面白いと思うのだ。

ここにはバッハの平均律とイギリス組曲から1曲ずつと、モーツアルトのイ短調のソナタとロンドが収録されている。
バッハの方はまずまずオーソドックな演奏なのだが、問題はモーツァルトの方だ。この第8番にはグールドの怪演があって、
あれが耳から離れないわけだが、その二十年も前にグルダは前哨戦のような演奏を残している。

グールドほどは振り切れていないけれど、かなり似たような感覚でこのソナタを演奏している。少なくとも、当時他のピアニストが
演奏していたマナーとは全然違う弾き方をしている。尤も、その戦略は周到に隠されていて、パッと見はわからないように
細工されてはいる。まだこの頃は型破りな芸風は大っぴらにはできない、と考えていたんだろう。でも、どれだけ隠そうとして
みても、隠しきれない想いが溢れ出ているのがわかる。

この演奏を聴いていると、グルダがジャズ・ピアニストになると言って周囲を驚かせた気持ちが私にはよくわかるのである。
コロンビア盤で伸び伸びと気持ちよさそうに演奏していた姿は、彼の素の姿だったに違いない。


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愛憎半ばするピアノ

2018年03月04日 | Classical

Wilhelm Backhaus / Bach English Suite No.6 In D Minor 他  ( 英 Decca LXT 5309 )


私は子供の頃、ピアノの個人レッスンを受けていた。 幼稚園に入る前から中学3年の夏頃までのことで、高校受験の勉強をしなきゃいけないからという
理由で辞めたけれど、それは本当の理由ではなくて、ただ単に練習が嫌いなだけだった。 音大に行くとかプロのピアニストになるというような明確な
目的がない限り、多感な中学生の男子が家で一人ピアノの練習に向かうなんてことは所詮無理なのだ。

ただ恐ろしいことに成長期の経験というのは脳や身体の中に刻まれてしまうもので、ピアノの音や演奏を聴く時の感覚が他の楽器の時とは違う感じに
なってしまっている。 他の楽器は音楽を愉しむためのツールとして純粋に聴けるのに、ピアノだけはその音や演奏の欠点ばかりが無意識のうちに
耳についてしまう。 だから、ピアノの演奏を聴く時はどうしても構えてしまう。 なんて不幸なことだろう、と思う。

鍵盤をどう叩けばどういう音が出るとか、鳴らした音の残響がどのくらいの時間で消えるとか、この旋律を弾くときは身体の筋肉はこういう感じで
動いているとか、そういうことを頭がしっかりと覚えているから、そういう自分が内部に感じる感覚と聴いている演奏の感じが合わなかったりすると、
そこで音楽への興味が失せてしまう。 音の消し方が早過ぎるとか、そんなに雑に走らずにもっと溜めていかなきゃとか、無意識のうちに色んな感覚が
頭をよぎるから、そうなってくるともう音楽どころでは無くなってしまうのだ。

ジャズの場合、50~60年代のレコードで聴く分にはそういうことを意識することがない。 オリジナル盤がどんなに音がいいと騒いだところで、所詮
それは実際のピアノの音とはかけ離れた代物だし、その頃のジャズ・ピアノはピアノ演奏を聴かせるというのとは少し違う意識で弾かれているから、
そういうことを気にする必要がない。 こう言うと語弊があるかもしれないけれど、それはピアノ音楽とは違う種類の音楽だという感覚すらある。

ところが最近の新しく録音・リリースされるものはやたらと音質がいいし、ジャズ・ミュージシャンであっても学校に通ってきちんと音楽を勉強している人が
ほとんどで、彼らは明らかにピアノ演奏を聴かせにかかってくる。 だから、私の中で無意識のうちにスイッチが入り、ピアノ演奏やその音へのあら捜しが
始まってしまう。 そうなってくると、本当に無条件に受け入れられる作品というのは物凄く少なくなっていく。 そしてそういう自分に対して自己嫌悪を
覚えることことになる。

だから、私がピアノ音楽を聴くのはそういうややこしいことを意識しなくて済む古いジャズのレコードかクラシックを、ということになる。 クラシックの
ピアニストはさすがに演奏家としての訓練の次元が違うからあら捜しをしてもがっかりすることは少なくて、後は好みの問題だけを気にしていればよい。

クラシック音楽のピアニストはずいぶんたくさんいるけれど、私自身好みにうるさいから聴く人は限られている。 そんな中で、善し悪しなんて感じる
必要もなく、いつだって無条件に自分を託すことができる1人がバックハウス。 「休みの日は何をしていますか?」と訊かれて、「そうですね、暇潰しに
ピアノを弾いています」と真面目な顔で答えるような人だから、そのピアノはまあ完璧だ。 私はその訓練され尽くした先にある彼のピアノが好きなのだ。

これは彼がバッハを弾いた古いデッカのレコード。 イギリス組曲よりフランス組曲のほうがずっと好きだけど、これを聴く際はA面を聴くことが多い。
A面は短調、B面は長調が選ばれているけど、バッハは短調の方が好きだ。 ピアノを弾くのが嫌で辞めたはずなのに、ピアノの記憶の呪縛から逃れられない
私を解放してくれる1人がバックハウスなのだ。


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