11月3日の朝。
7時半に私は、仙台の名川(こういう日本語あったっけ?)広瀬川の橋の上にいた。
なぜ、そんなに朝早くそこにいたかということは、ちょっと置いておいて・・・・・。人間ってって言っていいのかなあ・・私はかな・・・習慣とは恐ろしいもので、気がつくと何も考えなないで、いつもの通りにしていた ということがある。通勤で地下鉄を降りてから学校へ向かう とか、車でもそうなのだが、意識しないといつもの道、いつもの方向に向かっている。
苫米地氏のおっしゃる、コンフォートゾーン 慣れ親しんだ環境が居心地がいいからなのだろう。ちょっと違うことには、程度の差はあれ、確かにいくばくかの緊張を伴う。
広瀬川にかかる橋はたまに通ることがある。しかし、いつも同じ側しか通ったことがなかった。川の上流を望む側。景色も四季の違いはあれ、慣れ親しんだ景色だ。
反対側を歩いてみようなんて、考えたこともなかった。
その日は、何故か道路を渡って反対側を歩きたくなった。非日常のなせるわざか・・。とにかくその日は、時間までに行くとか、目的があった訳ではなく、時間つぶしの散歩だったから、そういう余裕がうまれたのだろう。
対岸からの景色は、実は私を非常に驚かせた。とにかく見たことがない景色。上流側の景色と全くちがう。それに、橋脚工事もなされていて、あれ???橋作るんだと、これまた新鮮な驚き。工事に関する公示の看板を見ると、ああそうか、地下鉄が出来るからなんだ とわかった。
遠く青葉山を望む広瀬川は木々の色が変わりかけていて、朝のすがすがしさもあり、そして美しい朝日もありで、橋の上からその景色をひとりじめしているような、静かで美しい時間だった。その私ひとりの時間を邪魔するものは何も、そして誰もいなかった。
こんなものなのかもしれない・・・と、思っていた。近くにある対岸、足を伸ばせばすぐそこにある対岸、でもそこに行って見る事はあまりない。意識していないからだ。でも、意識できれば、全く違った世界をみることができる。全く違った自分を感じることすらできるのではないかと思った。
静かに、静かに、思い出すことがあった。