先日、静岡駅付近で、こーんなんが配布されていたらしいぞ。
で、出たぁ~っ!!!家康君ぢゃっ!!!
浜松から、静岡まで出張に来ていたそうですが、それ以外でもしっかり工作員を配置して、知名度UP、選挙活動を草の根運動的にやってたんね~っ!!
確かに、静岡県の中で、浜松市に次いで人口の多いのは県庁所在地でもある静岡市でございます。
そして、静岡市にもゆるキャラは存在しているし、ちゃんとゆるキャラ選手権にも出ている・・・んだけど、静岡市のゆるキャラに対する一般市民の認識は薄い・・・
「静岡市と言えば、○○(←ゆるキャラ名)」と即答、断言出来るほどのキャラは残念ながらまだいない・・・と言ってもいいでしょう。
(個人的には「静岡市と言えば、スプラッシュ星人っ!!」路線を推したい/爆)
という静岡市の弱さ(?)を狙って、浜松市のゆるキャラから静岡県のゆるキャラへと路線拡大を目指す作戦だと思われます、家康君。
たださ、静岡市民って浜松市民と違って「不燃性」なんだよね、何事も(爆)
うーむ、静岡市民が浜松のキャラを推すかどうかは・・・
わりと反応は「何、これ?」っていう感じみたいですなぁ~。
で、私の推しゆるキャラと言えば、まずは
東京都・足立区のアダチン
静岡県磐田市のしっぺい
を、推しておりますが、新たにもう1キャラ加わってしまった!!
それが・・・
こちら、『うなわん』です!!
家康君と同じく、浜松市の、こちらは非公式ゆるキャラでございます。
うなわん、っていうからうなぎ+ワン=犬、かと思ってたら(以前の浜松市の公式ゆるキャラは赤塚氏のうなぎいぬだったのだ。いろいろ、大人の事情で現在は家康君になっている)犬、じゃなくて、わんっていうのはお椀のわん、であった。
うなぎがお椀に入ってるから、うなわん、ね。
・・・お重に入ってるから、うな重か、そう言えば・・・
で、このうなわん君、これが実に社会派で、浜松市を愛するが故に、浜松市の行政などに対し、実に鋭い視点からのつっこみを展開してくれています。
先日の家康君の電○組織票疑いについても、かなりズバズバ痛いつっこみを呟いてましたな。
最近のだと、浜松市の指定ゴミ袋、これを作っているのは実は浜松市外の会社であり、指定ゴミ袋を買って使用を強要されているといい現在の状況であるが、実はそのゴミ袋を買って使っても、それが「ゴミ焼却」の助成にはなっておらず、小売業者及び浜松市外の会社の利益となっているだけなのである、とか、おぉ、なるほどぉ~っ!!という、鋭い見識の持ち主のゆるキャラなのだ。
ゆるキャラ、という存在、これこーいう使い方も出来るんだなぁ、とその可能性を感じたキャラでございます。
ただ、非公式なのもあり、キャラクター商品とか着ぐるみは今のところ存在していませんが・・・
で、話変わって、先日「謝罪の王様」見てきました。
「謝罪の王様」予告
面白かった~っ!!
脚本がクドカンで、やはりこの人の話っておもろいわっ!!
と書きつつも、実はあまちゃん見てない私でありますが。
邦画って、ハリウッド作品と比較して見劣りするのは、まぁ予算とか規模とか役者のレベルはさておき、「時事問題とのリンクがヘタ」っていうのがありますね~。
ドキュメンタリーとかじゃなくて、フィクション上で今、現在の観客大部分が置かれている社会の状況、それを比喩というかさり気に組み込んで「観客が見たい方向」の映画を作る、という。
なんつうか、表立ってではなく、影から組み込むっていうかねぇ。
日本だと、ちょっと話題になったニュースとかベストセラーは即映画化!!になるけど、これが表立った、という事。
ハリウッドでヒットする作品って、表面的には娯楽大作!!のようであっても、その中に必ず今のアメリカ及びアメリカ国民の置かれている状況が、比喩的に垣間見える、っていうところがあり、それを映画から読み取るのが面白いんですが、日本の邦画は圧倒的にその視点からは物足りない。
前述のように、すでにある程度受けている、ヒットがそこそこ保障されているTVドラマの映画化、マンガの映画化、売れた本の映画化、あるいは続編、っていうのかまたはその亜流の焼き増しばかりが多い、と思います、まぁ予告を見ている範囲でありますが。
でも、この「謝罪の王様」は、かなりその時事ネタが入ってまして、その使い方も上手いなぁ、と思いました。
某エ○カさまの「別にぃ~」とか、某国皇太子ご夫妻をバラエティ番組でお笑いネタに使って顰蹙買ったりとか、そういうわりと「記憶に新しい」事実的ネタを上手く組み込んでます。
ただ、こういったネタは「今」だからわかるのであって、もう数年経てばその記憶も薄れ、知ってる人じゃないと面白くない、っていう事になってしまう危険性もあります。
でも、この映画はそれだけじゃない!!ところがよかったと思うのですね。
時事ネタ、一過性的一発芸的ネタを散りばめつつも、結構「日本人的」というか、日本人の根本的な日本人独自の志向、っていうのが出てると思うのだ。
「O・MO・TE・NA・SHI」的っていうか、なんつうか^_^;
まー、なんつうか、最近ある、あらゆるところで「不祥事」的ネタ・ニュースが多くて、毎日あちこちでいろんな人や会社や組織が「謝罪」しております。
今日あたりだと、産地偽装とか、TV番組のヤラセとかの謝罪をやってますが。
この謝罪、謝る、という事なんですが・・・
よく、交通事故を起こした、という場合・・・
「自分から「すみませんっ!!」って謝ってはダメです。謝ったという事は自分の非を認めた、っていう事だから」っていう話を聞かされませんか?
これが今は、=常識、となったのかどうかはよく分かりませんが、私がこれを初めて聞いた頃は、これがまだ「ええ?そうなの??」と、驚く・違和感を感じる人が多い、という時代であった・・・
「欧米ではそうなんだって!!」
「へぇぇ~っ。」という感じ。
という事は、別に自分に非があると思ってなくても、とりあえず「すいません」って反射的に謝ってしまう、それに違和感を感じない社会で生きてきた世代、と言えるかも^_^;
でも、この「すみません」というのは、実際のところは、自分に非があるから謝った、んじゃなくて、相手の人に自分も絡んだ関係ある行為で(現在・今のところ)結果として迷惑をかけた、というその相手に対する、その気持ち・気分に対しての謝罪なんだよね。
実際に悪い、っていう事よりも、相手に迷惑なり気分を害させた事をとりあえず謝る、っていう。
・・・これって、何かを思い出すなぁ、と思って思い出したのが、ルイス・ベネディクトの「菊と刀」
第二次世界大戦中(あたり)にアメリカで出された、日本人論で、いまや古典というか日本人論の原点となってるような本ですね~。
ただ、この本、著者が実際に接した日本人がアメリカ軍の捕虜となった人、あるいは日系人だったりして、日本人といっても結構一部であり、偏ったと言ってもいいようなそういう段階を=日本人全体としてステレオタイプで語った、と否定的な見解もあり。
でも、まぁ「原点」「基本」「出発点」と呼べるような本でもあるそうな。
その中で、欧米人は「罪の文化」であり、日本人は「恥の文化」である、っていうのが超有名ですな。
欧米人は、自分が悪いことをしたそれを神に対して罪を感じる、だからやらないにのに対し、日本人は悪いことをしたら、周囲から反感を買う、白い目で見られる、だからやらない、という。
欧米人は罪悪感覚が自身の価値観に基づくのに比較し、日本人は周囲からの非難を受けるから、と対外的な価値観に基づく、っていうあたり。
まあ、これもかなりステレオタイプで一辺倒すぎる、と批判されてはいますが、まぁいえてるところもあるかな?という気も。
で、「謝罪」っていうのも、これと似てるかなぁ?と思ったりしたのだ。
日本人の求める謝罪って、「あなたに対して失礼な事をした、不愉快な思いをさせた事を謝る」っていうところで謝られてとりあえず「許す」んじゃないかな?
早期に、その場で、「あなたに済まなかった」とわびることで、それで私を大切に尊重してくれている、っていうところを感じて、じゃぁ、と相手を許す。
だから、その場ですぐとりあえず「すみません・・・」って脊髄反射的に言ってしまうんじゃないかなぁ?と。
欧米的感覚だと、その事実が悪いのか、どうなのか?それはどう、どちらが悪いのか?って言う方に重点が生じる、ので、客観的視点が必須となり=訴訟、っていう方向に進むんじゃないのかなぁ?と思ったりしました。
日本人は、その事実がどうか、っていうよりも、相手がどう感じたか?に対しての方に大きく反応する、っていうかねぇ。
いくら日本人が欧米化されつつあっても、長い長い日本人の中にそれまで刻まれたDNAレベルではやはり、欧米的な「謝る事は自分の誤りを自ら認めた事」っていうのとイコールにするのには違和感が少しあるんじゃないのかな?と思うのだ。
現代の世の中だと、わりと会社とかではこういったクレーム的な事に関してもマニュアル化されていて、それを読んでいると「なるほど・・・」とか、個人の責任で済ませずに組織全体として改善していくために役立てる、といったようないい方向の事もあるんだけど、反面、「こんなクレーマー的なことにまで無理やり対応しなくても、無視でもいいんじゃ?」と思うような過剰反応な点もあり。
こーいうのも、日本人のそれまでの「謝罪」感覚と、最近の「謝罪」感覚とのズレ、それが顕在化した一角なのかもなぁ?と思ったりして。
時事ネタは一時のことかもしれないけど、底辺に流れるこういった日本人のアイデンティティ的なネタは、たぶん年月経っても通じる、と思うんだな~、というあたりでやはり、クドカンの脚本上手いなぁ、と思ったしだいであります。
あ、ベネディクトの「菊と刀」、実はまだこれ読んだことなくて^_^;ほかの本とか論調からの孫引用的なとこなんですが、今回。
機会があったら、また読んでみようかと思っております。
で、出たぁ~っ!!!家康君ぢゃっ!!!
浜松から、静岡まで出張に来ていたそうですが、それ以外でもしっかり工作員を配置して、知名度UP、選挙活動を草の根運動的にやってたんね~っ!!
確かに、静岡県の中で、浜松市に次いで人口の多いのは県庁所在地でもある静岡市でございます。
そして、静岡市にもゆるキャラは存在しているし、ちゃんとゆるキャラ選手権にも出ている・・・んだけど、静岡市のゆるキャラに対する一般市民の認識は薄い・・・
「静岡市と言えば、○○(←ゆるキャラ名)」と即答、断言出来るほどのキャラは残念ながらまだいない・・・と言ってもいいでしょう。
(個人的には「静岡市と言えば、スプラッシュ星人っ!!」路線を推したい/爆)
という静岡市の弱さ(?)を狙って、浜松市のゆるキャラから静岡県のゆるキャラへと路線拡大を目指す作戦だと思われます、家康君。
たださ、静岡市民って浜松市民と違って「不燃性」なんだよね、何事も(爆)
うーむ、静岡市民が浜松のキャラを推すかどうかは・・・
わりと反応は「何、これ?」っていう感じみたいですなぁ~。
で、私の推しゆるキャラと言えば、まずは
東京都・足立区のアダチン
静岡県磐田市のしっぺい
を、推しておりますが、新たにもう1キャラ加わってしまった!!
それが・・・
こちら、『うなわん』です!!
家康君と同じく、浜松市の、こちらは非公式ゆるキャラでございます。
うなわん、っていうからうなぎ+ワン=犬、かと思ってたら(以前の浜松市の公式ゆるキャラは赤塚氏のうなぎいぬだったのだ。いろいろ、大人の事情で現在は家康君になっている)犬、じゃなくて、わんっていうのはお椀のわん、であった。
うなぎがお椀に入ってるから、うなわん、ね。
・・・お重に入ってるから、うな重か、そう言えば・・・
で、このうなわん君、これが実に社会派で、浜松市を愛するが故に、浜松市の行政などに対し、実に鋭い視点からのつっこみを展開してくれています。
先日の家康君の電○組織票疑いについても、かなりズバズバ痛いつっこみを呟いてましたな。
最近のだと、浜松市の指定ゴミ袋、これを作っているのは実は浜松市外の会社であり、指定ゴミ袋を買って使用を強要されているといい現在の状況であるが、実はそのゴミ袋を買って使っても、それが「ゴミ焼却」の助成にはなっておらず、小売業者及び浜松市外の会社の利益となっているだけなのである、とか、おぉ、なるほどぉ~っ!!という、鋭い見識の持ち主のゆるキャラなのだ。
ゆるキャラ、という存在、これこーいう使い方も出来るんだなぁ、とその可能性を感じたキャラでございます。
ただ、非公式なのもあり、キャラクター商品とか着ぐるみは今のところ存在していませんが・・・
で、話変わって、先日「謝罪の王様」見てきました。
「謝罪の王様」予告
面白かった~っ!!
脚本がクドカンで、やはりこの人の話っておもろいわっ!!
と書きつつも、実はあまちゃん見てない私でありますが。
邦画って、ハリウッド作品と比較して見劣りするのは、まぁ予算とか規模とか役者のレベルはさておき、「時事問題とのリンクがヘタ」っていうのがありますね~。
ドキュメンタリーとかじゃなくて、フィクション上で今、現在の観客大部分が置かれている社会の状況、それを比喩というかさり気に組み込んで「観客が見たい方向」の映画を作る、という。
なんつうか、表立ってではなく、影から組み込むっていうかねぇ。
日本だと、ちょっと話題になったニュースとかベストセラーは即映画化!!になるけど、これが表立った、という事。
ハリウッドでヒットする作品って、表面的には娯楽大作!!のようであっても、その中に必ず今のアメリカ及びアメリカ国民の置かれている状況が、比喩的に垣間見える、っていうところがあり、それを映画から読み取るのが面白いんですが、日本の邦画は圧倒的にその視点からは物足りない。
前述のように、すでにある程度受けている、ヒットがそこそこ保障されているTVドラマの映画化、マンガの映画化、売れた本の映画化、あるいは続編、っていうのかまたはその亜流の焼き増しばかりが多い、と思います、まぁ予告を見ている範囲でありますが。
でも、この「謝罪の王様」は、かなりその時事ネタが入ってまして、その使い方も上手いなぁ、と思いました。
某エ○カさまの「別にぃ~」とか、某国皇太子ご夫妻をバラエティ番組でお笑いネタに使って顰蹙買ったりとか、そういうわりと「記憶に新しい」事実的ネタを上手く組み込んでます。
ただ、こういったネタは「今」だからわかるのであって、もう数年経てばその記憶も薄れ、知ってる人じゃないと面白くない、っていう事になってしまう危険性もあります。
でも、この映画はそれだけじゃない!!ところがよかったと思うのですね。
時事ネタ、一過性的一発芸的ネタを散りばめつつも、結構「日本人的」というか、日本人の根本的な日本人独自の志向、っていうのが出てると思うのだ。
「O・MO・TE・NA・SHI」的っていうか、なんつうか^_^;
まー、なんつうか、最近ある、あらゆるところで「不祥事」的ネタ・ニュースが多くて、毎日あちこちでいろんな人や会社や組織が「謝罪」しております。
今日あたりだと、産地偽装とか、TV番組のヤラセとかの謝罪をやってますが。
この謝罪、謝る、という事なんですが・・・
よく、交通事故を起こした、という場合・・・
「自分から「すみませんっ!!」って謝ってはダメです。謝ったという事は自分の非を認めた、っていう事だから」っていう話を聞かされませんか?
これが今は、=常識、となったのかどうかはよく分かりませんが、私がこれを初めて聞いた頃は、これがまだ「ええ?そうなの??」と、驚く・違和感を感じる人が多い、という時代であった・・・
「欧米ではそうなんだって!!」
「へぇぇ~っ。」という感じ。
という事は、別に自分に非があると思ってなくても、とりあえず「すいません」って反射的に謝ってしまう、それに違和感を感じない社会で生きてきた世代、と言えるかも^_^;
でも、この「すみません」というのは、実際のところは、自分に非があるから謝った、んじゃなくて、相手の人に自分も絡んだ関係ある行為で(現在・今のところ)結果として迷惑をかけた、というその相手に対する、その気持ち・気分に対しての謝罪なんだよね。
実際に悪い、っていう事よりも、相手に迷惑なり気分を害させた事をとりあえず謝る、っていう。
・・・これって、何かを思い出すなぁ、と思って思い出したのが、ルイス・ベネディクトの「菊と刀」
第二次世界大戦中(あたり)にアメリカで出された、日本人論で、いまや古典というか日本人論の原点となってるような本ですね~。
ただ、この本、著者が実際に接した日本人がアメリカ軍の捕虜となった人、あるいは日系人だったりして、日本人といっても結構一部であり、偏ったと言ってもいいようなそういう段階を=日本人全体としてステレオタイプで語った、と否定的な見解もあり。
でも、まぁ「原点」「基本」「出発点」と呼べるような本でもあるそうな。
その中で、欧米人は「罪の文化」であり、日本人は「恥の文化」である、っていうのが超有名ですな。
欧米人は、自分が悪いことをしたそれを神に対して罪を感じる、だからやらないにのに対し、日本人は悪いことをしたら、周囲から反感を買う、白い目で見られる、だからやらない、という。
欧米人は罪悪感覚が自身の価値観に基づくのに比較し、日本人は周囲からの非難を受けるから、と対外的な価値観に基づく、っていうあたり。
まあ、これもかなりステレオタイプで一辺倒すぎる、と批判されてはいますが、まぁいえてるところもあるかな?という気も。
で、「謝罪」っていうのも、これと似てるかなぁ?と思ったりしたのだ。
日本人の求める謝罪って、「あなたに対して失礼な事をした、不愉快な思いをさせた事を謝る」っていうところで謝られてとりあえず「許す」んじゃないかな?
早期に、その場で、「あなたに済まなかった」とわびることで、それで私を大切に尊重してくれている、っていうところを感じて、じゃぁ、と相手を許す。
だから、その場ですぐとりあえず「すみません・・・」って脊髄反射的に言ってしまうんじゃないかなぁ?と。
欧米的感覚だと、その事実が悪いのか、どうなのか?それはどう、どちらが悪いのか?って言う方に重点が生じる、ので、客観的視点が必須となり=訴訟、っていう方向に進むんじゃないのかなぁ?と思ったりしました。
日本人は、その事実がどうか、っていうよりも、相手がどう感じたか?に対しての方に大きく反応する、っていうかねぇ。
いくら日本人が欧米化されつつあっても、長い長い日本人の中にそれまで刻まれたDNAレベルではやはり、欧米的な「謝る事は自分の誤りを自ら認めた事」っていうのとイコールにするのには違和感が少しあるんじゃないのかな?と思うのだ。
現代の世の中だと、わりと会社とかではこういったクレーム的な事に関してもマニュアル化されていて、それを読んでいると「なるほど・・・」とか、個人の責任で済ませずに組織全体として改善していくために役立てる、といったようないい方向の事もあるんだけど、反面、「こんなクレーマー的なことにまで無理やり対応しなくても、無視でもいいんじゃ?」と思うような過剰反応な点もあり。
こーいうのも、日本人のそれまでの「謝罪」感覚と、最近の「謝罪」感覚とのズレ、それが顕在化した一角なのかもなぁ?と思ったりして。
時事ネタは一時のことかもしれないけど、底辺に流れるこういった日本人のアイデンティティ的なネタは、たぶん年月経っても通じる、と思うんだな~、というあたりでやはり、クドカンの脚本上手いなぁ、と思ったしだいであります。
あ、ベネディクトの「菊と刀」、実はまだこれ読んだことなくて^_^;ほかの本とか論調からの孫引用的なとこなんですが、今回。
機会があったら、また読んでみようかと思っております。