新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何故か1974年を回顧すれば

2016-07-20 15:25:55 | コラム
多忙な年だった:

昨日、歯科医の待合室で見ていた週刊新潮の書評欄に「貴方は1974年は何をしていましたか」という一文を見つけた。何と言うことはないのだが、「そう言われては」と思って振り返ってみると、誠に忙しい一年だったことに気付いた。

母親が亡くなった:
時間を追って思い起こせば、4月10日だった。当日私は当時住んでいた藤沢から何時もの通り出勤していった。すると家内から会社にずっと子宮癌に悩んでいた母親が突然激しい痛みに襲われて救急車で市民病院に入院した。だが状態は安定しているので、帰りにでも寄ってみれば良い」と連絡があった。何にも考えずに午後19時前に病院に行くと「何ともないし、見舞いの時間が終わるから直ぐ帰れ」と追い返された。如何にも明治38年生まれの気丈な母らしい応対だったので、安心していた。

すると、11日の明け方の何時だったか、病院から容態が急変したので直ぐに来るようにと連絡があった。藤沢ではこの時間にはタクシー会社は営業していなかったので、弟とともに自転車で小田急の駅にして3駅分の距離を走って行くことにした。何とか間に合わせようと必死だった。病院の前に自転車を放り出して駆け上がった。辛うじて「僕だよ。解る」と言えて手を握っただけで、間に合ったような間に合わない事態になった。本当に悔いが残る出来事だった。

それから先は大変だった。馴れぬ(当然だが)お通夜から葬儀とその後の事務的な処理等でで嵐のような忙しさだった。会社に出て行かねばならないことなどほとんど脳裏から消え去っていた。しかもその年の4月下旬にはフロリダで所謂”Division meeting”が開催されるので、その準備もあって猛烈に忙しいのだったにもかかわらずだ。念のため申し添えておけば、その頃の私は最初に転身したアメリカの紙パルプ業界の大手Mead Corp.のパルプ部の日本市場担当のマネージャーだったのだ。

Division meeting:
これは言わば「部会」だが、単なる部会ではなくMead社パルプ部の全世界の市場に駐在するマネージャーと、主要な市場を担当する販売代理店が一堂に会して過ぎた年を回顧し、将来の計画を会社の首脳部に向かってプリゼンテーションも行う重要な会議なのである。そうとは承知していたが、何とか葬式等の事後処理を終えて出国に漕ぎ着けた。実際の会場であるフロリダのPonte Vedra Clubに到着してみて驚かされた。このクラブはどれほどの敷地面積があるのかも解らないほど広く、大西洋の美しい砂浜に散りばめられた所謂コテージ風の豪華な宿泊施設、複数の会議場、食堂、娯楽室、チャンピオンコースのゴルフ場、複数のテニスコート、馬場等々の設備が整った施設だった。

このクラブに滞在中はあらゆる施設を事業部の経費で処理出来るシステムになっており、極端なことを言えば手ぶらで来ても、事業部の経費でゴルフクラブや靴を買ってか借りてゴルフをしても良いのだと聞かされて、アメリカの大手メーカーとは本当に凄いものだと感心するだけだった。そこで、月曜から金曜まで午前中は朝8時から12時までビッシリと会議。昼食を終えた後は一切自由時間で何でも好みのリクリエーションを部費で楽しんで英気を養って良いとなっていた。勿論、夕食も同様で、毎晩違った趣向で楽しんでいられた。

その間に世界各国の代表たちと意見交換も出来るし語り合うことも可能だし、リクリエーションを楽しむという、未だアメリカに不慣れな田舎者だった私には夢のような1週間はあっという間に過ぎ去った。実は、私はこの頃には既に15年ほど経験したゴルフはやっていなかったが、上司や本社の副社長にも強制されて2ラウンドほど話のタネにクラブのクラブを借りて回ってみた。

アメリカで人生最後のゴルフ:
元はと言えばサッカーで鍛えた足腰でドライバーの距離が出る方だったので、広くて長いフェアーウエイでOBに心配もなく気楽にゴルフを楽しんだ。ビックリしたのは空気が軽いというか湿度か低いアメリカ南部のフロリダでは、我が国では考えられないほど距離が出たのだった。何しろ、残り150ヤードと知って#5のアイアンで打つと軽く170ヤードは飛んでしまい、グリーンを大きくオーヴァーしてしまったのだから。それでも、かの有名な池の中にグリーンが浮かんでいるショートホールではボールの手持ちがなくなるほど打ち込んでしまい、待ち構えていた少年どもが池に飛び込んではボールを拾ってきて高く売りつけられたのも、今となっては思い出かも知れない。この後はこの思い出を抱いてゴルフを綺麗さっぱりと止めてしまった。

帰路は会社の飛行機が出迎えてくれて、本社があるオハイオ州デイトンまで一飛びという具合だった。パルプの製造販売という事業でどれほど利益が上がるのか知らなかったが、後にW社に転身しても同じような部会に参加して知り得たのだが、これらに要する経費は各年度毎の予算に計上されているだけのことだった。とは言え、我が国の会社では考えられないだろうと思わずにはいられなかったビジネス社会における文化の違いだと思うのだ。

再度の転身?:
実は、この会議を終えて帰国した1974年の後半にはオイルショックもあって仕事は順調だった。だが、人生などは先を見通せないもので、思いもかけなかった社内の機構変更があって、一生涯勤めるつもりで敢行した転身だったにも拘わらず、身の振り方を考えねばならぬ事態に直面したのだった。そこには二度と会社を辞めるようなことはしないと固く決意していたにも拘わらず、W社に転身する切っ掛けが訪れるのだ。その辺りは長くなるのでまたに機会に譲ろうと思う。何れにせよ色々な出来事に襲われた大変な年だったのは間違いなかった。