新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月7日 その2 朝日新聞にも良い記事がある

2016-06-07 17:36:54 | コラム
若い選手をスター扱いするな:

先ほど歯科医で予約の順番を待つ僅かな時間に読んだ朝日のスポーツ欄に「我が意を得たり」とでも言いたい良き記事があった。それは、先頃オリンピックの最終予選で惨敗して出場権を逃した男子のヴァレーボールについてだった。Vリーグ(と言うのだったか)の(記憶が正しければ)豊田合成のアンデイッシュ監督が「何故若い選手をスター扱いにするのか」と言って、テレビの中継で散々持ち上げた柳田将洋(?)が結果的に潰されたことを「未だ未だそれほどの出来上がった選手ではないのに」と真っ向から批判しているとの内容だった。

私はヴァレーボールについて何か語れる知識はないが、この予選を通じて解説の川合もアナウンサーも柳田と未だ大学在学中の石川をエースだと言って囃し立てるのを不思議な思いで聞いていた。それは、褒める傍ら石川が相手国のサーヴで狙い撃ちに遭ってそこから守りが崩されるので、攻撃にも繋がらないのが解るほどだったからだ。言い換えれば未熟者なのだ。そう思っていたので、アンデイッシュ監督の指摘には十分に納得出来たのだった。

私は我が国のスポーツ界とマスコミが若い選手が出てくると、未だ未だ素材程度でしかないにも拘わらず、恰も千年に一度の素質を持った者が現れたが如き囃し立て方をするのを、何時も苦々しい思いで眺めてきた。特に10台の素材が彗星の如くに現れた時の持ち上げ方は酷い。子供にはそれが単なるお世辞に過ぎないとの判断は出来ない場合が多く、自信過剰に陥るか慢心して練習に励むことをせずに自滅してして行ってしまう例が多々あった。それは何も年少者だけの場合とは限らない。つい先頃相撲界では日本人力士が優勝し、次場所では横綱と持ち上げられた琴奨菊とやらはいい歳をして見事に沈んだのではなかったか。

テレビや新聞はそういう色よいタネを待っていて、視聴率を上げたり販売部数を伸ばそうと画策するのだろうが、世間に馴れていない若者は錯覚を起こしやすいものだと私は考えている。スポーツ好きとしては決して無闇に「チヤホヤ」しては貰いたくないのだ。そこには勿論選手自身の自覚と自戒の問題もあるが、体育会の世界に埋没して育ってきた子供か若者にそこまで求めるのは無理なことであるし、スポイル(カタカナ語だ)してはならないのは言うまでもないこと。

実は、私自身もリタイヤーした後の60歳を過ぎてから、多くの方のご厚意で講演したり市民講座などで語り機会を得たが、その時に恐ろしいと感じて「舞い上がるなよ。上せるなよ」であるとか「自戒しろよ、お前は大したものではないのだから」と自分に懸命に言い聞かせていたものだった。それは行く先々で「先生」と呼んで頂き丁重に扱って頂けば、情けないかな、つい「俺も満更ではないのか」と思いたくなるのだった。それと似たような扱いを子供や未熟な選手が受ければ、舞い上がってしまうことはあるだろうと思う。

何れにせよ、この点が我が国のマスコミの問題点であると思う。兎に角「若い選手や子供をチヤホヤすること」は極力控えて欲しいと思う。あの扱いは百害あって一理、いや三理くらいしかないのだから。いや控えるべきだと思う。また、選手や子供を預かる方も十分に教育して慢心しないように育てて貰いたいものだ。柳田と石川が「失敗(?)に学んで一層の研鑽を積んで欲しいもの。

我が国の英語教育の問題点

2016-06-07 10:28:06 | コラム
以下は昨年の6月に更新したものだが、この内容は何度繰り返しても良いかと思って敢えて再度掲載する次第だ。なお、多少加筆訂正してある。

またやってくれたかと言いたい:

文部科学省は新規の全国テストを設定して「英語力」の底上げを図る企画を立てたのだそうである。「読む・聞く・書く・話す」力のテストを、31年から中学3年生を対象に実施すると発表されたと報じられていた。

いきなり結論的な批判から入れば、また、こんな事をやってくれたのかというのが、偽らざる感想だ。「現在の科学としての英語教育と、それを教えることを長年ご担当の教員の質と、そのような英語(乃至は English )観を根本的に変えない限り、TOEIC如きへの依存を止めない限り、さらにNative speakerへの盲信から脱却しない限り、テストの方法を変える程度では我が国の児童・生徒・学生・一般人の英語力が底上げされることはない」のである。

私には文科省にもその周辺の組織におられる方々の間には、未だに英語というか”English”に対する抜きがたい劣等意識があるように見えてならない。自分たちが自由自在にと言うか「ペラペラ」と自分の意志を英語擬きで外国人に伝えられないままに今日に至ってしまったことを悔やむ余り、後進の若者たちにはその悔しさを味合わせたくないという思い(悔悟の念?と自らの地位への優越感)で凝り固まっておられるとしか見えないのだ。

その習得度には”CEFR”=(「ヨーロッパ言語共通参照枠」→Common European Framework of Reference for Languages)が基準となるようだと産経が報じていた。ここには A→基礎、B→自立、C→熟練と定められており、それぞれが1 から 2 に別れ、英検2級が B1 に相当するようになるとか。この”CEFR”は2001年に欧州評議会が定めたとあった。TOEICに続いてまたぞろ外国製の基準に従う気らしい。国内には権威者がいないのかな。

私は国際化の時代に入って(入れられてしまって?)、英語力を国際水準(って何?)に引き上げようと企画されることとその努力を否定する気は毛頭ない。問題は既に指摘したように「方法論と目指すところが見当違い」であることだと言いたいのだ。これまでの英語教育がこと話すことだけに限ってみても、惨憺たる効果しか発揮してこなかったことは悲しいほど明らかであり、教育当事者の方々は十分に認識されているのではないか。

私はこれまでにも繰り返し「英語教育改革論」を唱えてきたし、私を支持して下さる優れた学者というか大学の教員の方々がおられるとも言ってきた。即ち、現状の教育法では “I know how to express myself in English.” と自信を持って言いきれる者を作りたいだけ作ることは不可能だろうし、”London Cockney” からアメリカ南部訛もスペイン語訛のフィリピンの英語までを何の苦もなく聞き分けられる「聞く力」を持たせられないのだ。

5月31日の夜だったか、病院で7チャンネルの人気番組でお笑いコンビ「サマーズ」がホノルルを散策するのを聞いていた。通りがかったアメリカ人に「何処から来ましたか」を尋ねる企画があり、三村が懸命に知恵を絞って英語で尋ねてみた。そこでは帰国子女の狩野アナは介入しなかった。結局は「通じず」に終わり、別の人たちに「何時にホノルルに到着したか」を訊きたかったのだが、これも失敗に終わり、ごく普通に我が国の英語教育の成果のほどを無残に見せてくれた結果になった。

私には三村君を批判する気など全くない。何度も何度も見てきた「科学として英語教育」の成果の単なる一例に過ぎないのだから。屡々「通じた」と言って欣喜雀躍?される方が多いが、某有名私立大学の附属高出身の三村君は卒業後約30年も経っていれば、あの教え方と教えられ方では仕方がない結果だったと思って寧ろ同情していた。

最後に繰り返して結論めいたことを言えば、そもそも英語を「読む・聞く・書く・話す」という具合に分類して教えること自体が誤りなのである。旧Kパルプの課長だったH氏(東大卒)は1970年に「自分が言いたいことが言えるか言えないかは、英語そのものを基本的に解っているかいないかと言うことでしょう」と言われた。至言であると思う。31年から実施と言えば4年先のこと。これは、その間に教員の質と能力を変えておくという遠大な計画か。


060515MM