今朝もテレビで何処かの外国人をこの何れかとして紹介していた。勿論褒めているのだし、こういう方が出てくれば日本にとって良いことになると言いたいらしかった。私はこのようなレーベルを貼ることは無意味だと言いたいが、マスコミは直ぐにこういうレーベルを貼りたがる。だが、私に言わせれば、外国の事情に精通するのはそれほど簡単なことではない。何を基準にそんなことが言えるのか、不思議でならない。
マスコミは何時までこんなことを言って、罪なき一般の方を誑かす気だろうかと思うとウンザリする。その外国がどういうものかを特派員からの情報程度で解るくらいなら、誰も苦労しないと思うのだが。大体からして親日だの知日だのは如何なる基準で決めて言うのだろうか?何か具体的にそういう物差しでもあるのか?
自分自身20年以上もアメリカ人が経営する会社で働き、日本とアメリカで年間1:3くらいの比率で過ごしてきた。それなりにいっぱしの知米家であると思う。”chibei”と入力しても出てこないのだから我が国にはそういう概念がないのだろう。だが、正直に言えば私が知っているアメリカなどは、全体を100としたら希望的観測を入れて20~30程度だろうと思っている。そんなものだ。昔の喩えに「群盲象を撫でる」というのがあった。私は足の2本くらいは撫で終わっていると信じている。それでも、一般の方の数倍は解っているだろう。だが、知米派などと自称する勇気はない。
アメリカにも確かに日本の事情に明るい人はいる。それは仕事上日本に来ることがあって、刺身や寿司や天ぷらやザル蕎麦を食べて京都に行った程度でも、日本に来たこともない人から見れば「知日」になってしまうのである。当方が得意とする「日米企業社会における文化の違い論」を滔々と語るような人には、残念ながらお目にかかったことはない。
東京の丸の内に「欧州日本研究所」=The European Institute of Japan Studies(EIJS)という組織がある。スエーデン系である。ここでは毎月外国から有名大学教授、エコノミスト、政府高級官僚等を招待して講演会を開いている。数年前までは有力会員であったT社副社長K氏(当時)のご招待で聞きに行っていた。その講師の中に何回か知日家ないしは親日家がおられた。日本の経済やある分野の事情を語られた。ある意味で大変興味深い講演だった。終わってからその帰途K氏と嘆きあったものだった。「あの程度の皮相な(superficialという言葉があるが、私の好みはskin-deepだった)な認識で日本通を気取られてはたまりませんな。時間の無駄でしたね」であった。
何を大それたことを言うかとお怒りの向きもあるだろう。外国人が言うことがそんなに有り難いのか、そんなことを言うのは単なる外人崇拝に過ぎないとだけ言っておく。それではご自身の日本の文化の知識の度合いを考えてみていただきたい。外国の文化と比較して、外国人の前で論ずる勇気がありますか?彼らの知識はその程度なのです。
他国の文化や諸事情を語るためには、矢張りその国に行ってその国の言葉を使う必要があると思う。本を沢山読み、統計等の数字を通しただけでは本当の実情を掴めないと思う。知日家や親日家が日本を頻繁に訪れて日本語を駆使して自分の手と目で日本の実情を把握したのだろうか?少なくとも、私は彼らの会社の中で、英語で話す以外に意思疎通の方法がない出張生活を、年間を通じて3ヶ月以上経験してきた。自分が肌で感じたアメリカを論じているのだ。それでも謙虚に?理解と認識度が20~30と言っているのだ。
現時点でも、民主党の候補に選ばれるかどうかも解らないオバマとクリントンの何れが日本に好意を持っているかなどと愚にもつかないことを言っているのがマスコミだ。彼らが知るわけがないでしょう。これまでに日本に何度も来たわけでもないのだから。もし運良く大統領にでもなれれば、彼らの周りの知日家のスタッフが補いますよ。
そもそも知日だろうと何だろうと、その人がそれだけの理由で日本のためを考えた政策をとり、日本に優しくするわけがあるのか?私は少しでも一般人よりもアメリカを知っているが、何か機会があればアメリカ批判を展開している。それは、アメリカが好きとか嫌いとかいう問題とは別のことだろう。
このように安易に知日だの親日だのと言うような姿勢を一刻も早く捨てて、自分から日本とはこういう国で、あなた方とはここが違うのだと、真っ向から言えるようになって貰いたいものだ。お断りして置くが、マスコミだけではなく政治家と官僚にも。□