新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

宮里藍は帰国せよ

2008-03-04 09:48:05 | 200803

私は「彼女はあの身体ではアメリカ人その他の外国人の中に入ってスポーツをするのは得策ではない」と思っている。だから、帰国せよと言うのだ。簡単に言ってしまえば「文化の違い」である。だが、問題はそれほど単純ではないと思う。彼女が「アメリカというシステム」にどれだけ馴染み、何処まで対抗できるかであろう。


アメリカでは物事は須く彼らの体力と体格を基準にして設計されている。それが我々にはどれだけ負担になるシステムであるかは、その中に入ってみなければ解らない。いや、解らない場合だってあると思っている。それに耐えていくことと、彼らと対等にやっていくことは別問題である。


我々はスポーツ選手ではないから基礎体力のみの勝負をしているわけではないのだ。だが、現実には体力で勝負して、さらに仕事、すなわち頭脳労働の面でも対等になるまでやらねばならない。体力と頭脳の何れかで対抗できれば良いのではなく、両方を備えていなければならない。そんなことは当たり前であると言いたいだろう。それがどれだけの体力消耗戦かは「やってみなければ解らないじゃないですか」と小泉前首相のように言うしかない。


私は半ば諧謔的に「アメリカの会社で何とか仕事をこなしていくのに必要なものは、口から下だけで頭は要らない」と言って説明してきた。


宮里藍が直面しているのはこの問題であろうと思う。それは、「ゴルフさえ上手ければ賞金も取れて、生活は成り立つ。英語は今でも少しは解っている。向こうに行けば実地訓練で上達して何とかなるだろう」と考えたのではないかと推察している。その点は自分も似たり寄ったりだったから言うのだが。


だが、そこに立ち塞がったのが社会システムと通念の違いだった。そこに体力という基本的な問題が、想像以上の激しさで襲ってきたのだ。ある時、私の2週間ほどのアメリカ国内の出張予定表を見たサン・フランシスコ駐在の商社員が「こんな無茶な計画では死ぬよ」と警告した。彼はすでに体格と体力の基本的違いを見抜いていたのだった。現実には猛烈な肩こりと、常に襲ってくる頭痛に悩まされていた。国内のホテルのマッサージ師にも何度も注意された。


この違いは正直に言って想定外だった。対策は自分の身体を慣らす以外にはないのである。しかも、我々には時差が待っているのだ。そこにさらに「文化の違い」も入ってくる。英語だって負担がゼロであるはずがない。


始めの間は常に上を向いて話さざるを得ないと感じていた。これは身長の差だけではなく、何か見えざる壁に向かって語っているかの間があった。上向き会話の悩みは時間が解決してくれた


その壁と体力差を乗り越えて初めて彼らと対等に近くなると思っている。確認しておくが、頭脳のことではない。頭脳の力を発揮できるまでに乗り越えるべき障害物のことである。宮里藍はこれを乗り越えた上で、力で勝負するゴルフを、あの身体でやらねばならないである。すなわち、見えざる壁とゴルフの業で競う世界に入って、あの結果であろう。パットがどうの、飛距離がどうのという問題ではないと懸念する。


但し、この論法に破綻がくるとすれば「何故、韓国のゴルファーは男女ともアメリカで世界の一流選手の中で堂々とやっているのだろう」という問題ではないか?


020408



日米企業社会における文化の違い#4

2008-03-04 08:04:00 | 200803

承前)<o:p></o:p>


ビジネスにおける決断は厳しい:これはよくあるアメリカ人の決断に対する無用の礼賛である。ここに日本人がアメリカを誤解する最たる例がある。すなわち、「アメリカのビジネスの決断は厳しいし、容易ならざる冷酷な決断を簡単に下す」という認識の仕方である。日本と比べて考えるから「厳しい」し「冷酷だ」と見えるのであって、ここに二進法の原則を当て嵌めれば、何でもない日常茶飯事的な決断でしかないのだが。<o:p></o:p>


 例えばある新規事業に進出したとしよう。当然事前に十分な”Feasibility study”も行ってのことである。そこでその条件に「5年後には総投下資本利益率で15%を達成しなければ、その事業からは撤退する」と決めてあったとしよう。そして5年の歳月を経て市況その他が我に利非ず、努力の成果実らず(一寸極端な例だが)利益率が14.9%に止まったとしよう。経営者の決定は「決めたことに従って撤退」である。結果重視の思想では「5年間良く努力した」等という中間の事情は斟酌されない。撤退させられた方も「決め事だったから」とあっさりしていることが多い。要するに「結果」が出ていなければ、中間の努力などは何にもならないと考えておけば解りやすくないか?彼らには感情が入り込む余地が余りないのである。<o:p></o:p>


 こういうアメリカ人の行動様式を、過程重視の我が国の経営の精神から「厳しい」などと尊敬して貰いたくない。彼らは何処まで行っても二者択一でしかないのだから。しかもそこには「感情」などは先ず入ってこない点も我が国との違いであろうか?<o:p></o:p>


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日本人は狡い?<o:p></o:p>


二進法的思考の悪い例を挙げておこう。1970年代に世界的に有名な企業某社のNY等のアメリカの支店で受注→発送の過程で誤りが多発したそうだ。そこで諸般の政治的配慮から採用していたアメリカ現地法人の現地人の社長が立ち上がって仕事をしようとした。それは深刻な営業上の問題であるとの判断に基づいていた。社長さんが早速原因を究明したところ、電話で受注するだけでは何の証拠も残らず、客先からの受注内容も再確認できず、その結果で誤配送が多くなっていたことが判明したのだった。


二進法的思考体系の落とし穴:彼は早速全米の支店長を集めて会議を開き「今後は電話での受注を禁止する。客先にはこの旨を通告して、電話発注をお断りしろ。そして、今月から早速添付した注文書に内容を書き込んで郵送またはFAXして頂きたいとお願いする手紙を作ったから、各支店から直ちに発送せよ」と厳命したそうだ。


 ここで恐ろしいのが、彼に自社の事務員の熟練度や質の問題ありとも考えずに、一気呵成に得意先に問題を解決させようと考える純真・純粋さである。いや、発想であり、能率主義だろうか?電話受注を何とかすることしか考えないことがアメリカ式なのである。そう考えた途端に、そこを改善すると考えが進むのである。他の選択肢が思い浮かばない点である。二者択一でどんどん進んでいく。嘗て、趙治勲(だったか?)という碁打ちが「如何なる局面でも56の手があるもので、その中から考えないで瞬間に閃いた手を打てるようになり、それが最善の手である境地に早く達したい」と言った。アメリカ人の頭には選択肢が二つしかないのが怖いのである。


日本人支店長の選択:彼らの思考回路はそれよりも複雑(?)にできている。そして、会議終了後日本人の支店長だけは別途集まって「全くナンセンス。社長は営業の現場を承知してこんな指令を出すのか?こんな文書を出せば受注激減が見えている」と意見一致。全員で手紙を破棄して、任地に戻ったそうだ。


23ヶ月すると結果は明らかになった。日本人支店長の店は営業成績が変わらなかったにもかかわらず、現地人の店は不振に陥っていたことが判明。すると社長はまた会議を招集して言った。


 「あなた方日本人は狡い。何故あの時に反対と言ってくれなかったのか?あなた方は船が沈みそうだから皆で海に飛び込んで逃げようと命令されながら、飛び込む振りをしただけだった。正直に飛び込んだ人は皆溺れかかったが、船は沈まずにあなた方がしていることは皆船上からその苦しむ様を見て眺めて笑っているに等しい振る舞いだ。今後は言いたいことを必ず言ってくれ」と宣言して、電話受注復活を許可したそうだ。


問題点:ここには2点ある。一つは現地人の事務員の「質」の問題と、アメリカ式の合理的とも見える短絡的思考回路の改善が有効ではないと見抜いた日本人支店長達の知恵が、現地人を上回ったこと。すなわち、彼ら現地人は「二進法」でしかものが考えられずに、誤送→電話受注廃止→文書で通告→改善可能と進んでいったことである。換言すれば、各得意先を巡回して事情を説明して納得させ、お願いするという考え方をしないことである。日本人からすれば、アメリカは広い国なのは事実だが「メーカーが宣告すれば、全てことが思うままに進む」としか考えられない思考体系が怖いのである。彼らは「話し合う」よりも「通告する」方式で商売をする国民性なのである。


 さらに言えば、現地人の熟練度不足と質の低さに単純な思考回路が、問題を一層深刻にしていたと言える。何故、社長は社員教育を考えなかったのかも、日本式に考えれば疑問ではないか?換言すれば、二進法的思考体系では一度進むべき方向を誤ると、二度と進むべきだった方向には戻れない危険があるのだ。だから、私はアメリカにはおよそ信じられない「単純なエラー」が多くなると考えていた。


狡いのではない!:この違いと「アメリカ人の行動パタン」を見抜いていた某社の駐在員達が優れていたので、狡いのではないと見るのが正解かなと思いながら、この話を当時の某社の子会社社長(後に本体の副社長)から聞いていた。


 最後に、当時は政治的配慮もあったのに、今やこの会社の本社にはそうとも思えない事情から外国人がトップに就任している。これは一体何を象徴しているのだろう、とは考えすぎだろうか?


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性悪説対性善説:<o:p></o:p>


何故クレディット・カードを持たねばならないのか:先ずはアメリカが見事なばかりの性悪説の国であるとご理解願いたい。その点から先ず説明しておこう。大体からして「性悪説」に相当する熟語は英語にはないと知って貰いたい。こう言う以上、勿論我が国は「性善説」が広く信奉されているとお察し願いたい。<o:p></o:p>


 在職時には何度となく日本のお客様にアメリカでのホテルの予約をさせて頂いてきた。ここで重要なことは、アメリカの大手企業は全米大都市のホテルとは契約を交わして、年間に一定の宿泊数を保障する見返りに”Corporate rate”と称する格安の宿泊代を貰っている点である。すなわち、我々に頼めば格安で泊まれるのである。その際に地方から見える方と高齢の方には「必ずクレディット・カードをご持参下さい。それをホテルのチェック・インの際に何処の会社を通じての予約であると告げてから、”receptionist”に提示してください」と申し上げるのではなく、寧ろお願いしてきた。残念ながら、「現金払い」の国に長年住んでおれる方はカードを嫌われる傾向があり、当方の切なるお願いを拒絶されてしまうことが多かった。<o:p></o:p>


 その結果どうなるか?後から同じホテルに到着すると「このホテルは怪しからんのです。我々を何と思うのか、法外な預かり金を取られました。最早現金が残っていません。W社さんも失礼なホテルを紹介してくれましたな」と強烈な、ホテルに対するだけでなく紹介者にも不満を訴えられる。「アーア、またか」である。カードを持ってこられなかったのである。アメリカでは「クレディット・カードも持てないような信用されていない人物」と見なすので、食い逃げ(泊まり逃げか?)防止策として滞在日数の何倍かの宿泊代相当の現金を預かる方式をとっている。泊まり客が誰だろうと「無銭宿泊」すると見ているのだ。我が国ではお客様に対してそのような失礼な態度を取るホテルも旅館もない。カードを持つとお金を使いすぎるから-という節約の精神はアメリカ人には理解されるはずもないのだ。「人を見ればなにやらと思え」という諺が日本にもあるではないか!だから国際取引では契約書を交わして契約内容の実行を迫るのだと言えば、より解りやすいか?<o:p></o:p>


 アメリカは性悪説の国である点を簡単に説明出来る材料が他にもある。それはデパートだろうと小売店だろうと、靴の売り場には両方とも陳列されていることは先ずないと思って間違いではない。それは両足の分が揃っていれば万引きされるという警戒態勢を採っていると言えば解りやすいだろうか。その点では我が国の靴屋さんなどは鷹揚なものだと思う。それだけではない。外国人は電車の網棚に何ら躊躇せずに荷物を置く精神に驚くのである「あれでは持っていってくれ」と言っているのと同じではないかと彼らは言う。<o:p></o:p>


 こういう基本的な考え方があるから、ビジネスの折衝などでは「そこまで我々をお疑いですか」と言いたくなるような条件を出してくるのである。それに対して感情的な対応をすれば、彼らは驚くだけである。だが、その前にこちらが驚いている。そしてお互いに不信に陥る。であればこそ、相互理解を深めようと主張するのだが。<o:p></o:p>


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社会通念の違い:<o:p></o:p>


この説明は容易ではないのだが、ここでは簡単に触れておくことにする。 解りやすい例を挙げれば、アメリカの企業ではごくあっさりと社員を馘首する。当日出社してみたら机の上に「貴方に与えられていた仕事は昨日までで終わった。この書面を経理部に持参して今日までの給与を貰って帰ってくれ」と記された手紙が置いてあると、数人の経験者から聞いた。「たった今解雇通告を自分のデスクの上に発見した」と言って自棄酒を飲む人物につき合わされたこともあった。彼は上司と馘首撤回に戦う気はなかったそうだ。日本の企業ではあり得ない現象であろう。年俸制の社員は年に一度部門の長と過去1年間の成績査定のミーティングを行う。そこでは簡単に言えば5段階で評価されるのである。そして最低の評価である「1」であれば解雇となることが極めて多い。如何に労働の流動性が高い国とはいえ「馘首」は最悪であるが、馘首された方は穏やかに引き下がることが多いと聞く。「聞く」と言うのは自分が経験したことではないし、飽くまでも伝聞であるからだ。<o:p></o:p>


 その素直に引き下がる理由は「社会通念」として広く受け入れられているからだと、ある著名な日本企業の経営者でアメリカの工場長経験者から聞かされた。これを演繹的に考えれば、目標値を達成出来なかった事業から撤退し、結果だけを求めるのも社会通念かも知れない。<o:p></o:p>


続く<o:p></o:p>