新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月3日 その2 英語がペラペラのように聞こえた

2016-08-03 14:15:46 | コラム
どの水準の英語力を目指すのか:

私は持論として「英語で話す際には文法を正確に守り、中学校1~2年の教科書に出てくる程度の言葉を沢山使って、細部まで十分に伝えるように心がけ、発音を明瞭にして相手に聞き取って貰えるような速度で大きな声であるべき」と主張してきた。そして、「英語で話す際には頭の中のギアを英語に切り替えて、出来る限り頭の中で日本文を英訳するような作業は避けて、英語で考えるようになれば尚良い」とも言ってきた。だが、忘れてはならないことは、決して俗に言う「ペラペラ」を目指す必要などないということだ。

屡々「単語を並べてみたら通じた」であるとか「兎に角通じれば良いのではないか。どんな英語でも実際に役に立てば良いのではないか」といった主張をされる方に出会う。それはその方の主義主張であるから、私の持論とは違うからといって論争を挑む気にはなれない、通じたのだから。そういうことを言われる方は「文法などと固いことは抜きにして、実用性を重んじられたのだろう」から、私の出る幕はないと思う。しかし「文法だけは何とかお守り頂きたいのだ」と、ガリレオのようなことは言っておきたい。

もう20年近く前のことだったと記憶するが、地下鉄の中で私の前に立った2人組の英語での下記のような会話をするのを聞いていた。片方は英語のnative speakerではない外国人で、一方は我が同胞だった。以下は私が聞き取った会話の一部だが、私が偶然に聞いていた間はほぼ一方的に同胞が話していた、如何にも流暢というか「ペラペラ」とも形容したい高速な英語で。

"Every years, I take vacation two months, you know. I go Europe with family , you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."

と、ここまでで遺憾ながら彼等が下車してしまった。この例文かこれまでに採り上げたことがあるので、ご記憶の向きもあるかも知れない。これは試験問題にある「文中の誤りを正せ」のようなものだ。問題はこの英語(なのだろう)をどのように受け止められ、どのように評価されるかだと思う。実は、明らかに通じていたのは間違いないところだったのだから。私の見方は「この次元の英語で会話される、会話が出来ることに満足するか」または「この次元に止まることなく更なる高みを目指すのか」だと思う。お解りの方はおられるだろうが、明らかに文法は無視で、ワードで入力すると赤線を引かれてしまう箇所がいくらでもあるのだ。「でも、通じたのだったら、それで良いじゃないか」という結論を出される方はおられた。

私はこの英語の中で最も興味深く受け止めたのが”children become big”の一節だった。即ち、この話し手は明らかに「成長した」と言いたかったのだが、”grow”という単語をご存じなかったか、あるいはとっさに思い浮かばずに”become big”、即ち「大きくなった」という表現で逃げたと言うか「異なった言い回しで話を進める表現力を備えておられた」のである。私は文章でも会話でも、このような異なった言い回しをすることが出来ることは重要だと思っている。語彙の問題でもある。

貶してから褒めたような論旨の展開となったが、我が国の英語の使い手と言われている方の中にはこのような文法に問題があることが多いと、経験上から言えるのだ。私はこの辺りに、我が国の英語教育における「文法重視」の成果に疑問を呈したいのだ。この問題点は「カタカナ語のほとんどが文法の原則を忘れて、複数や過去や現在の使い方を欠いているものが多い」ことからも明らかだと考えている。

結論を言えば「通じれば良い」といった次元で満足するか、「いや、私はあくまで文法等の原則を守った格調高い英語を目指す」と言われるのかは、人それぞれで私が介入することではないと思っている。しかしながら、上記の例文のような英語はお勧めしたくないし、英語を母国語とする人たちに尊敬されるものではないことだけは申し上げておく。私はそうではなくなるように英語を教えるのが「英語教育に携わる方の義務」であると思っているのだ。




我が国の英語教育の問題点を探る

2016-08-03 07:44:32 | コラム
続・小学校での英語教育:

国語教育を優先すべきだ:

即ち、「未だ日本語が固まっていない小学生に英語を教えて何になる」ということ。私は長年「日本語が十分に身についていない者が英語を学んで解るようにになる訳がない」と主張してきた。この点をあらためて強調しておきたい。即ち、小学校の低学年での英語教育は国語とその教育の軽視であると同時に、余りにも時期尚早なのだ。子供に二つの言語を教え込もうとするのはとても推薦できることではない。

少し本筋から離れる議論だが、ここで1972年にカナダのヴァンクーヴァーの免税店で買い物をした際の経験を紹介しよう。私は相手をしてくれた日系人の中年かそれ以上の女性の前で、うっかり”Swearword”を使ってしまった。するとどうだろう、その小母様に「一寸くらい英語出来ると思っていい気になりなさんな。swearwordを使うとは何ですか。私は戦時中の育ちで敵国人として収容所に入れられた為に英語も日本語も中途半端になりました。だが、swearwordを使ってはならないくらいは承知しています。それなのに、日本人である貴方は何ですか。チャンとしなさい」と当に声涙ともに下るお説教をされたのだった。身にしみた。

この女性が指摘されたように小学校から英語を教えては、国語も英語も中途半端になってしまう危険性が高いということと、英語嫌いの児童を創り出す結果に終わることすら考えられるのだ。私は国語教育を優先すべきだと確信している。文科省や中教審は何を考えているのかと非難したい。実は、仏文学のTK博士にこの点を採り上げるべきだと指摘されたので、ここにあらためて採り上げた次第。TK博士に感謝せねばならない。

国文学者のKS氏も国語教育を優先すべきだと、次のように指摘された。“母語(=いちばん得意とする言語)でも「内容と表現双方にあやまりのない文」を書けない人間に、いくら外国語を仕込んだところで、その外国語を使ってビジネスができるはずもありません。おそらく初等・中等教育において、「文章というのは、他人が読んでわかるように書かなくてはいけない」ということがきちんと教えられていないのです。「作文の時間」には、とりあえず何かを書いて出せば点数がもらえる仕組みになっている。”と言われたのだ。

日本語と英語の思考体系の違い:
これは我が国と英語圏の諸国との文化の違いと言っても良い事柄だ。思考体系の違いを簡単に言えば英語では二進法、即ち、白か黒か、イエスかノーか、やるかやらないかという二者択一の考え方で物事を進めていく。だが、我が国では私独特の表現では「八百万の神」がおられるので十進法乃至はそれ以上に複雑な思考体系になっているのだ。換言すれば、英語圏は一神教の下にあり、我が国には仏教と神道があるとでも言えば良いだろう。

即ち、英語で物事を考えるようになると非常に断定的なものの言い方になってしまうものなのだ。英語では言葉の並べ方で、先ず先に「そうであるかないか」、「やるのかやらないのか」、「好きか嫌いか」がハッキリと出てくるようになっている。だが、日本語では最後まで聞いていないと黒白何れなのか、イエスかノーかが判然としないように構成されている。片や妥協を許さない言語であり、一方は断言や断定を回避することが出来るようになっている。

文化の違いはこれまでに繰り返し述べてきたので詳細は避けるが、英語の難しさは会話の中で個人的な質問をしないこととでも言えば良いような礼儀作法があるのが難しいところだ。それは、我が国で英会話の例文として屡々採り上げられている”Where are you going?”や、”How old are you?”や、”Are you married?”や、”Where did you come from?”や、”What is your name?”とうの質問は個人情報だという前に言わば「余計なお世話」であり、失礼だと思っておくべきだ。何故「英会話」でこのような質問を教えるのかは一寸不可解。どうしても尋ねたければ、最初に”May I ask you some personal questions?”とでも言っておくことだろう。

こういう事を手始めに、相互に文化と思考体系の違いがある以上、英語を教えるのであれば何処かの段階で「文化と思考体系の違い」を教えることを考えるべきだというのが、私の持論である。それは弁えていないと「何故こうなってしまったのか」とか「何故彼らはこのような主張をするのか」または「何故彼らは強硬な姿勢で高飛車であり、妥協の余地がないのか」との疑問にぶつかって悩むことになるのだ。ここまで来ると、ただ単に「ペラペラ」と話せるだけでは意思の疎通でもなければ、交渉事も捗らないことになってしまうという問題に遭遇するのだ。

その先にあるだろう問題点は「こういう点まで弁えて英語を教えることが出来る指導者をどのように養成するか」だと思う。その為には如何にして彼らの文化と思考体系に日常的に接して理解し、認識するかが重要だろう。それはTOEICやTOEFLや英検で高い点数を採ることとは別な次元のことではないのか。グローバル化などとは別な問題ではないのか。