新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月29日 その2 情けなや自民党

2016-06-29 17:39:48 | コラム
ジャニーズ嫌いの弁:

小池百合子の出馬会見を見て「善くぞやってくれた」と快哉を叫んでいた。だが、私は決して小池百合子のファンでも何でもない。このニュースを見て「これが党本部や都連等の了解を取っていないだろう」と直感したと同時に「これで桜井俊前総務事務次官の目が消えた」と思った。良い傾向である。私は桜井俊氏に如何なる能力があるのかなど一切知らない。だが、マスコミが喧伝するように自民党がジャーニーズの櫻井翔の人気に本気で便乗し活用しようとするのだったならば、余りにもさもし過ぎて胸が悪くなるのだ。

私はこれまでに何度も何度も機会ある毎にジャーニーズなる下品で育ちの悪いガキどもを集めた集団をこき下ろしてきた。あのガキどもの下品な髪型が知能程度の低い子供たちの見本となり全国津々浦々にグチャグチャ髪を流行らせ、奇妙きてれつなシャツやパンツを流行らせ、へたくそな歌を踊りながら歌う(ほとんどが口パクだそうだが)流れを創り出して、嘗ての大宅壮一の「一億総Hakuchi化」への邁進というか実現に貢献したのがジャニーズである。その集団の人気を利用しようとするのは世も末である。

落ち着いて言えば、集団の掟を無視したかの感がある小池百合子も決して褒められないだろう。だが、個人的にはジャーニーズの悪影響の活用を阻止するだろうことは認めたい。まさか小池百合子がそこまで視野に入れていたとは思えないが、私は自民も公明も同一集団内から対抗馬を出すことは醜態で、民進党以下の野党を利することになるくらいの判断は出来るだろう。現実には桜井俊氏は石原伸晃の依頼を固辞したと報じられた。小池出馬会見を知っていたのならば、党内の統制が取れていない有様を見ては嫌気も差すだろう。またも石原君の不肖の息子の不手際か。であれば、小池百合子にも責任はあると見る。

参議院選挙の各党の女性活用政策を考える

2016-06-29 16:27:14 | コラム
女性活用政策の疑問点:

28日夜のPrime Newsは興味深く見ていた。フジテレビが作成した各党の「女性活用策」のチャート(「フリップ」ではない。テレビ局は何時までこんな珍妙な言葉を使い続ける気か!)を見て私が感じたことは「言うなれば、聞こえが良い表現が並んではいるが、我が国ではこれまで女性を軽んじてきたのでここで埋め合わせを」という裏の意図が読めるような気がしてならなかった。換言すれば活用策が不備か不十分だったということ。私には疑問に思える点があった。

私は以前から安倍総理の女性活用策に対して疑問を呈してきた。それは総理が狙いとされていることが行政能力や指導者として優れた能力がある女性を昇進させて、組織なり団体なり何なりの長として活用していこうとしたいようにしか聞こえないからである。そのこと自体に対して異論を唱えないが、男性であっても優れた営業マンとして才能を発揮したものが必ずしも組織の長としては有能ではなかった(無能レベルに達した)という例などいくらでもあったではないかということを忘れてはならないのだ。

私が在職していた頃(実質的に1993年末まで)のW社の本社には800名ほどの言わばエリートを含むサラリー制の社員がいた。そこには多くの事業部の本部があり副社長もマネージャーも数多くいた。しかし、その中で事業部(divisionで良いだろう)の副社長には女性は1名もいなかったが、マネージャーは何名もいたし、その”title”を保有する女性たちは男性たちもタジタジとなるような優秀な者ばかりだった。だが、大きな組織の長はいなかったという意味である。

見方を変えれば、高学歴の持ち主で能力ある女性は確かに抜擢され相当以上の範囲の仕事を任され、十分に活躍していた。また名秘書として評判の女性も沢山いたし、私も自分の事業部の歴代の副社長の秘書さんたちの仕事ぶりには敬服し、常に依存していたものだった。より解りやすく言おうとすれば、彼女らは我々男性には持ち合わせがないような細かい気配りが出来る神経というか目配りが出来る能力があり、我々男どもの至らざる点を常に補っていてくれたのである。私は男にはそういう役目を果たせないと信じていたほど行き届いていた。

更に大きく分けて言えば、組織の長に向いている女性も、秘書向きの女性もいるということ。我が事業部には当初派遣で入ってきて副社長の秘書となった女性がいた。ところが1年ほど経った後で社員になっていた彼女は「私は秘書向きではない」と言い出して”Customer services”という言わば営業の分野で「受注・生産計画・出荷・在庫管理等を担当する営業を支える仕事を希望し、副社長もそれを受け入れた。そして、その仕事では遂にマネージャーのタイトルを獲得するほどの実績を挙げ、自分が如何なる仕事に適性があるかを見事に実証したのだった。

自分を知っていた女性も立派だが、適性を見抜いた副社長の人事も的確だったと言える。あれから既に30年は経っただろうが、彼女はその仕事の権威者として会社の内外で信頼されているマネージャーである。彼女と交代で秘書になった女性も未だに活躍している名秘書になっていた。

私のW社ジャパンの秘書にはリタイヤーするまで12年間お世話になったが、その秘書としての有能さは私如きが大過なく(小過はいくらでもあったが、彼女が見事に補ってくれた)過ごせたのは彼女のお陰である。ここに秘書の役割を長々と述べる必要はないだろうが、私は常に得意先と折衝し、本部の副社長以下及び工場と連絡を密にして、言わば「判断業務」を担当し、秘書はそれ以外の事務的なことからアポイントメント等の管理等を負担して貰ったのである。

換言すれば、彼女は私には目が届かないこと行き届かないことを補完してくれたので、私は安心して日本駐在の役目を遂行出来たのである。また、マネージャーと秘書のセットで互いに補完し合ってW社ジャパンの業務が遂行出来たのである。夫婦にも似たようなことで相互に助け合って暮らしているのではないのかな。

私は彼女に営業の仕事で私に代わって出て貰ったこともあったが、彼女はそういうことをやる為の給与を貰っている訳ではないのでそれは不当だった。だが、彼女にはマネージャーのようなタイトルはないまでも、給与ではその分を補っていくのが女性の活用の在り方の一つだと、今でも考えている。即ち、「功ある者(女性)には禄を与えよ」で遇する方が適切ではないのかと思うのだ。給与に見合うよう一層の働きを期待する方が合理的かと思うのだ。男性と同様に組織の長として活用する方が向いている能力がある女性も当然いるだろうし、秘書のような男性には出来ない面で素晴らしい力を発揮する女性もいるだろう。

その人の向き・不向きというか適性を見抜いて活用するべきことであり、アメリカでいえば事業本部長、日本の組織でいえば人事・勤労部門がそういう適材適所の人事をすべきではないのか。話は本筋から外れるが、アメリカの会社であるW社でもこれと見込んだ女性を営業職に起用したところ、外でいじめに遭って耐えきれず辞めていった例も見てきた。女性を如何にして最高限度まで活用するかはただ単に管理職や組織の長に引き上げることではないと思うのだ。現に、かく申す私は、自分で組織の長には不向きであると自負?していたので、40年間一度も部下を与えられることなくリタイヤーまで働いたものだった。