新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

サッカーとラグビーの比較

2008-03-01 19:45:06 | 200803

31日には「ゼロックス・スーパーカップサッカー」と「ラグビー全日本選手権」の試合がほぼ同時間帯にテレビ中継された。これは珍しいことで、チャンネルを変えながら見ていた。そのために、サッカーでは後半に広島が02から同点に追いつく場面を見損なってしまった。


体格の違い:見終わっての感想は先ずこれだった。サッカー選手はラグビーと比較して著しく劣るように見える。悪い言い方をすれば、ラグビーの連中は昔よく言った「空気デブ」の如き感じで、サッカーはカマキリの如くに見えた。


 実は最近のサッカー選手を目の前で見たことがないのだが、ラグビーは全日本代表が新宿のドゥ・スポーツにウエイト・トレーニングをしに来ていたので十分に観察してあった。だからその体格の良さは解っている。


 だが、不思議なことに体格に優れた日本のラグビーは世界的には一流にほど遠く、細くスマートで一見ひ弱なサッカーはワールド・カップ本番で予選突破の実績がある。どうやら体格の問題ではないらしい。


 ではあるが、サッカーの選手たちはもう少し身体を鍛えて簡単に当たり負けしないようにして貰いたいと切に願う。


試合の結果:ラグビーでは年齢は高いが体格と経験を活かした東芝が大学ラグビー日本一の早稲田を一蹴した形で終わった。サッカーは何とJリーグで2ちした広島が昨年度の二冠王、鹿島をPK戦で破ってしまった。


簡単な批評:ラグビーは世界に通用しない日本的ラグビーの争いだった。目を見張るような思い切った展開も大業をもなく、年功経験に対するに大学選手権を取るためにひたすら纏めてきた小技の争いと見た。解りやすく言えば「詰まらない」のだ。ここに来るまでに相当な苦労をして、練習を積んできたのだろうが、余りにも日本的すぎる。


 近頃のラグビーは相手陣内に入ってPKのチャンスを得ても先ずゴールを狙って蹴らない。当方の好みではないタッチに蹴り出す戦法で飽くまでトライを取りに行く。一見勇壮だが、5ないし7点を優先する余り、3点を取ろうとしない。この現象をあるフットボールのオフェンス・コーチは「もう一度相手の陣内深く入れる自信がないので、3点ではなく57点狙いになるのだろう」と批判する。「自信があれば、今回は先ず3点取っておけばよい。何回でも攻め込んで7点取ろう」と考えるものだと言う。なるほど。だが、現実は3点を犠牲にする割合にはトライを取れないことが多い気がする。疑問がある作戦ではないか?世界の強豪国はどんな場所からでも躊躇わずに蹴って、あっさりと3点を取って帰っていく。自信とキック力の問題らしい。


 サッカーは何故か何時見ても単独ティームの方が、いわば寄せ集めの日本代表よりも思想統一されていて纏まりがよい。同じクラブであれば当然だろうが。私は選抜ティームというものには昔から懐疑的だった。その昔、故・篠竹幹夫監督が全関東学生代表を下高井戸のグラウンドに集めて、日大フェニックスの二軍を相手に練習させていたものだった。そこで起きる現象は代表ティームが二軍に歯が立たないことである。監督は誇らしげに言う「1365日同じ釜の飯を食う二軍が、寄せ集めよりも強いのは当然である」と。これと同じことがA代表にも当てはまるのではないか?


 ところでサッカーの内容だが、目についた現象を23指摘するに止めたい。鹿島には所謂司令塔役の一人に本山がいる。彼は自分のティームではなるほど主役に近いが、全日本代表の常連ではない。上手いことは上手いのだが、小ぢんまりとしていて代表向きではないらしい。さらに、ここにはアナウンサー好みの、イタリヤ帰りの小笠原がいる。この人も上手いのは確かだが、気力というかやる気が前面に出てこないので見ていて面白くない。何時でも主役で良いのかなと遠慮しながらプレーしているようだ。全日本に抜擢された内田はここでも思い切ったところを見せない。全員上手くサッカーをやることに集中しているだけで、結局2ちの広島にPK戦で負けてしまった。結論を言えばティームとしての纏まりがあった分だけ迫力に欠けていた。それに、妙に神経質なレフェリーがイエローカードトレッドカードを乱発したのも興味を削ぐ一因だった。矢張り、小さく纏めないで走り回していたオシム監督式サッカーの戦法に緊張感があったということか。代表であれ何であれ、目立ってやろうという勢いの良い選手が少ない。偶には、野球の中田翔のように大口を叩く奴が出てきても良くはないか。と言っても、あの中田は品がなくて全く私の好みではない。



岩淵(ガンブチ)さん語録

2008-03-01 10:21:53 | 200803

岩淵二郎氏は湘南中学第2回卒業生で、湘南・蹴球部の育成にいわば生涯を捧げてくださった大監督である。その優れた指導力と緻密な理論は今でも立派に通用すると信じている。残念がら故人であるが、その語録を覚えている限りここに収録してみよう。順序不同であることをお断りしておく。


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「サッカーとは”anticipation”のゲームである。次に何が起きるかを予測して動け」<o:p></o:p>


-これは岩淵さんが言われたことかどうかの確信がありませんが、如何にもそれらしいので取り上げました。<o:p></o:p>


「川島にフィスティング・アウトを教えていなかったのはわしの不覚だった。まさか、あのような場面があるとは思わなかったのが誤りだった。済まない」<o:p></o:p>


-これは福岡での広島師範付属高にあのフリー・キックからの1点で、10で破れた後に、岩淵さんが我々に謝って言われた言葉です。記憶では非常に淡々と言われました。<o:p></o:p>


さらに私の記憶ではセンター・サークルの右側で酒井(慶応に進学)の右手に球が当たってハンドを取られました。そこからトー・キックで挙げられた球を川島さんがジャンプして捕って着地したところに、後に関学に進んだ長沼(元協会長)、木村、樽谷の3人が突っ込んできて降りるところがなく、ゴールの中に倒れ込み、ボールも手から離れたものでした。現在ではこれは反則ですが。<o:p></o:p>


「サッカーの勝負に番狂わせなどない。負けた方が弱いのだ」


「ファイン・プレー等というものはない。それはポジションが悪いか、スタートが遅れたかだけのことだ」<o:p></o:p>


「ファイン・セーブが多いゴール・キーパーは下手だからだ。これも立ち位置が悪いか、前に出るのが遅いか、動きが遅いからそうなるだけだ」<o:p></o:p>


「図上戦術をいくらこうやって教えても、守る方がパスをカットしようとして空振りする<o:p></o:p>


こともあるし、またはジャスト・オーヴァーヘッドでバックの頭の上を越えることがあるので、空しいこともある」<o:p></o:p>


「戦前に、今年の顔触れではダメだと思ったが、兎に角トライ・アングルのパスと、ストップとトラッピングだけを徹底的に練習させたところ、全国大会の準決勝まで行ったことがあった。基礎の練習は徹底してやることだと再認識した」<o:p></o:p>


FWはこの位置に持ち込んだら必ずシュートを決められるところを作れ。そして、そこに持って行くようにしろ」<o:p></o:p>


「シュートをする時には、自分が蹴りたい方向に手を出して、その動作で標的を定めろ」<o:p></o:p>


「自陣でパスを貰って前が空いていたら真っ直ぐに自分のサイドのゴール・ポストを目指してドリブルしろ。それが必ずチャンスをもたらす」<o:p></o:p>


「トライ・アングルをやる時は必ず相手のバックの直前まで持て行け。そしてギリギリのところでパスをしろ。そうすることで相手を一人振り切れる」<o:p></o:p>


FWは相手のゴールに背を向けて後ろから来たパスをトラッピングする時は、一試合を通して必ず同じ方向にフェイントをかけろ。そして、これが決定的なチャンスだと思った時に反対の方向にフェイントをかけろ。相手は必ずその罠にかかる」<o:p></o:p>


「後ろから来たパスを前に方向を変えてとラッピングする場合には、必ず自分が行きたい方向の反対に無意識でフェイントをかけるように心がけろ」<o:p></o:p>


「右サイドのFWは左側から来たパスかセンターリングをシュートする場合には必ず左足で、左サイドの者は右足での原則を忘れるな」<o:p></o:p>


-これは桑田(早稲田に進学)さんと宮沢(慶応に進学)さんにも同じことを教えられました。<o:p></o:p>


「左サイドの者は後ろから来たパスを進行方向にとラッピングする時は、必ず右足で前に流せ。右サイドの者は左足で、だ。そうでないと進行方向に向けた動きを一旦止めることになる」<o:p></o:p>


「今日の尾島は善戦健闘だった。だが、キャプテンともあろう者が、大事な試合の前に風邪を引いて体調を悪くしていては何もならない。しかも尾島の所から2点を取られて試合にも負けた。そういうことは批評の限りではない」<o:p></o:p>


-これは昭和25年秋の国体予選で、準決勝で小田原高校に12で負けた後の批評でした。<o:p></o:p>


「シュートをする時はキーパーを狙え。そうすればお前たちの技術では目標から外れて得点になる」<o:p></o:p>


「ゴール・キーパーは極力前に出て大きく手を広げろ。そうすれば相手のFWはほとんど空いているところがなくて蹴れなくなる」<o:p></o:p>


-これはゴール・キーパーが単身ドリブルなり何なりで入ってきた相手を守る場合の心得として言われたことです。<o:p></o:p>


「ゴール・キーパーが最も止めにくいのが膝から腰の間の高さのシュートだ。そこを狙え」<o:p></o:p>


「味方のバックがクリヤーする体勢を見れば何処に来るかが解るものだ。そこに向かって早く動いて拾ってやれ」<o:p></o:p>


「試合が終わってヘラヘラ笑ってたっておる者がいた。何たることか!負けた試合では全力を尽くして、終わった途端にグラウンドに倒れ込むようでなくてはならない。立っているとは言語道断だ」<o:p></o:p>



日米企業社会における文化の違い#1

2008-03-01 09:27:54 | 200803

始めに<o:p></o:p>


“文化の違いという名の凸凹道を貴方が平坦な道路だと思って歩けるように綺麗にならして上げるのが私の仕事”<o:p></o:p>


私が生涯最高の上司と呼ぶ10歳年下の副社長兼事業部本部長(当時)と私自身、それに事業部がこの日本市場で成功するためには、「企業社会における文化の違いを征服すること」が、私に与えられた最大の課題の一つであると認識していた。だからこそ「文化の違いとは如何なるものか」を認識することに神経を集中した。ここに語ることはその努力の成果であると共に、もしかすると永遠に日米相互に本当に理解されることがないのではと懸念している。<o:p></o:p>


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日米相互の理解・認識不足:日本とアメリカの文化に明らかな違いがあることに対して、最早戦後62年も経っているのに、日米相互に認識不足であるのはどうしたことだろう?思うに、圧倒的な大多数の人は「そんなことは先刻承知だ。何もことあらためて聞かされることではない」と認識しておられるだろう。つい先頃、この人ならば思う複数の方が「アメリカとは服装がキャジュアルで、言葉遣いもスラングが多く、粗野な人が多く、自由で、努力すれば報われる国だ」と信じておられるようなことを真顔で言われたのには、いわば毒気を抜かれた感があった。その背景には我が国の、英語等の外国語によるによる「日本とは」等の情報発信量がほとんどゼロに近いことがあるだけではなく、「アメリカとは」という情報の受信も誠に不十分であったと確信している。アメリカからの日本向けに発進されてくる情報はといえば、戦後直ぐの進駐軍当時の偏った内容を変更するに足るものではないと見ている。故に、日米ともに情報発信の努力をすべきであると常に主張してきた。<o:p></o:p>


私は1990年以来、機会ある事に書き物と講演と、さらに96年からはラジオ放送で、相互理解と認識の必要性を説いてきた。アメリカ側の対日理解度などはかなりお寒いものであると22年有余の外資暮らしで十分承知していた。だからこそ、1990年に志願してウエアーハウザー(Weyerhaeuser Company、以後W社)本社事業部で”Japan Insight”と銘打った「日米企業社会における文化の違い」についての90分のプリゼンテーションを行ったのであった。<o:p></o:p>


 などと言えば「何で今頃日米文化比較論?」という声が上がるだろう?そう言いたい方に以下の私の比較論の集大成をご一読願っても、「面白い話を聞いた。世の中にはこういう主張をする人もいるという話の種にする」と言われそうな気がする。<o:p></o:p>


 その相互不理解振りたるや「長年連れ添った夫婦間の相互理解の認識と理解不足よりも酷い状態」と、中央学院大学、早稲田大学・<st1:msnctyst w:st="on" addresslist="14:神奈川県横浜市;" address="横浜市">横浜市</st1:msnctyst>立大学・明治学院大学で国際法を教えておられる米田富太郎先生が喝破された。至言であろう。<o:p></o:p>


 本心を言わせて貰えば、私の主張の如きものが役に立つようでは宜しくないと思うのだが、「相互の認識と理解不足の状態ではない」と思っておられる方が多いのも困ったことではないだろうか?<o:p></o:p>


 何れにせよ、ここに記したものは飽くまでも「日米の紙パルプ・森林産業界」の会社における1955年から2007年までの経験と見聞に基づいていることをお断りしておくと同時に、飽くまでも比較論であってアメリカ礼賛ではないと申し上げておく。<o:p></o:p>


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「就職」か「就社」か:これこそ企業社会における大きな違いの代表的なものであると信じて疑わない。W社入社後2年目のことだった。1976年ニュー・ジャージー州アトランティック・シティーで開催されたコンヴェンションの会場でアメリカ人の学生に「この会社のこの事業部に就職したいのだが、誰に履歴書を送ればいいのか」と尋ねられ、その意味が解らなかった。そこで近くにいたシカゴ営業所長(当時、後の副社長兼事業部本部長)に回した。そして、その質問の意味を解説して貰ったものの、当時は良く把握できなかった。<o:p></o:p>


これが、アメリカでは「就職」であって我が国では「就社」であると知るきっかけになった。アメリカの会社には経験者が「即戦力」として、会社ではなくその事業部に採用されるのだから、当然「何でも承知している」との前提。だから、何か疑問があり自分から訊こうとしない限り、事業部内のことは言うまでもなく「会社」自体のことでも、上司も同僚も誰も何も教えてくれることはない。<o:p></o:p>


各事業部門に何らかの空席となっている仕事があるか、または新規に欠員が発生した場合、それを直ぐにでもこなせる人物を雇うのがアメリカ式。事業部として新規採用は内部からのこともあるし、外部からのこともある。私はアメリカの会社2社に勤務したが、何れの場合も”training”と称する事業部内の本社、工場、研究所を回って顔つなぎをした後は、簡単に言えば東京に戻って得意先に挨拶回りをしただけであった。本社で”Job description”=「職務内容記述書」を貰いこれを持って帰って、翌日から自分一人でやりなさいという形で仕事を始めた。目標の数字等は与えられるが、その達成法は当人が決めることと言って良いだろう。このように新卒を採用し教育してから使うことなどは全く考えていない。<o:p></o:p>


仕事の進め方については一切何の指示も命令もなかった。これも当たり前のことで、既製品を即戦力で採用したのだから、教育的指導などするわけがない。実際には自分で業務の内容を把握して、今日は何をするか、今週の行動は、来月はというようなことに関しては、全て自分で把握して自分に命令を発して動くだけ。結果が出なければ全て自分に返ってくるのだから解りやすい世界。勿論、本社とは毎日綿密に連絡するから、自分の予定外の指示も沢山来る。そこは優先順位をどう付けていくかは本人の判断力の問題である。<o:p></o:p>


兎に角、何でも自分一人でやらねばならず、同じ事業部内でもそれぞれ担当分野も範囲が違うのだから、同僚や他人は全く頼りにできない。何でもやったことの結果は自分に返って来る仕掛け。誰も助けてくれないし、他人を助ける理由がない。これは日本の会社と根本的な違いである。頼りにしても良いのは秘書だけで、彼女(女性と限定しても良いだろう)も異なる”job description”で働いているのだから、便りにできることにも限界がある。<o:p></o:p>


<o:p> 続く</o:p>