Stan Getz / At Large ( 米 Verve MG V-8393-2 )
1958年に妻が妊娠し、出産を彼女の故郷であるスェーデンで迎えることにしたスタン・ゲッツは一家で渡欧し、デンマークのコペンハーゲンに
居を構えた。当時の北欧でジャズをやるにはこの街が最も適していて、妻の実家からも車で1時間ほどの距離だったからだった。
初めは現地のミュージシャンと演奏をしたが、あまりの実力の無さにメンバー探しをしなければいけない状態になり、オスカー・ペティフォード
がアメリカを逃れてきたのを機に2人は一緒に演奏をするようになった。この時にヤン・ヨハンセンも呼び寄せた。人種差別がなく、クリーンな
コペンハーゲンでゲッツ一家は暖かく迎え入れられて、しばらくは安定した日々が続いた。ゲッツの家は大きな邸宅で、北欧にやって来た
ミュージシャンたちは皆ゲッツの家に集まり、その都度パーティーが開かれるという、傍目には満ち足りたように見える生活だった。
しかし、その水面下では不穏な事態がゆっくりと進行していた。ドラッグの禁断症状を紛らわせるためにゲッツは深酒をするようになり、
元々抱えていた鬱病がまた顔を覗かせるようにもなっていた。
ゲッツがアメリカを離れている間に、ニューヨークではマイルスが "Kind Of Blue" を、オーネットが "The Shape Of Jazz To Come" を、
そしてコルトレーンが "Giant Steps" をリリースし、それらをレコードで聴いたゲッツはこの重要な転換期に自分が蚊帳の外にいることを
知った。10年間連続してポール・ウィナーだったダウンビート誌やメトロノーム誌で、ゲッツは首位から陥落し、トップはコルトレーンに
置き換わった。極め付けは、唯一の精神的支柱だったペティフォードが1960年9月4日にコペンハーゲンのアートギャラリーでの演奏後、
原因不明のウィルス性髄膜炎で突然亡くなってしまったことだった。まだ37歳の若さだった。
かつての仲間たちの目を見張る進化から1人取り残され、傍にいてくれたただ一つの拠り所を突然失い、孤独と不安に苛まれたゲッツは
穏やかで何一つ不自由のない生活を捨て、周囲からの猛反対を押し切り、再びニューヨークの喧騒の中へと戻る決意をする。
それは1961年1月のことだった。
この "At Large" というアルバムは、このデンマーク滞在時に吹き込まれた。ヨハンセンのピアノトリオをバックにワンホーンで
ゆったりとバラード基調で吹くゲッツの表情には明るさがない。かつての北欧録音時に見せた颯爽とした姿はここにはない。
表面上は穏やかに見える演奏だが、レイドバックしているにもかかわらず、寛いだ気分にはなぜかなれない不気味さが漂っている。
バックのピアノトリオの演奏は明らかに凡庸で、音楽に貢献できていない。ヨハンソンは本来の持ち味を生かさず、無理にアメリカの
ジャズを演奏しようとしていて、技術的に追い付けておらず、演奏はぎこちない。ベースとドラムは言及すべき点すらない。
ヨハンセンが自身のスタイルを貫いていれば、例えばアイラーの "My Name Is" のような新しい音楽が生まれていたかもしれないのに、
そうしなかったのは(あるいはできなかったのは)芸術的敗北だった。
ゲッツは実力不足の現地ミュージシャンたちのために演奏が容易なスタンダードを集め、自身が彼らの位置まで降りて行って演奏している。
ほとんどがスロー・テンポで演奏されているのは、バラードの情感を出したかったからではなく、おそらくそれが理由だろう。
その一方でバックの演奏は全然ゲッツのレベルには手が届いていないから、このアルバムは捉えどころのない、中途半端な内容になってしまった。
本来であれば、このフォーマットはゲッツの最も得意なパターンで、傑作が生まれるはずだったにもかかわらず、そうはならなかった。
ゲッツはこれらの吹き込みとマイルスやコルトレーンのアルバムとを比較して、おそらく絶望的な気分になっただろう。
ただ、このアルバムを「駄作」と言ってしまうのは簡単だが、私には安易にそう言う気になれない。この演奏の背景にあったスタン・ゲッツの
当時置かれていた状況や彼の苦悩を知れば、そんな言い方をする気にはとてもなれない。
アメリカに戻った後、ゲイリー・バートンやチック・コリアという新しい才能を発掘し、ボサ・ノヴァを通過し、オーケストラとの共演や
サントラも作った。周回遅れとなった自身の音楽を何とか巻き返そうともがき苦しみ、晩年になってようやく自身の新しい境地に辿り着く。
不甲斐ない状況から自分を奮い立たせることになった、ある種の象徴のようなアルバムがこの "At Large" というアルバムだったのだと私は思う。