新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2007年の日本の広告費

2008-03-08 16:22:11 | 200803

電通が発表した“2007年日本の広告費”が紙業タイムス社の週刊誌版“Future”に掲載されていた。そこからの引用である。


実はこれに関連して昨年8月にSBSラジオで2006年の「紙媒体の衰退」を取り上げていたので、その消長をざっと取り上げてみる。簡単に言えばインターネット広告の一人勝ちのような結果であって、矢張りかと思わせられた。


すでに広く知られているようにアメリカでは新聞の衰退が著しく、新聞用紙の需要も製造設備もここ5年間に20%見当激減している。中には「新聞が生き残ろうと思うならば全量フリーペーパーにするしかない」等という極端な説を唱えるアナリストもいるくらいだ。雑誌も同様に苦況で、かのTIMEは昨年4月から発行部数を400万部から20%削減して320万部にしてしまった。その言い訳が凄かった。「この80万部はホテルや航空機内で無料配布しているのだから、売り上げには影響がない」だった。


さて、2007年の日本の広告費だ。


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総広告費            70,191億円   対前年比     1.1%<o:p></o:p>


マスコミ4媒体      35,699                    2.6%<o:p></o:p>


 新聞               9,462      〃       5.2%


 雑誌               4,585       〃    4.0%


 ラジオ             1,671      〃       4.2%


 テレビ            19,981            〃    0.9%


インターネット       6,003      〃      24.4% <o:p></o:p>


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となっていた。紙パルプ業界出身者としては落胆せざるを得ないと同時に、この流れをせき止める手段は残っていないのではないかと、再認識した。


以前こんな数字を教えて貰ったことがある。それは我が国の人口に占める高齢者(65歳以上のことらしい)が25%を占めている。その中の10%PCを持っている。すなわち1,250万人程度だ。さらにそのまた10%が日常的にPCを使って仕事をするなり、何らかの形で活用しているのだそうだ。


それを聞いて私は思った。それならば可処分貯蓄?が各年齢層の中で最も多いと言われている高齢者宛にインターネット広告を打ったところで、費用対効果が思わしくないのではないか。故にインターネット広告はアメリカほどには普及しないで、紙媒体もアメリカほど急速に衰えないであろうと希望的観測を立てた。


だが、インターネット広告は06年にすでに対前年比で27.8%を記録しており、07年も多少成長率が鈍化したとは言え、他を圧している。これでは我が国の製紙産業は古紙配合率問題などでウロウロしている場合ではあるまい。




コクソン

2008-03-08 13:10:39 | 200803
コクソンを漢字にすれば「黒損」というのがある。これは印刷会社で刷り上がった紙が何らかの理由で廃棄されるものである。だが、ここで論じたいことは印刷ではない。
“国損”であり、こちらは「国益」の反対語だと思っている。近頃の政治を見ていると余りにも国益に反したこと、すなわち国損が多すぎる。いや、国損に止まらず「民損」もまた多過ぎはしないか?今朝も、みのもんたが4月から始まる75歳以上の高齢者に適用される健康保険に対して口を極めて非難していた。彼が言わんとしてくれたことは「民損」だろう。頑張れ、みの!
近頃の民主党(クリントンとオバマの民主党ではない、念のため)の無様な行動を見ていると、彼らが完全に国損を目指していることが解る。インド洋に給油艦を派遣する法案の時、日銀総裁人事に対する不同意、予算委員会の審議拒否、道路特定財源に対する戦法等々。どれ一つを取っても国益を考えているとは到底思えない。
それに、我が国はそれでなくとも海外に対する自国に関する情報発信量の極端な不足で、理解されざる国のステータスを堅持している。そこに、このような海外にどう見られるか、海外で評価されるとは思えないような国情を、海外のメディアに思い切り流させているのが民主党だ。国損誘導である。だが、あの民主党の優秀な議員を選んだのも国民であるから、自業自得かも知れない。
国損はこれだけではない。海外の諸国に対して言うべきことを言わず、どれほど不当な扱いを受け、言われっぱなしでも、当然強硬にすべき抗議もしていない担当官庁がありはしないか?欧米人は「言わなかったことを察してくれる」人種ではない。例えば、シー・シェパード(スイ・シェパードだと思うがね)の乱暴狼藉且つ無法行為に対して眦を決して国交断絶も辞せぬことくらいを言って抗議したとは聞いていない。あれでは調査捕鯨船の乗組員が余りにも可哀想ではないか!日本国が真っ向から諸外国というかアメリカとオーストレイリアに抗議して、今更何かを失うか?そんなことも解らない国損論者なら不要だ。強烈な抗議を公式に申し立てないから、彼は暗黙の承認と勝手に解釈しているのではないかとすら思いたくなる無為無策である。
我が国には資源としての鯨が必要だというならば、何故国益を視野に入れて船団を守って上げないのか?
マスコミも国損を目指してまっしぐらだ。沖縄の海兵隊員の暴行事件の扱いでも、イージス艦の漁船との衝突でも、全く理解できな報道姿勢に終始している。国損になるとしか思えないようなイージス艦の活動の内容を詳報しているのは、誰のためだろう?
何事でも10対0というような事故があるとは思えないのだが、何か勝ち誇ったように国益となるとは思えないことを書き連ね、語っていはしないか?
国のためになることとはどういうことか、もう一度踏みとどまって考えたらどうだろう。その昔「売国奴」という言葉があった気がするのは錯覚だろうか?


日米企業社会における文化の違い#8

2008-03-08 07:36:02 | 200803

承前<o:p></o:p>


5)外部業務委託(Outsourcing):<o:p></o:p>


コンサルタントがマシンを設計した!:<o:p></o:p>


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Ph.D.MBAMBAとは何者かはすでに説明した。ここでは新たにPh.D.ラテン語の”Philosophiae Doctor”、英語では”Doctor of Philosophy”の略語、アメリカでは博士号のことである)を登場させた。アメリカの企業には技術系を中心に博士号の所有者が多い。W社の中央研究所などは俗に言う「石を投げれば博士に当たる」状態だった。企業内だけではなくコンサルタントにも多い。いや跳梁跋扈していると言えはしないかと思う程だった。<o:p></o:p>


 アメリカの会社では外部業務委託でコンサルタント会社と契約して各種の調査・研究を依頼する傾向がある。この傾向が日本の会社と異なっているか否かまで調査したことはない。先ず具体的な例を挙げよう。<o:p></o:p>


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社内の情報だけでは不十分:1987年のことだった。本社のある事業部が日本進出の本格的検討を開始して、社内ただ一人のその分野の日本の会社に勤務して実地経験がある当方が、その本社事業部本部長兼副社長と日本駐在副社長に対して、当人が完璧と信ずる日本市場に関するpresentationを行った。そして、ほぼ本決まりとなった。ところが、両副社長は日本市場の調査をあるHarvardPh.D.である人物が主宰する外資系調査会社に依頼すると言ってきた。自尊心を傷つけられ愉快ではなかった。


これはかなりの権威がある組織で、博士はテレビにも登場する有名人だった。そして実行されて、多額の調査費用が支払われた。調査報告書の内容はほぼ当方の説明と同じだった。その結果当方の説明の裏付けができた。だが、私には何故そうしたかが全く腑に落ちなかった。「私の説明では信用ならぬというのか?何が不満なのか」と彼らに穏やかに詰め寄ってみた。納得がいく説明は聞けなかった。それは当然であって、彼らは現在の専門の担当者でもない一社員の言うことだけで一事業部の政策を決定することはできないと考えているだけのことで、当方のpresentationの内容云々の問題ではないのであった。アメリカではそのためにPh.D.を多数雇用しているコンサルタント会社があるのだと、後になって学んだ。だが、コンサルタントは必ずしも実務経験を積んだ人たちの集団ではなく、情報を集め統計を分析して報告書に纏めてくる優れた才能を持つ人たちの集団でもある(と密かに信じている)。彼らはそのコンサルタント達が果たす役割を評価し尊重し、調査・分析を依頼して自社の判断の資料とし、社員教育をも任せているのである。


実は、これも後になって知ったことだが、その際の報告書はある有名銀行の産業調査部の精密な報告書を英訳したところが大部分を占めていた。


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コンサルタントがマシンを設計した!:1988年にW社が、日本のある大手メーカーの技術者3名に両社間の技術提携契約の下に、カナダとアメリカの工場への出張と指導を依頼した。この時に日本の会社が指導する立場にあると思っていた人は、日本市場には皆無だった。


その中心的役割を担われた工場の課長(当時)I氏がどれほど素晴らしい技術者だったかは別な機会でもあれば語るとして、ここでは、その時に何が起きたかを詳しく述べるだけに止める。


カナダの工場でI氏は新規に導入した未だ日本には導入されていなかったと記憶する近代的マシンを工場側の求めにより隈無く視察した。そのためには装置産業にとっては重大な問題である「マシンを止める」ことまで敢えてした。後刻I氏は「アメリカ人は懐が深い」と驚きを語った。その視察に最中にI氏が「何故この部分をこのような構造にしたか」といくつかの質問をした。それに対する製造部長の答えが「設計はコンサルタントがしたこと。私はマシン操業のために雇われたので、設計段階で何があったかは知らされていないので、その質問に答えられる立場にない」だった。正直に言ってI氏が驚く前に当方が驚いた。


ホテルに戻ってからI氏が言った「我々の工場で新マシンを導入するならば、各マシンの課長が集まって“新マシンの設計はかくあるべし”を討論し、その結果を纏めて会社に提案するだろう。コンサルタントに依頼するなどとは考えられない。これぞ将に日米間の文化の違いであり、その点を深く認識できた」と語られた。


私に言えることは、そのマシン設計を手掛けたコンサルタント事務所には、多くの修士及び博士号を持つ人がいるだろう。ここまでは「だろう話」だが、彼らが製紙の現場に立ったことがないことは間違いない。その点はすでに説明してある。それでも、彼らは所謂学識経験者として設計するのだ。ここに、日米間の違いがある。


ここに採り上げたように「コンサルタント」の存在は日米間の企業社会の大きな違いの一つであろうと確信している。当方にもそう思わせてくれる出来事だった。


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6)日米両国における会議の在り方の違い:<o:p></o:p>


集中力維持が巧みなアメリカの企業<o:p></o:p>


始まった時には終わっているアメリカの会議:日米何れの国の会社においても「俺は会議が好きだ」という変人にお目にかかったことがなかった。この変人には我が生涯の最高の上司も入っている。兎に角会議は開かれる「また時間の無駄遣いかと思える」のに頻繁に開催される。だが、アメリカの会社に転じて日米間の会議の在り方にかなりの違いがあることに気が付いた。その点を採り上げてみる。<o:p></o:p>


 先ずはアメリカ式会議の運営システムでは「会議が始まった時には終わっている」と感じた点だった。これは具体的に言えば、会議を招集する最高責任者から事前に当日討議する各項目のどれを誰が担当して当日までに完璧に資料を準備して発表せよと指示があるためだと思っていた。そこでは各自は外向けの用事などは思い切りよくあっさりと放棄して(アメリカでは日本とは違ってお客様は精々王様で、神様ではないからこのように扱うのかと思っている)準備に一意専心する。であれば、当日着席した時は各人にとってはもう終わったに等しいのだ、上司が難しい質問さえしなければ。後は如何に参加者全員が理解するように発表するだけだから。<o:p></o:p>


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Presentation<o:p></o:p>


手法:この発表をPresentationと呼ぶことが多いが、アメリカの会社に転じてこういうことに手順というか、手法が定められてきちんと成文化されていたのには驚いた。始めは戸惑ったが慣れるに従ってその手順さえ踏めば容易に複雑な内容のことでも発表できると悟った。そのアメリカ式手法をこと細かに本邦初公開と行こう。


A)準備段階:与えられた時間内に収まるようにすることだ。その時間は10分のことも60分のこともあるので、内容に応じて発表できるように頭の中を整理しておかねばならない。此処が肝心な点である。


そのためには、早期に話すべき内容を纏めておかねならない。これは話すべきことの原稿(彼らは”narrative”と呼ぶことが多い。”narration”とは異なる)を書く作業である。そして、それを基にして要点を項目別に纏め大見出しを付ける。その中の各項目に小見出しを付ける。これを彼らはその要点となる項目を”punch line”と呼ぶ。


BRehearsalアメリカでは社内の会議であれ何であれ、先ずは原稿の段階でリハーサルというか予行演習を行う。聞いてくれるのは限られた人数でも誰か第三者が立ち会って貰わねばならない。第三者には厳しい意見を出して貰い、加筆・削除・訂正の資料にする。それにより時間内に実際に収まるかどうかが判断できる。従ってnarrativeの訂正もできる。盛り上げるべき要点も解ってくる。


C“Homework”改善すべき点が解ったら直ちに書き直して自宅でも社内でも何処でも、原稿を何回も声を出して読んで、極力記憶するように努める。その間に再び加筆・削除・訂正箇所も発見できる。彼らの中には暗記して話すのではなく、本番でも原稿を読む者もいる。それは時間内に収まることを忠実に守ろうとするからである。だが、「読む」ことを評価しない聴衆(上層部)もいるので要注意。


D)本格的予行演習:これはなるべく大人数を集めて行う。これは社内だからこそ可能なのであるが。すなわち、全部員か全事業所員が対外折衝業務を放棄してまでも聴衆の役を果たして貰うことができるからだ。このように社内の行事を優先してまでも予行演習を行う点にアメリカでは「お客様は神様」ではないことが良く現れていて興味深く演習していたものだった。


E)発表の形式:視聴覚室がある場合はスクリーンや映写機やビデオを活用できるので、そのどれを使用するかを決めて、資料や材料を準備する。その際は手伝ってくれる人が必要である。その人物と事前に綿密な打ち合わせをしておくことも必要となるのは、言うまでもない。何故かと言えばオーバーヘッド・プロジェクター(何故か彼らは”OHP”と呼ばないで、フルネームで呼んでいた)を使用する場合には準備した「フィルム」か「スライド」を交換して貰うアシスタントが必要になるから。


F)オーバーヘッド・プロジェクター使用の際の準備:大原則がある。それは各項目別の大見出し別にフィルムを作るのだが、その時には1枚に書くパンチ・ラインが三つを超えないようにするとされていた。そしてその項目が1枚に収まらねば2枚目になっても良いが、極力1枚にパンチ・ラインを三つ以内にする方がよいと厳しく指導された。


その理由は、沢山並べると聴衆はそれを読む方に神経を集中し、話を聞かない傾向が出てくるからである。この点は実際に他人の発表を聞いていて「なるほど」と納得した。


そして、話の内容はそこに掲載された項目に従っていなければならないと、矛盾を生ずる点も厳格に指示された。これはそれほど簡単なことではなく、訓練と経験が必要であることは経験すれば解る。


次に重要なことは「数字の表」や「規格表」や「調査結果の一覧」のようなものを見せないことである。これも聴衆の注意が読むことに向かうからである。現実にどうしても見ることに集中しがちで、何を言われても聞いていなかった。何としても見せたければ、ごく短時間見せても良いが「この表は別途配布する」と断って、その表で何を表現したいかを説明すると良い。そして、実際にそのところのハード・コピーを用意しておくことだが、この点は後で又触れる。


G)ハード・コピーの準備と配布:オーバーヘッド・プロジェクターを使用しない場合でも、narrativeをコピーは人数分だけ準備しておくと良いだろう。その中には数表等は講演の進行に沿って入れておくか、別途纏めておいても良い。原則は発表や講演終了後に出口でハード・コピーを自由にお持ち帰り願うか、手渡すようになっている場合が多い。配布用のコピーが準備してあるか否かを、事前に聴衆に通告するのは当事者の判断であろう。だが、事前に配布すると真剣に聞いてくれなくなる傾向は否定できないのだが。


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自分の方式:参考までに申し上げておくことにする。社外の場合にはオーバーヘッド・プロジェクターの使用は極力避けてきた。その理由は簡単で、a)ライトを落とされていては、聴衆の顔が見えないので話に対する反応が確認できない、b)暗くすると聴衆の心地よい眠りを誘う、である。そして、事前にオーバーヘッド・プロジェクターのフィルムに載せるものと同じようなパンチ・ラインを記載したハード・コピーを参加者に配布しておくこととした。聴衆には、例えば「5枚目をご覧下さい」と言えば同じことである。


但し、narrativeは作らず、各頁のパンチ・ラインに沿って話せるようにフィルムのコピーに赤字で書き込みをしておき、それをその場でいわばアドリブで話ができるように準備をしておいた。このやり方には迫力がでると信じていたからである。


アメリカの会社におけるpresentationのやり方は精密に方式が設定されていたのは驚きだった。だが、さらなる驚きはいわば社内の行事であることでも、対外的なことを一切無視して準備段階から徹底して完璧なものにしようと努力することであった。


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取締役会(Board of Directors):アメリカの会社では重大なプロジェクトは役員が全て社外の財界人で占められている「取締役会」の承認を得なければならない。その取締役会へのpresentationの準備などは全部員に細かく担当範囲を割り当てて行われていた。それを社外との接触時間を最低限度割愛するようにしてやり遂げるのだから、部員には大変な負担であった。しかも、その準備が1時間や2時間で終わるようなものではなく、何日もかかるのだからその準備期間中には、言うなれば社内が修羅場と化すこともあった。


此処で申し上げておきたいことは、彼らアメリカ人は学校教育で”debate”を学んでいるし、そこにこのような経験を積み重ねるのだから、講演が上手くなるのは当然であろう。忘れてはならぬことは、社内のことでも、文章には厳しい指導があり、アメリカ人に対しても「文法」や「用語」にまで厳格にチェックされる点である。このやり方を必ずしも礼賛はしないが、学ぶところ誠に大であったのは間違いない。


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集中力維持の手法:我が国の会議では全員威儀を正して着席し、上司の講話を謹聴する感があった。その中で如何にして退屈なお話の間に睡眠を取り、日頃の疲れをいやすかに神経を集中していた。実に統制が取れた厳粛なものだった記憶があるのだが。ところが自由の国アメリカではこの点が大違いであった。馴れない間は我と我が目を疑った。彼らは着席どころか、VPのお話の最中でも躊躇うことなく立ち上がり室内を歩き回り、予め準備されているコーヒーを立ち飲みするのである。上着(=jacket)だって平気脱ぎ捨てる。VPも別に咎め立てするわけでもない。解りやすく言えばお行儀が悪い。


 さらにVP以外でも発言の中に冗談(=joke)を交えるし、そのjokeに反応する者までも現れる始末である。当初はアメリカ人の会議は出鱈目かと思った。だが、何回か出席している間に、それが彼ら独特の「集中力維持」の技法であると気がつくに至った。眠くなれば自由に立ち上がって歩き回り、コーヒーを飲み、準備されたクッキーをかじって気分転換を図り集中力を取り戻せばよいのだと。彼らは出席者の「聞く姿勢」を問題にしてはいないので、「集中力の維持」の手法を問うていると思うのだが。私にとっては、このような議事進行のアメリカ式手法は大歓迎だった。だが、会議を好きにしてくれるほどではなかった、念のため。


 そうでもしていないと、彼らはこちらの集中力が切れた瞬間を狙うが如くに質問をしてきたり、意見を求めたりしてくるのである。質問されるたびに、どうしてこちらの神経集中が切れていると解るのかと不思議な思いだった。此処ではこのようなアメリカ式と日本式の何れがよいかという議論をする気はない。何時も言うことだが、彼我の文化にはこのような違いがあると知って頂ければよいと考えているだけだ。


続く)<o:p></o:p>