新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月29日 その2 西武プリンス・ショッピング・センターにて

2016-07-29 07:37:04 | コラム
中国人の家族連れの買い物客も散見されたが:

今年も東京を避けて涼しいところに静養に出かけたのは良かったが、関東地方の梅雨明けが遅かったせいで、行く先々で雨降りに出会ってしまった。結果的には確かに涼しさだけは満喫出来たが、傘を持参して良かったのでは・・・・という具合だった。

毎年恒例の軽井沢のプリンス・ショッピング・センターにも勿論出かけていった。当日は駐車場は国技館のように満員御礼の垂れ幕でも下げたら如何とでも言いたい盛況で、何とか地下駐車場の一角を確保して「さー、買うぞ」と上がっていった。広い駐車場には関東近県のみならず、関西方面のナンバープレートを付けた車等も数多く止められていて、その繁盛振りが印象的だったし、わざわざ関西からやってこられる程の軽井沢人気に感心させられた。東北方面の車を見かけなかったのは、何も涼を求めて南下することはないのだろうと考えていた。

さて、ショッピング・センターである。印象では毎年のように言わば「リニューアル」され(実態は「レノベーション」でしたが)拡張され、新たな出店者が目立ち、フードコートも新設されるなと「如何にも西武だな」と思わせてくれた。確かに域内は買い物客?が溢れ活気があった。中国語を大声で話す家族連れには何組か出会ったが、最早勢いよく買いまくっている印象は全くなく、寧ろ軽井沢の雰囲気を満喫しているのかとすら思わせてくれた。我々のホテルにもアメリカ人のパック旅行の一団がいたが、何と軽井沢に前夜に到着してそのまま次の目的地に向かうと言っていたのには驚かされた。

このショッピングセンター(解りやすく言えば「アウトレット」だろうが)で感じることは、海外の所謂デザイナーブランドでも知名度と言うべきか人気と言うべきか知らぬが、お客の入りに偏りがあって、「ローヤルコペンハーゲン」や”Tod’s”等の言わば一捻りしたブランドの店には全く人の気がないのが目立った。面白い現象だと思ったのが、確か関西のアパレルのブランドである「ジョルダーノ」(如何にもイタリア風の響きがある)は店を構えておらず、通路に露天のような形で出店していたこと。だが、そのポロシャツなどは出色のデザインで¥1,500でお買い得と見えたにも拘わらず、誰も立ち止まっていなかった。

私は毎年このアウトレットを歩いて不思議に思うことは、犬を連れて(あるいは抱いて)歩く人の数が年々増えているのだが、未だ嘗て一度も犬どもが粗相をしたのも見ていなければ、マーキング(と言うのかな)も見かけず、言わばお犬様用の排泄の場所が設営されているのすら見たことがない点だ。我が家で犬を飼っていたのは1967年までで、現在のように車に乗せて連れ歩くことなど夢想だにしなかった時代だったので、私は事ペットについては時代遅れだとは自覚している。現代では犬を飼っておられる方はどのような躾をなさっているのかと、単純に気になっている。

このアウトレットの繁盛振りを見れば、我が国の消費者はそこそこ品質が良く、お買い得でありさえすれば、未だ未だ出費を躊躇わないのだと再確認出来た。一部の店には明らかに「アウトレット用」に作られた商品があるのは確かだが、売れ残りというのか型落ちとするのかは知らないが、人気ブランド品が格安で入手出来る以上、この手の商法は今度とも栄えていくように思えるのだ。しかし、それがGDPにどれほど貢献するのかなど難しいことは考えなくても良いのだろう、お買いものが楽しければ。


日米の文化の比較

2016-07-29 06:29:48 | コラム
日米企業社会における文化の違い:

以下は昨年7月28日に更新したものだが、私はこれは何度でも掲載してご理解願いたいと思っているので、敢えて再録する次第。実は、これとほぼ同じ内容で、一昨年にも掲載していたので、今回も多少加筆訂正した箇所がある事をお断りしておく。

実は、私はこういう題名で1990年4月に本社副社長兼事業部長に志願して事業部の全員と工場の幹部に集まって貰い、約1時間30分のプリゼンテーションを行った。そして、その後には工場の事務と現場の管理職にも何度も聞いて貰った。さらに、社外のビジネスマンと Community collegeの生涯教育学部長兼教授にもプリゼンテーションの機会を得た。

これをやらせて欲しいと副社長兼事業部長に願い出た理由は「我が社の日本を最大の得意先とする我が事業部と雖も、日本に出張してくる者たちが余りにも両国間の違いに無神経というか無知であって、要らざる摩擦を起こしている例を見てきて事もあったのは誠に寒心に堪えない。更に言えば、日本側のアメリカについての知識も誠に皮相的で信ずるに足らないのも事実だ。これは必ずしも当部だけではないが、是非とも改善されて然るべきだ」であり、それを彼が了承して実現したのだった。

私は副社長には「予め文化の相違点を認識して日本に来れば何事もショックとは感じないで済むはずだ。その点を理解願いたい」と談じ込んだのだった。彼もその点を認識し始めていたのでプリゼンテーションの実施を承認してくれた。

この細かい内容はこれまでに色々な形で指摘して来たことであり、ここであらためて全容を紹介する気はない。しかし、後難を怖れずに言えば「我が国の相当以上の大企業で海外慣れしておられるはずのところでも、私が得意とする文化比較論の一部にでも言及すると「エッつ、そうでしたか。知らなかった」と言われたことが何度もあったのである。しかし、国内で語り且つ書くようになったのは、リタイヤー後の1994年2月以降だった。

このプリゼンテーションの原稿を作成している時に、東京に本社の製材品部門から東京に派遣されていたマネージャーが日米間の相違を把握し理解していたので、査読して貰った。彼は「これで良いと思うが、是非とも付け加えて貰いたい項目がある」として指摘したのが、

font color="black">*Representation of the company to the customer,

*Representation of the customer to the company,


の2項目だった。私も瞬間「何のこと?」と訝ったが、これを日本語にすれば前者は「お客様には会社の意向を伝える(のが社員の仕事かまたは使命)」であり、後者が「会社に向かってお客の代弁をする(な)」だと、暫くして解って「尤もである」と納得出来た。

しかし、これでも「何が言いたいのか?」と怪訝な顔をしておられる方は多いと疑っている。そこで出来る限り解説してみよう。

彼は「後者は多くのアメリカから日本に派遣されてきた者たち(expatriate と言うが、英和辞書にはそうはなっていない場合が多い)が先ず腹立たしい思いをするのが、日本人の社員は会社の意志や命令や意向を客先に真っ向から伝えることを躊躇い、反対にそれらに対するお客の反論なり反対の意見を聞いて我々に伝えてそれに従おうと提案する。彼等は何処から給与を貰っているかが認識出来ていない。お客の代弁をするとは不届きであると、極めて腹立たしい思いに駆られる」ものだ」と教えてくれた。

正直に言って、私は「矢張りか」と納得した。即ち、前者は「会社ないしは本部の意志を間違いなくお客に伝えて、それを無事に納得させてくるのが社員の使命であって給与を貰っている会社の命令を忠実に実行するのが社員の本分である」なのである。解りやすい例を挙げれば「本部が値上げをすると決めた以上、お客様には何とかして受け入れさせるのが社員の仕事で、それに対する反論であるとか延期の要望を聞いて帰ってくるのは "job description" の内容に違反している」という簡単な理屈である。要するに "From where does your pay check come?" ということだ。

しかしながら、この簡単明瞭な理屈はアメリカ国内だけで通用するもので、我が国の企業社会にはこのような一方通行の交渉が認められることは先ずないだろう。アメリカ人の上司には得意先の拒絶と反抗は受け入れらない事になるのだ。別の見方をすれば、アメリカ人の二進法の思考体系では「命じられたことは、実行してくる」との選択肢しか残されていないのだ。このようなお客様の意思などは二の次で「命令忠実実行型社員」の評価が高いのが、アメリカの会社の世界の常識ということ。

しかし、日本に長年駐在し、その実態に接して事情に精通していたマネージャーは言った。「これは間違った捉え方で、日本市場には通用しないと認識すべきことだ。特に短期間の出張者などは直ぐにこのお客の代弁者に腹を立てて怒りまくる傾向がある。そこで教えてやることは、兎に角日本人社員が言うことを何が何でもじっくりと聞いて見ろ。すると、そこに日本市場に真実の姿が見えてくるものだ。(英語にすれば”understand the Japanese market right.”)短気は禁物だ。君に必要なことは『良き聞き役』に徹することだ」と言って説得すると解説してくれた。

この2点は非常に重要であり、日米間の企業社会における大きな文化というか思考体系の相違点である。これを知らない日本のお客様は「アメリカの会社の日本人社員は何と高飛車なのだ。本部の意向を伝えに来るだけで当事者能力が皆無では交渉に進めようがない」と言って激怒された例もあったと聞く。アメリカ側も日本の会社がどのような組織というか、どのような経路で最高幹部にまで報告が上がっていくかを知るべきだったと、何時かは理解出来るようになって行く例もあったのだ。

この2点は有り難いことに私のプリゼンテーションの重要な項目の一つとなった。そして我が事業部では "representation of the customer" 精神に徹する者が増えていった。言うなれば「目出度し、目出度し」だった。このように我々は常に「日米企業社会における文化の違い」というデコボコ道を歩み続けていたのだった。要するに「この道路をどれだけ速く滑らかな舗装道路にするかが日本市場での成功の一つの鍵を握っているのだ」ということだ。

余談の部類に入るだろうが、私がアメリカの通商代表部がTPPの交渉等に臨む際に、我がマスコミは「妥結が近い」だの「妥結点の探り合い」などと報じるのを真っ向から「彼らが妥協などする訳がない」と言って批判してきた根拠は上記の文化の相違にある。まさか代表者にまるで権限が認められていないとは思えないが、彼らは「自社か自国の主張を通す為に交渉の席につくので、それ以下かそれ以外は先ずあり得ないのだ。だからこそ、TPPの大筋合意に至までにあれほどの日時を要したのだった。

妥協もせずに、落としどころを探るよう真似をもせず、自社にとって絶対的に有利に交渉を纏め、相手側にもある程度の満足感を与える交渉術を身に付けていたビジネスマンが私の元の上司だった副社長兼事業本部長だった。彼は州立大学の出身で、MBAでもなかったアメリカの大手企業には珍しい存在だった。これも余談である、念のため。