白いノートと万年筆 のことを考えていた。
万年筆の思いでは父に繋がる。父は使い易そうな万年筆で、原稿を書いていた。(作家ではないが、よく書き物をしていた) 毎年同じデザインの手帳に、細かく行動を記録していた。日記ではないような気がする。後で振り返るために、ただ記録していたような気がする。定かではない。書いているのは見ていたが、内容を読んだわけではないから。
その父の使いやすそうな万年筆は私の手元にある。私が大学に入学するさい、親元を離れる私に、形見にもっていきなさい とくれた。モンブランの黒い万年筆。
実は、何回も落としてしまったので、ペン先が曲がってしまった。修理もしたが・・・修理代が高くて、あきらめてしまった。
私は万年筆が好きで、父の形見のものとあわせて、結構な本数を持っている。ボールペンとは違う、あの筆圧が好きだし、インクもいい。
外国製の万年筆は、横書きにアルファベットを書くときはスムーズだが、縦書きに漢字を書く際には、何かひっかかるような感じがして、日本製の万年筆も買ってみた。
それらをいつの間にか使わなくなってしまったのは・・・きっと、パソコンが私にとって、万年筆以上に使い勝手がよいものになってしまったからだろう。家計簿からブログまで、パソコンに保存する情報は、切り取りも簡単で、使い勝手がいい。書き直しも簡単、消せばいい。何事もなかったように、すべてがさっと消えていく。
同じように辞書も使わなくなった。以前なら、ひっかかることばに出会うと、必ず広辞苑をもちだして、調べていた。今は、一日中電源が入っているパソコンの前で、検索すれば、ほとんどの情報が得られる。それどころか、関連サイトまでついついお出かけしてしまい、時間の経過を忘れて、あれこれと調べることになったりする。
論語から、ランニング、パン作りに、カロリー計算。英語のサイトから日本語まで自分の興味にあわせて、あらゆるサイトがお気に入りに入っていて、パソコンがなくては一日も暮らせないほど、私はパソコンを多用している。
他方、実は、私の机の上には複数のノートが置いてある。それぞれが、記録するためのノートなのだが・・・複数というのが、ネックなのか、どれも中途半端な状態で置いてある。パソコンですべてを記録するのではだめじゃないかなあ・・・と、思う、私の気持ちの抵抗感が、ノート作りに向かわせるのだが・・・。
気持ちは揺れ動く。毎日揺れ動く。こんなんでいいのかなあ・・・と、思ったとき、私は万年筆を持って、新しいノートに向かうのかもしれない。リセットの回数分、ノートが存在する感じかな。万年筆を持つ心を忘れたくないと思うのだけど・・・。
とりあえず、キーボードの上に万年筆を置いてみる。両者が心の中でも共存できるように意識してみよう。