「写生の技ある句」というタイトルで、7月号の月評を書かせていただきました。うっ、誤字があったよ・・・。
また、「童子俳枕」谷保編で、立松けいさんが、
寒明けや鶏の尾といひ色といひ あぶみ
を取り上げくださり、
「童子句会」より、「桃子三冊子」には、
桃葉湯家も田畑ももてあまし あぶみ
を出していただいています。
今月は他に、
みちのくの一塊として余り苗 あぶみ
他4句を発表しています。
波多野爽波さんは、「なぜあなたは俳句を作っているのかと問われたら、自分というものを消すために作っている」「自分というものを本当に消し去ったとき、まったく自分が予測していなかったものが出てくる。それを待ち望んで俳句を作ってるんだ」と述べているそうです。私は、なかなかそこまでの境地にはなれていません。いつかそういう心持ちになることはあるかもしれないけれど、自分にこだわっている時期があってもいいかなと思ったりもしているわけです。
これはかつて爽波が「青」という雑誌において、大串章氏、竹中宏氏らとの対談で言っていることで。大串氏は「作品としてボーンと名前なしで投げ出した時、たとえ作品として良くても、自分の血脈からはずれているものであれば、それは捨てる」「自分の世界を持っていなければ詮ないことだ」と言い、「自分にとって気持ち悪い句になっとるかどうか」「自分にとって親和感のない俳句を作りたい」と竹中氏は言っているとのこと。(「童子」8月号、「波多野爽波研究39」・小川春休より)
私は、今大串氏のところにいるということです。(上の2句がまさにそう)いつか自分にこだわるところから脱却でいるときがくるとしたら、それも楽しみですが、数年のスタンスでは到達できないだろうという予感もあります。(一生できないかも?)