謝ることはは我が国独特の文化であり、誠に潔いことだと思う。だが、極論をお許し願えば「日本独自の、それも関東地方独自の文化」である気がしてならない。勿論欧米人には通用しない非国際的慣習である。
関西の文化に通暁した関東人から「大阪では関東風に自己の非を認めて謝るような真似をしないよう」と注意されたこともあった。欧米人の間には我が国のような謝罪の文化は存在しないといって誤りではあるまい。その点では関西の文化と共通する面があると思っている。我が国のマスコミは何かと言えば「謝罪がない」と騒ぎ立てる。彼らの中に関西出身者はいないのか?
最近はテレビのニュースに「謝罪会見」が頻繁に登場し、会社幹部や何かの過ちを犯した当事者がマスコミに向かって謝罪している。私にはマスコミというかテレビカメラに向かって謝る意味がよく解らない。もっとも、譬えマスコミが相手でも謝罪しなければならないような会社も困ったものだが。しかも中には誰も被害者として名乗りを上げていない「賞味期限切れ」「内容物偽装」等の食品に関する不正行為もある。おっと、「古紙配合率偽装」もあったことを忘れるところだった。
ここで取り上げたいのはそのような社会正義に悖るような行為に対する謝罪ではない。スポーツと相撲(当方は相撲をスポーツとしては考えていない、念のため)におけるマスコミの「謝罪せよ」、「謝罪していない」の大合唱に対する疑念である。
先ずは相撲だが、長年「相撲は一般社会とは違う彼ら独自の『文化』を持つ別の社会であるから、一般社会の通念でものを言っても無意味」と主張してきたので、ここでは批判の対象から除外しておく。
ではスポーツの中で何を、誰を対象とするかだが。一寸古い話だが、第一には亀田一家とその中で次男の亀田大毅である。この一家は大阪出身である。すなわち「謝らない文化圏」から来た人たちである。それに向かってあの大毅のタイトルマッチの敗戦以降マスコミはあの当時に謝罪を要求し続けてきた。私に言わせればとんでもない見当違いである。
それでもマスコミの圧力に耐えかねたか協栄ジムと一家を代表した長男の興毅が謝罪会見とやらをテレビカメラ相手に開催した。マスコミの念願が叶ったのである。するとどうだろう、今度は立派な会見だったと賞賛する輩まで現れた。そして先頃協栄ジムで大毅が謝罪会見となった。だが、大毅はすでに単独行動で内藤選手に単独で謝罪に行っている。しかし、テレビはその場面を放映できなかったためか、記者会見での謝罪をせよと迫ったのだろうと推測している。
亀田一家を擁護する気はないが、譬え余りにも粗暴で弁解の余地もない反則をしたから対戦相手に謝れと主張する根拠が何処にあるのかが、私には良く解らない。もしも、あの大毅がやったことが犯罪的だとでも言うのだったら、彼は未成年であるのだが(?)。スポーツの中でも乱暴な行為をすることが多いプロのアイス・ホッケーをカナダで見た時には、グローブを外して本気と見える殴り合いで流血の惨事だった。だが、あの試合後に当事者が謝罪しあったとは聞いていない。
ラグビーでは興奮した日本代表級の選手が国内の試合で密集の中で相手を蹴飛ばして線審に見とがめられ、10分間の退場という罰を受けたのを見たことがあった。彼は謝罪会見など要求されなかった。サッカーでもテレビ中継がある試合で相手を負傷させるような反則をして、レッドカード退場となった場合でも、謝罪会見をしろとはマスコミは言わなかった。
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個人種目であるボクシングの大毅の場合は、あの反則に対して減点があり判定負けし、事後にペナルティーも課されたので十分に罰を受けていたと思う。だが、マスコミは謝罪を要求する。関西出身者の亀田一家が反抗的な態度を取るのは無理もないなと思っている。思うに裏では「じゃまくさい奴らや!」と言っているだろう。しかも、今度は謝り方が悪いと批判されている。矢張りマスコミにも謝って貰うしかないか。でも、誰に何に対して謝れねばならないのかと聞かれそうだ。
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