Bud Powell / Bud Powell's Moods ( Norgran MG N-1064 )
我々が普段聴いているバド・パウエルの演奏と言えばヴァーヴ系列やブルーノートのレコードになるわけだが、50年代中期のLP期に入ってからの演奏、
つまり後期のバド・パウエルの演奏はまったくダメだ、という話が未だに根強く残っているのを見かけることがあって、これには正直言って驚かされる。
個々の作品単位にこれは優れている/イマイチだ、好きだ/嫌いだという話は芸術鑑賞上当然のことだし、元々そうあるべきだと思うけど、アーティストの
活動経歴を便宜的に区切って、その中のある時期しか認めない、という言い草は好きになれない。 まあ個々の議論をしてると話が長くなるから要約して
いるだけのつもりかもしれないが、我々は芸術の話をしているのであって、今日の天気や為替レートの話をしているんじゃない。 長くなるのは当然だ。
バド・パウエルについてまわるこの話の火元は、もちろんマイルスの証言だ。 内向的な性格で芸術家としての自覚が強かったパウエルは1944~45年頃の
ある日、サヴォイ・ボールルームに金を持たずに入ろうとして(ただ顔パスで入れると思っていただけだ)入り口にいた用心棒に拳銃で頭をしこたま殴られて
しまい、大怪我を負った。 それ以来、それまでは酒もドラッグもやらなかったのに、一人前のミュージシャンとして認められるために、とドラッグや
酒に溺れるようになる。 そして、言動がおかしくなったり発作を起こすようになったので、母親がニューヨークのベルビュー病院の精神科病棟に入院
させた。 そこで重症疾患と診断されてショック療法を施されて、退院後のパウエルはそのせいで人が変わってしまい、以前のような演奏ができなく
なってしまった。 これは1946年の出来事だった。 マイルスはそう証言している。
問題は、この1946年という年。 我々が普通に聴くことができるパウエルの一番古い音源はルーストセッションで、これは1947年に行われている。
つまり、「人が変わってしまった」以前の演奏なんて、現代の我々は誰も知らないのだ。 なのに、初期の演奏と比較して後期の演奏はダメだ、という
話が後を絶たず出てくるのはなぜだろう。
もちろんこれらは随分古い話なので、年号に誤差はあるかもしれない。 第一、パウエルの頭を殴ったのは人種差別主義者の警官だった、という風に
今では間違って伝わっているくらいだ。 それにパウエルはその後何度も入退院を繰り返しているので、現在語られる「退院後」の年号は混乱していて、
マイルスの語ったのとは別の入退院にいつの間にかすり替わっている可能性は高い。 私の理解だと、巷で言われる神がかった絶頂期というのは3つの
SP録音、つまりルースト、マーキュリー 、ブルーノートの "Vol.1~2" のことを指していて、ダメな演奏というのはそれ以降に録音されたレコード群の
ことを言っているようだ。 つまり、マイルスの証言からは全体的に5年ほど後ろにズレている。 パウエル名義のLPをただクロノロジカルに並べて、
マイルスの話を5年ほどずらして当てはめて便宜的にあるところで区切って、後半はダメだと断じているだけだ。 でも、マイルスの証言がもし無ければ、
こういう論調はもともと無かったんじゃないだろうか。 これだと、ここに挙げたノーグランの "Moods" を聴かない人が出かねない。
私にはここで聴かれる演奏がダメなものだとはとても思えない。 "鬼気迫る" と表現されるSP録音のものと比較してのことかもしれないが、そもそも
なぜ比較する必要があるのだろう。 "Moods" では猛スピードで疾走するような演奏が聴けないからだろうか。 でも、マーキュリー録音の "テンパス・
フュージット" だって、曲の中盤までは確かに快調に飛ばしてはいるものの、最後に戻って来た主題では指が追い付かず、弾かなければいけないいくつもの
音を飛ばしてしまっていて、演奏はかなり乱れている。
体力や運動機能の低下に伴い運指が遅くなっていくのは、例外なく全てのピアニストにとって避けられない宿命だ。 バックハウスやポリーニのような
わかりやすい事例を挙げるまでもなく、若い頃に凄腕のテクニックで鳴らした人ほどその落差の大きさは目立つ。 でも、例え運指が衰えてきても、
真の芸術家たるピアニストであればその代償として別の物を手にしていることが多い。 グールドのゴールドベルグ、なんて話はもういいだろう。
パウエルのように心と身体が死に向かって急速に堕ちて行った人の場合、短い間にそういう劣化が起こったのは当然だ。 特にB面の最後の
3曲は酷くて、まともにピアノが弾けていない。 音がまるで川面に置かれた飛び石のような途切れ方をしていて、モンクのピアノかと思うほどだ。
とてもレコーディングなんかできる状態じゃなかったのは明らかで、ベースとドラムが呂律の回らないピアノに気の毒なくらい一生懸命合わそうと
している様子が手に取るようにわかる。
でも、それでも、このアルバムで鳴っているピアノの音はどこをとってもバド・パウエルそのものの音で、しかもその音の風格みたいなものは以前と
何一つ変わっていないし、たどたどしいフレーズにも関わらず、かつてのあのスピード感が1つ1つの音の中にしっかりと息づいているのが驚くほど
よくわかる。 それはまるでパウエルの体内時計は以前と何も変わず今まで通り正確に時を刻み、彼の中ではかつての意識がはっきりとしていた時に
自身が感じていた踊るように疾走するグルーヴ感がうねっているようで、そういう内的な活動を生々しく演奏の中に感じることができる。
"Moonlight In Vermont" と "It Never Entered My Mind" という2曲のスタンダードではアドリブラインが全くなく、ただ原メロディーをカデンツァ風に
弾き流しているだけなので、これでもジャズピアノと言えるのか? という疑問もあるかもしれない。 パウエルはもはやインプロヴィゼーションなんて
できなくなってしまったのだ、と。 でも、それも違う。 パウエルはSP期のころから、歌物のスタンダードをやる時はインプロを極力排してただ単に
ラプソディックに弾いてきた。 これはパウエルの元々の演奏ポリシーだったのだろう。
後期のバド・パウエルの演奏は・・・、と切って捨てるのはどうかと思う。 少なくともレコードで聴ける範囲においては、バド・パウエルはいつだって
バド・パウエルであり続けたように感じる。 その中で、アルバム1枚ごとに自分の感じるものを深めていければ、それでいいのではないだろうか。