まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

それでも明日はやってくる

2016年10月25日 18時08分00秒 | 日々雑感
自宅と勤務先と合わせて、4紙の新聞に目を通す。

もちろん、じっくり読んだりしていない。

興味のあるところだけ斜め読み。

連載小説が合わせて4編。

うち2編を欠かさず読んでいる。

前回の「会社達」という言葉遣いに引っかかった小説とはまた別の小説は

途中から読み始めたので全体のあらすじは分からないのだけど

主人公の男女のうち、男性のほうがブラック企業に勤めていて

やる気も能力もあるのに、上司からは理不尽な叱責を受け、

信頼していた部下からも軽んじられているのを知ってしまい

追い詰められている・・・というところで

現実に若い女性の過労死が報道された。

こういうとき作家はどうするのだろう。

もうストーリーはある程度決まっていたと思う。

だが、もし彼が過労死してしまうという展開ではリアルタイムすぎる・・・と二の足を踏むかもしれない。

遺族感情を逆撫で・・・などとネットに書かれるかもしれない。

そういう空気を感じつつも書きたいことを書く、という選択をするかもしれない。

作家がこの小説を書いたから過労死が起きたのではなく

もともと過労死があって、作家がそのことを書いたのだから

書いているうちにまた過労死が起きてしまったことに

作家自身が驚いているかもしれない。

過労死にしろいじめにしろ

「死ぬくらいならがんばらなければよかったのに」という人がいる。

「死ぬ気になればなんでもできる」という人がいる。

違うのだ。

がんばっているうちに、自分が疲弊していることももう気力がなくなっていることも

分からなくなっていくから恐ろしいのだ。

真面目な頑張り屋こそ、もっと自分はできるはずだと頑張り、

周りの期待に応えようと思い、応えられない自分を責める。

過労による自死といじめによる自死はちがうけれど

追い詰められて絶望し、気力をなくす点では変わらないと思う。

わたしは、絶望の果てまでいったことはないのだが

絶望の入り口くらいで、ひどく面倒くさいと思った。

なにもかもが面倒くさい。

例えば、悔しさとか悲しさとか怒りが湧いてくるうちは

まだ気力があるのだ。

絶望し始めると、感情が機能しなくなり面倒くさくなる。

精神と肉体はかならずしも同調しないけれど

体調が悪ければ気持ちも落ち込むし、気持ちが不安定なら体調も悪くなることが多い。

まして、どちらも追い込まれれば、抜け出すのは困難になる。

自死をする人が遺書に、自分を死に追いやった人のことを書かないのを不思議に思ったことがある。

が、死を選んだ時点でもう他人を恨んだり名を書き残して復讐するというような感情も

大抵はなくしているのではないか。

『もう、そんなことどうでもいい』という気持ち。

絶望の果てに死を考えたとき、安堵の気持ちを覚えるのではないか。

あくまでわたしの推測にすぎない。

自死をした人がこうだったろうとか決めつける推測ではなく

もしかしたら自分は絶望の果てに、安堵を見てしまうかもしれない・・・と思ったのだ。

生きてるって素晴らしい、という言葉がある。

それは否定しない。

誰もがいつかは死んでゆくから、生は輝いている。

だが時に、生きてゆくのは疲れる。

他人だけではなく、自分と向き合うのも疲弊する。

つらければ逃げていいんだよ、と言うけれど

逃げられるならとっくに逃げている。

逃げるタイミングを見失い、逃げ方が分からなくなる。

そんな自分に絶望する。

死にたいとまでは思わないけれど

明日、目が覚めなくても構わない・・・

そんな風に思ったりする。

「ぼんやりとした不安」という言葉がなんだかリアルに感じられるとき

どうしたら頭から振り落とすことができるのだろう。

開高健の著書にあった言葉を思い出す。

「本当に絶望した人間は、何も書かない何も話さない」

こうやって見知らぬ誰かに何かを書いている限り、絶望はしていないのだろう。







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