新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

謝れば良いってもんだ

2008-03-23 13:41:16 | 200803

 謝ることはは我が国独特の文化であり、誠に潔いことだと思う。だが、極論をお許し願えば「日本独自の、それも関東地方独自の文化」である気がしてならない。勿論欧米人には通用しない非国際的慣習である。

 関西の文化に通暁した関東人から「大阪では関東風に自己の非を認めて謝るような真似をしないよう」と注意されたこともあった。欧米人の間には我が国のような謝罪の文化は存在しないといって誤りではあるまい。その点では関西の文化と共通する面があると思っている。我が国のマスコミは何かと言えば「謝罪がない」と騒ぎ立てる。彼らの中に関西出身者はいないのか?


 


最近はテレビのニュースに「謝罪会見」が頻繁に登場し、会社幹部や何かの過ちを犯した当事者がマスコミに向かって謝罪している。私にはマスコミというかテレビカメラに向かって謝る意味がよく解らない。もっとも、譬えマスコミが相手でも謝罪しなければならないような会社も困ったものだが。しかも中には誰も被害者として名乗りを上げていない「賞味期限切れ」「内容物偽装」等の食品に関する不正行為もある。おっと、「古紙配合率偽装」もあったことを忘れるところだった。


 


ここで取り上げたいのはそのような社会正義に悖るような行為に対する謝罪ではない。スポーツと相撲(当方は相撲をスポーツとしては考えていない、念のため)におけるマスコミの「謝罪せよ」、「謝罪していない」の大合唱に対する疑念である。


 


先ずは相撲だが、長年「相撲は一般社会とは違う彼ら独自の『文化』を持つ別の社会であるから、一般社会の通念でものを言っても無意味」と主張してきたので、ここでは批判の対象から除外しておく。


 


ではスポーツの中で何を、誰を対象とするかだが。一寸古い話だが、第一には亀田一家とその中で次男の亀田大毅である。この一家は大阪出身である。すなわち「謝らない文化圏」から来た人たちである。それに向かってあの大毅のタイトルマッチの敗戦以降マスコミはあの当時に謝罪を要求し続けてきた。私に言わせればとんでもない見当違いである。


 


それでもマスコミの圧力に耐えかねたか協栄ジムと一家を代表した長男の興毅が謝罪会見とやらをテレビカメラ相手に開催した。マスコミの念願が叶ったのである。するとどうだろう、今度は立派な会見だったと賞賛する輩まで現れた。そして先頃協栄ジムで大毅が謝罪会見となった。だが、大毅はすでに単独行動で内藤選手に単独で謝罪に行っている。しかし、テレビはその場面を放映できなかったためか、記者会見での謝罪をせよと迫ったのだろうと推測している。


 


亀田一家を擁護する気はないが、譬え余りにも粗暴で弁解の余地もない反則をしたから対戦相手に謝れと主張する根拠が何処にあるのかが、私には良く解らない。もしも、あの大毅がやったことが犯罪的だとでも言うのだったら、彼は未成年であるのだが()。スポーツの中でも乱暴な行為をすることが多いプロのアイス・ホッケーをカナダで見た時には、グローブを外して本気と見える殴り合いで流血の惨事だった。だが、あの試合後に当事者が謝罪しあったとは聞いていない。


 


ラグビーでは興奮した日本代表級の選手が国内の試合で密集の中で相手を蹴飛ばして線審に見とがめられ、10分間の退場という罰を受けたのを見たことがあった。彼は謝罪会見など要求されなかった。サッカーでもテレビ中継がある試合で相手を負傷させるような反則をして、レッドカード退場となった場合でも、謝罪会見をしろとはマスコミは言わなかった。


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個人種目であるボクシングの大毅の場合は、あの反則に対して減点があり判定負けし、事後にペナルティーも課されたので十分に罰を受けていたと思う。だが、マスコミは謝罪を要求する。関西出身者の亀田一家が反抗的な態度を取るのは無理もないなと思っている。思うに裏では「じゃまくさい奴らや!」と言っているだろう。しかも、今度は謝り方が悪いと批判されている。矢張りマスコミにも謝って貰うしかないか。でも、誰に何に対して謝れねばならないのかと聞かれそうだ。


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自民党の責任

2008-03-23 08:05:06 | 200803
日銀総裁が空席の儘である。日切れ法案の期限切れが現実のことになりそうである。

ガソリンが25円下がるといってマスコミが騒いでいる。税収不足を補うために煙草を1,000円にしたらどうだという意見もあるようだ。

この何れも私には全く縁がないことで実感を伴わない。何故ならば、私はこれまでの長い人生で(?)免許を取ろうと思ったことも、当然試みたこともないので、ガソリンが上がろうと下がろうと無縁なのである。

無縁といえば煙草も吸ったことがない人生である。即ち無煙である?!正直なところ、1,000円が現在いくらからの値上げかも知らない。

だが、日銀総裁不在が重大問題であるくらいは解る。それが自民党の不手際であり、民主党の極めて論理的ではない上策とは到底思えない福田内閣潰しの手段であるくらいも解る。

「民主党コクソン論」はすでに述べてきた。どちらかと言えば、いや言うまでもないが、民主党の方が自民党よりも劣悪であると認識している。

そうではあっても、野中広務の怨念だけで行きずりの人が総理になっただけの福田康夫を勘弁してやることはできない。余りにも無為・無策である。

コクソンはどうやら福田と野中である、それらを選んだ選挙民にの責任があると言おうと思ったが、の中は最早誰にも選ばれていなかったのだ。


アメリカの資本主義#5

2008-03-23 07:42:36 | 200803

Price increase<o:p></o:p>


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アメリカの資本主義にも徐々に変化が現れてきた様子である。その辺りをこの「値上げ」から観察していこう。<o:p></o:p>


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初めて日本市場に進出してきたアメリカのメーカーが戸惑うのが「値上げの方法」である。余談だが、Price hikeという表現もあるが、これは文字数を少なくするために新聞が採用した言葉で日常的に使わない方が良いと思う。<o:p></o:p>


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よく「売り手市場」と「買い手市場」(=”sellers marketbuyers market)と言って市況を形容する。私はアメリカがこの何れも当てはまらない”Producers market”であると思っている。<o:p></o:p>


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何故かと言えば、お客様が精々王様でしかないアメリカでは、物事は全て物を作る方の都合で進んでいると見たのであるから。製造業は須く作る方に都合がよいようにスペックを設定して生産性の向上を図り、コストが上がれば遠慮会釈無く値上げして利益を確保して、自分のためと、忘れてはならないこととして、株主のためを図るのであるから。<o:p></o:p>


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そのような段取りで経営しているアメリカの会社が日本市場に進出してくると戸惑うことがある。何に戸惑うのかと言えば、他の業界はいざ知らず、紙パルプ産業では値上げは客先と話し合い交渉するべき性質の重要事項と知るからである。<o:p></o:p>


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アメリカ企業の考え方は非常に簡単というか単純で、サプライ・サイドでコストが上昇すれば、環境保護対策で新規投資をすれば、そういうコストは全て製品価格に転嫁するのは当然の行為と思われていた。我が国のように円高や原材料の値上がりを自社内で合理化して吸収し、その負担に耐えて得意先ひいては最終消費者に転嫁しないような努力をすることは一般的ではなかった。<o:p></o:p>


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これを捉えて強気であるとか、厳しい経営姿勢であるなどと考える必要はないと信じている。何故ならば、彼らの思考体系は「二進法」であるから、転嫁するかしないかしか選択肢がないだけのことだから。そして、転嫁しないか、転嫁できないで予算に計上されていた利益を失って四半期ごとの決算で赤字を出すことは経営担当者としては責任を取らねばならないという最悪の事態であるから。<o:p></o:p>


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こういう哲学というか資本主義の中で育ってきたアメリカのビジネス・パーソンたちが値上げに抵抗し、話し合いを求める日本の需要家や最終消費者の態度に驚くのであった。彼らは「お客様は神様」であったとは思っても見なかったのであった。彼らにとっては値上げとはただ単に”Post it!”なのであるから。さらにアメリカの需要家も、業界によって異なるかも知れないが、比較的寛容に受け入れてきていたと聞く。<o:p></o:p>


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さらに、この点は「日米企業社会における文化の違い」で述べてきたように、彼らは得意先の値上げ反対の主張に容易に耳を貸そうとはしない。聞き入れられなかったならば受け入れてくれる先に売るだけである。そして、お互いに”Dont feel bad. Lets see each other again, some day.”と言って別れるだけだ。彼らは将来市況が変わって頭を下げてまで買って貰わねばならぬ事態が発生すれば、何事もなかったかの如くに売り込みに来るだけである。これを鉄面皮とも言うだろうが、彼らは普通の商行為と思っているようだ。<o:p></o:p>


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そのような具体例を挙げれば、1997年に山一証券が破綻して数千人が失業した時を思い出して頂きたい。そこに現れたメリル・リンチがその何割かを吸収して日本進出を果たした。マスコミは挙って「良かった、良かった」の大合唱だった。当時私は紙パ専門誌のコラムに「何が目出度いか。彼らは市況が思わしくなくなり、思うように利益が出なければ即刻日本市場から出て行く会社だ」と指摘して、遺憾ながらその通りになってしまった。その時のメリル・リンチと現在のものは違う組織である。悪ければ引き、良くなれば再度参入するのが二進法的思考体系である。<o:p></o:p>


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であれば、コストを得意先に転嫁するのは当然の商行為と思うのは当たり前なのである。そのアメリカを2005年にカトリーナ台風が襲った。先ず化石燃料が高騰し、輸送コストが急騰した。だが、この頃からアメリカ経済も低迷し始めてコストの販売価格転嫁が簡単にはいかなくなってきた。値上げは通告すれば済む性質ではなくなってきた。しかもドル安も同時にやってきて需要家も最終消費者も激しい抵抗をするようになってきたのだ。<o:p></o:p>


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紙パルプ産業の動向を通して語れば、その頃からIT化の影響が業界を襲い印刷媒体の衰退とともに新聞用紙等の需要が目に見えて減少していった。メーカーは操短や設備縮小で対応した。だが、そこにエネルギー・コストのみならず住宅着工の不振によりパルプ等の原料の値上がりが始まった。古紙も中国が世界中から買い漁って値上がりした。<o:p></o:p>


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メーカーは当然の策としてコスト上昇分を値上げする手段に訴えた。だが、需要家も最終消費者もこれまでのように「はい、そうですか」とは受け入れなかった。そこで、ついに「値上げを話し合う時代になった」と悟り、値上げ幅を半額とすることで妥協し、実施期日を先延ばしにするようになってきた。中には「今回は前回の値上げの積み残し分を加えて何%」等という事例も現れてきた。<o:p></o:p>


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このような事例が示すように、供給者側の事情だけで物事が進まず、Producers marketからBuyers marketへの移行の兆しが見えてきた。私はこれ即ちここで云々する必要もない要素も加わって「アメリカの資本主義衰退への道」が見えてきたと思うのだが。<o:p></o:p>