新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月2日 その3 「小学校における英語教育」に追加して

2016-08-02 15:44:55 | コラム
重要なことが漏れていました:

それは「未だ日本語が固まっていない小学生に英語を教えて何になる」という点でした。自分自身、長年「日本語が満足に解っていない者が英語を学んで出来るようになる訳がない」と主張してきたにも拘わらず、「小学校における英語教育」にはこの点を指摘せずに終わっていました。失態でした。あらためて追加します。

1972年にカナダのヴァンクーヴァーの免税店で買い物をした際に相手をしてくれた日系人の中年かそれ以上の女性の前で、うっかり”Swearword”を使ってしまった際に「一寸くらい英語出来ると思っていい気になりなさんな。swearwordを使うとは何ですか。私は戦時中の育ちで敵国人として収容所に入れられた為に英語も日本語も中途半端になりました。だが、swearwordを使ってはならないくらいは承知しています。それなのに、日本人である貴方はなんですか。チャンとしなさい」と当に声涙ともに下るお説教をされました。

一寸話が逸れたかも知れませんが、この小母様が指摘されたように小学校から英語を教えては、「どっちつかず」の言葉を覚える危険性は無きにしも非ずだと言いたいのです。どう考えても「日本語をチャンと教えることを優先すべき」であります。文科省はどうかしているとしか言えません。実は、仏文学のTK博士に指摘されて、この点を忘れていたのに気付いた次第です。TK博士に感謝です。

8月2日 その2 英語の質を考える

2016-08-02 13:02:21 | コラム
英語にも品格があるのを忘れるな:

私は屡々「英語の品格」ということを言っている。それは何かと言う前に「日本語にだって上品な言葉遣いや下品な話し方という区別があるではないか」と指摘しておきたい。そこには育ちもあれば氏素性も影響するだろうし、教育次第でもあるかと思う。日本語の場合は年齢や教育によってそういう区別の仕方は自ずと出来るようになってくるものだ。英語では「文法無視」や「単数複数の区別がない」ような英語は無教養だと軽蔑される危険性があると知っておくべきだ。

だが、こと英語ともなれば、余程その道を深く究めるか、そういう環境にある程度以上の期間身を置かない限り、何が綺麗で正確で教養と品格のある言わば支配階層の英語かなどということは、容易に見えてこないものだと思う。ましてや、我が国の英語教育では文法上の品詞は教えても、「口語」、「文語」、「慣用句」(=idiomatic expression)、「俗語」(=slang)、「汚い言葉」(=swearword)とうの区別は教えられていないようだし、発音上の「連結音」(=liaison)や”r-linking”が教えられていないのは問題だと思う。これらは「品格に有無」の問題になるのだ。

私が1972年8月に生まれて初めてアメリカに行ってニューヨークに入った時のことだった。道路工事をしていた白人の労務者がチャンと英語を話しているのを聞いて「凄い。アメリカでは人夫だって英語を話している」と、ただひたすら感動したものだった。

小学校の児童や子供に英語を仕込んで、それでなくともおかしな日本語しか話せず、おかしなカタカナ語を縦横に駆使するような者が増えた時代にあって、日本語を一層おかしくしそうな英語教育をして何の為になるのだろうか。カタカナ語のほとんどか文法無視である事を考えても、我が国の英語教育の素晴らしさが解ろうというものだ。

私が我が国の英語教育の中で素晴らしいと思う点は「非常に読解力が高くなるような教え方がされていること」なのだ。ある大学で英書購読などという難しい教科の原書を見せられて、私には到底理解出来ない内容を多くの学生さんたちが解釈出来るのには驚くと同時に「俺はえらそうなことを言える立場にないのかも」と恥じ入ったものだった。

また、在職中に是が非でもアメリカの家庭にホームステイしたいと言う重要取引先の課長さんのお嬢さんを工場の管理職・L氏がお引き受けし、彼を案内して自宅を訪問した時に、高校3年の英語の教科書を見せて貰ったことがあった。一読したL氏が叫んだのは「日本では高校生の時点から文学者を養成する気か。アメリカの高校ではこんな難しい文学的な英語は教えない。これは如何なる目的の教育か」だった。換言すれば、余りにも程度か高く、アメリカの高校生程度の英語力では消化出来ないのではという意味だ。それを日本の高校で教科書に使っているので驚愕したという意味だ。

現実にアメリカで話され且つ書かれている英語は千差万別だが、そのどれが品格があり支配階層の人たちと話す際に使っても恥ずかしくないのかは、余程長い間アメリカ人の中で、それも一定上の階層にある者たちである必要があるが、日常的に英語で生活してみて、さらに何が良い英語でどれが品位を欠くかを指導してくれる人がいて、初めて見えてくるものだと思う。

私は子供頃からの経験で、仲間同士で話し合う英語には不自由していなかった。だが、39歳でビジネスの世界に入り、そこで通用する英語は別物だと親切に指導してくれた日系人のMBAに出会って、初めて目が覚めたものだった。えらそうな言い方をすれば、基礎が出来ていたので、その上に「支配階層の英語」を乗せることが出来たのが幸運だっただけ。だが、我が同胞の普通にビジネス社会で暮らす方が「支配階層の英語」を身につける必要がどれほどあるだろうか。

要するに、何を目指して、何の為に英語を使うのかを十分に意識乃至は認識せずして、ある程度以上に上級の英語を学ぶ意義が何処にあるのかという疑問である。更に言えば、「何が支配階層の英語かを認識出来ているのか」という問題もあるし、我が国にそういう英語を教えることが出来る人がそれほどいるのかという疑問もある。そんな難しいことを考えずに「やったー。通じた」という程度を目指すのかを、最初から決めてから取りかかるべきではないのか。

結論を言えば「何を目指して、どのような英語を、何歳から『小・中・高・大学の何処から教え始めるのか』をキチンと決めずして、小学校から教えて何になるのかな」という単純素朴な疑問だ。勿論、軽佻浮薄な文法無視で汚い言葉などを散りばめた教養の程度を疑われる「ペラペラ」などを目指してはならないのだ。品格を忘れて「通じるか、通じないか」を基準にしてはならないのだ。一般的に「お里が知れる」と言うではないか。

小学校における英語教育

2016-08-02 08:28:48 | コラム
英語教育を強化すると中教審が:

またまた言い出したかと思って新聞の記事を読んだ。自らの英語に対する劣等感を他人に押しつけている気がしてならない。子供の頃から英語を教えるという発想は必ずしも悪いとは言わない。問題は「誰が、どのような方法で、どうやって教えるか」である。それは「教えられる人材の要請」でもある。何でも小学校の中・高学年での英語の時間を140時間増やして合計で5,785時間にするとかだ。私には良く解らない教育方針だ。

小学校の英語教育の現場に接している訳ではないが、聞くところでは「助教」とやらいう名の外国人を置いている学校もあるようだ。このような”native speaker”を有り難がることを私は何度も批判してきた。それは外国人であるからと言って、必ずしも正しく正確で品格が高い英語を話し、且つ教える能力があるとは決まっていないからだ。私は遺憾ながら外国人にそのような日本語を教える能力も資格もない。それと同じで、何処の馬の骨かも解らない外国人の採用は疑問である。

もっと正確に言えば、アメリカ人ならばアメリカのどの地域の出身か、UKの人ならばCockneyで話すか否か、オーストラリアやニュージーランドの出身であれば正調なQueen’s Englishを話す能力を備えているか等々を確かめるべきだが、採用する学校側にその識別能力を備えていなければ、妙なことになってしまうのは必定だ。極論だが、まともな外国人ならば自国で職を求めるはずで、我が国までで稼ぎに来る者が果たして優秀かどうかは非常に疑問ではないのか。

そんなことよりも、私が問題だと思うことは「これまでの我が国の科学として英語(正調なEnglishではないという意味)で育ってきて、外国人離れした発音しか出来ない先生方が、これまでよりも長い時間を従来通りの方針で教えるのであれば、改革にも強化にもならない」のではないのか。これまでに何度も批判してきたことだが、試験に「単語のアクセント来る位置に印を付けろ」のような問題が出るので、それに対抗すべき教え方を続けて「グローバル化の時代」に即応した英語になるのだろうかという単純素朴な疑問を呈したい。

次に言いたいことは、これも何度も採り上げてきたことで近頃外国人(欧米人と範囲を狭めて良いだろう)に短期間学んだだけで実に見事に日本語を操る人たちが増えてきたことがある。その短期間が精々2年程度大学の教養課程で学んだだけなどというアメリカ人の大学生がいたという実例も紹介した。中教審か文科省か知らないが、その大学に行って「外国語教育」の実態を研究してきたらどうだろう。これは「何も小学校から始めなくとも、18歳からで十分間に合う」という意味だ。

また、カリフォルニア州で出会ったアメリカ滞在1年にも満たない韓国人の青年女子が「自国で1~2年程度勉強しただけ(と称したが)」で、YM氏とこの私が「貴女はアメリカ生まれか」と異口同音に尋ねてしまった程綺麗な発音で正確な英語を話していた。我が国の英語教育の至らなさを見せつけられたようで極めて残念だった。だが、韓国に行って英語教育の実態を調査しましょうなどとは言いたくない。

因みに、韓国の女性プロゴルファーたちは我が国だけではなくアメリカに行っても稼ぎまくっているが、彼女らはその環境に順応したのか、かなり英語能力が高い。これは外国人の相撲取りたちが日本語が上手くなっているのと同じ理屈か。要するに「必要に迫られない限り、外国語は簡単には上達しない」という良い例でもある。即ち、必要に迫られていない小学生に教えてどれほどの効果が上がるのかということ。

私の英語学習法はこれまでに何度述べたか解らないが、「100回かそれ以上の音読、暗記、暗唱、単語帳を作らない、言葉は文章の流れの中で覚える、教科書に書き込みをしない、解らない言葉でに出会えばそこで直ぐ(電子?)辞書を引く何回も引く、音読はその文章が何処で切れて、何を意味するかが解るようになるまで続ける」なのだ。

これは私一人に適した方法ではなかったことは、大学の同期に全く同じ方法でnative speaker並の英語力を備えた私如きが遠く及ばない凄い者がいたこと、家庭教師をやって中学生を育て上げた経験、某商社で個人指導をして実績があった経験とうで立証したと確信している。

究極的に言いたいことは「英語を万人に強制するのは必ずしも最善の教育ではない」という点だ。確かに英語を母国語とする連中と対等に渡り合える英語力を養うのは結構なことだ。だが、そのような局面に出会う人がどれほどいるのかという疑問は拭えない。私は偶然の機会もあって子供の頃から話す事を教えられた幸運に恵まれたし、思いもかけずにアメリカの会社に転じてしまった。因みに、戦時中だったこともあり、私は中学に13歳で入るまで英語など見たことも聞いたこともなかった。それでも立派に間に合ったのだ。そういう場合以外に英語力がどれほど役に立つのか。

確かに諸外国との交渉に通訳を伴って出て行く政治家は如何なものかとは思う。だが、生半可な英語力で交渉の席に着く方がもっと危ないと思う。少なくとも通訳がどれほど正確に訳しているかを確かめられる程度の能力は必要だろうが。だが、そういう立場に上がっていける人がどれほどいるのかも考えておく必要があると思う。

私は結論として「習うよりは馴れよ」と「慣れと度胸だ」が外国語の上達の根底にあるとは思う。だが、それ以前に「最初に正しく正確に基礎を教え込むこと」があると思っている。そういう教え方が出来る人材が何処にどれほどいるのかが、我が国の外国語教育の最大の問題点だと認識している。