新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月20日 その3 甲子園野球の決勝戦の予測

2016-08-20 18:49:43 | コラム
明21日の決勝戦の予想:

これは得意とする閃きによるものではなく、長年の野球観戦の経験に基づく理論である。それは甲子園のようなトーナメント制でも、プロ野球のリーグ戦形式でも、前日の試合で余りにも打ち過ぎたと言うか、10本を超えるヒットを打って大勝したテイームは、翌日の試合では打線が沈黙してしまうことが極めて多いのである。その理論?からすれば、54年振りとかで決勝戦に出て行く作新学院は明徳義塾に勝ったのは良かったが、15安打で10得点は打ち過ぎで取り過ぎで疲れるのかと思う。明日の為に蓄えておけば良かった。不安だ。

これでは明日の決勝戦では前日の打ち疲れで最小限の安打数と得点に押さえ込まれてしまう危険性が高いと予測せざるを得ない。また、良い投手だとこの私が褒めた今井君も連投してきた(させられた?)上に、明徳との準決勝では5回しか投げていなかったとは言え、95球だったかを投げたのは、一試合投げた連投に等しいのではないのか。ここにも不安材料があると言える。

一方の88年振りの決勝戦だとかいう北海道の北海高校は4対3という接戦で、打ち過ぎになるほども打てず、得点も少なかったのは、明日にとって置けたということにもなるだろうから、取り過ぎだった作新学院との対比では有利な材料かも知れない。但し、今井投手が今後の投手生命の何も忘れて優勝を目指して明日も登場し力投することは十分に予測できる。また、作新の二番手三番手の投手たちもそれなりの力を備えていると私は見たので、予断は許さないものがある。

北海高校のことに余り触れないのは、この試合は何か言えるほど十分に見る前に、ゲリラ豪雨に襲われる前にと、代々木上原の吉田クリニックにプラセンタ・エキスの注射を受けに出かけてしまったからである。その豪雨には高田馬場駅のプラットフォームでは前が見えないほどの降りに襲われたが、2分ほどの距離の新大久保駅まで来ると、街中では誰も傘を差さずに歩いていた。当にゲリラだった。

3時半過ぎに帰宅すると、北海が熊本の鍛冶舎監督率いる秀岳館に勝っていた。この監督さんは松下電器(現パナソニック)の専務にまで昇進され、野球部の監督もされていたし、高校野球の解説もされていた言わば有名人だった。ところが何時の間にか、解説に現れないと思えば、現場、それも高校の監督をされていたのだった。そして「流石」とでも言いたい準決勝戦進出だった。

私はこれだけの材料の持ち合わせしかないが、理論的には作新学院にとって不安な材料があると見ている。だが、所詮は高校生がやること。結果は明日にならねば解らないとだけしか言えないのが残念だ。

8月20日 その2 東京五輪4年後への道

2016-08-20 11:28:25 | コラム
実務の世界を知らない方々に任せておいて良いのか:

昨19日のBSフジのPrime Newsを、オリンピック報道に飽きて、上記の題名の番組を何気なく聞いてみた。そこには既に安倍内閣を去った全担当大臣だった遠藤利明氏とスポーツ関連というと各テレビ局が連れてくる玉木正之氏が議論の如きことをやっていたのだった。私はこの中央大学ラグビー部ご出身と聞く遠藤氏は頼りないと思っていたので、退陣させたの結構な人事だと評価したかった。

私はその膨らむ一方のオリンピック予算について、遠藤氏が説明というのか解説というのかまたは弁解と言うべきか判断できないような言い訳をしているのを聞かされて「だから実務の世界を経験しない人に予算をいじらせては駄目だったのだ」と慨歎させられた。それだけではなく、我が友のYM氏(当時はアメリカのIvy Leagueのプリンストンとペンシルベニアの両大学のビジネスルクールでマーケテイングの講座を受け持っていた)が語っていた「我が国のマーケティングの手法の問題点」を思い出したのだった。

それは、遠藤氏は平然として13年に開催軒を得た頃には国立競技場の新築等のごく限られた案件というか物件だけの予算を見ているだけだったので予算の金額は小さかったが、現実に作業が進むにつれて追加で計上せざるを得ない案件が増えてきて現在の大きな金額になってきた。だが、それとてもどれだけの人数と予算が必要になるかの見通しも不明なセキュリティ(などと私が忌み嫌うカタカナ語で表現したが。素直に警備と言うべきではないか)、新設する設備の管理のランニングコスト等々が未だ未だ増えていくだろうと、例のニコニコ顔で言うのだった。私は困ったことだなと思って聞いていた。

YM氏が指摘する我が国の、何もマーケテイングに限られたことではないが、このような事業計画を立てる際の問題点は「極力広い範囲の調査と研究を実施して如何なる要素や案件が関係してくるかを調べ上げることから入らず、小さな範囲の予算を立てて、ことが進むにつれて追加の予算を計上することにある」と指摘した。即ち、予算は最初に考えられる範囲で最大限の金額を査定しておくことから考えるべきだというのだ。

それは、小さめに立てて、後から継ぎ足しまた継ぎ足しというような手法は極力避けるべしだと教えてきたというのだ。全体を大きく俯瞰して想定できる要素を先ず取り入れた計画を立てて置くのが肝腎だと主張していた。最終的な計画を立てる過程で各要素を綿密に調査して不要不急と判断した案件を排除して行くべしと指摘していた。

そのYM氏の説からすれば、遠藤氏が素直に語られた「未だ後から新たに必要な案件が出てくるだろう。現在まででも、当初は考えていなかったと言うよりも、限定した範囲で立ててあった予算だったのだから、今日論議の的になっているような金額になったのだ」は如何にも日本式だった。極端な表現をお許し願えば、森元総理も武藤元財務事務次官も遠藤前大臣も、現実の営業の実務の世界を経験されてから、YM氏が教鞭を執っていたようなビジネスルクールで学んでおられれば、今回のような後から後から増え続けるような予算にはならずに済んだのではないのかと、ふと考えてしまった。

こんな英語があるのかどうか知らないが「グランド・デザイン」を事の発端の時に描いておくべきだったのかなどと考えていた。しかも、小池都知事は予算を見直すという意味のことを言っておられたし、週刊誌等では何とかいうと菟議会のドンとの対峙も辞さないとの決意だとか。そこには既に週刊誌等の記事が暗示する新規に建設する施設や設備の「利権」の陰があるが如きだ。

何れにせよ、YM氏の理論を当てはめれば「ここで継ぎ足しまた継ぎ足しの予算の立て方は一旦ご破算にして、「森元総理とともに2020東京オリンピックの大きな絵を描き直して、都民だけではなく全国民が納得する予算を立てて欲しいものだ」と考えている。そこにはドンの存在は不要だし、元総理は古き良き時代の政治のご経験を踏まえて、君臨すれども統治なさらずに次の世代にお任せになって頂ければと思うのだ。


私は通訳もする交渉の当事者だった

2016-08-20 08:57:06 | コラム
通訳とは自己陶酔だ:

畏友尾形美明氏と佐藤隆一氏から「メガホン」という通訳の機能を備えたメガホンの存在を教えられたことに刺激されて、私が在職中に慣れ親しんだ通訳について纏めた見た。こういう仕事をする機会を与えられると、通常では私如きがお目にかかる機会などあるはずがない偉い方の謦咳に接することもあったのが、通訳の有り難味だったかも知れない。

ビジネスの通訳とは:

通訳もする当事者:


私は確かに在職中には通訳の給料を貰っていませんでしたが、「通訳もする交渉の当事者」と自称して、数え切れないほど自分が所属する事業部の仕事で通訳もしました。その訳し方は、例えば副社長に向かって例えば「今~社のXX常務はこう言われたのだが、その背景には~社内の此れこれ然々の理由があると既に課長から聞き出してあるので、割引して聞いてもよい」とか「彼は繰り返して同じことを言っているだけで、簡単に言えばこういう事」という形で、専門の通訳のように、言われたことだけを逐語訳するやり方(通訳者の主観を入れないという意味)はしませんでした。

また上司の語ったことを日本語にする場合にも、必要な限り彼の発言にある背景と、社内の事情の他に彼の当日の気分をも読んで解説をするようにもしました。唐突に彼が言ったことだけを日本語にしても、偶には木で鼻をくくったようになることはあり得ます。それでは「通訳も出来る当事者としては、給料分の働きをしていないことになる危険性もあります。それは避けるべきことです。

時には、副社長が来日する前に、取引先の担当者乃至は課長さんと懇談して「訪日の目的」を事前に説明し、それに対する反応と意見を取材するように努めていました。そうせずに、その場で試合開始などにすれば準備というか事前の調整不足で、要らざる混乱乃至は対立を招く危険性もあります。そういう事態になれば、日本駐在員である私の失態です。

通訳というものをこのように考えていましたから、政府高官(総理も含めて)女性の通訳を伴って外国に出て行くのは全く理解不能なのです。私はリタイヤー以前にも社用以外では「初見の方の通訳は出来ることなら辞退したい。もしもお引き受けしても何か行き違いが生じた場合の責任は持てない」との条件を提示していました。勿論「勤労奉仕」はお断りしました。無償では責任が持てないから。実は、リタイヤー後にはこの手法が「彼はお金に拘る人物。如何にもアメリカ式」との悪評が立ったこともありました。

我が生涯の最高の上司の通訳は10年以上やっていましたから、その日の表情や使う言葉と表現で事前の打ち合わせ以外のことを語った場合でも、彼のご機嫌のほどや感情の起伏も解るようになっていました。通訳とはそれくらい微妙なもので、知らない(初対面)方が使う言葉というか表現の裏が読める訳がないのが怖いのです、時候の挨拶程度の面談なら気楽ですが。英語で言う”courtesy call”(表敬訪問)なら何とかなります。

多くの場合は、お客様に会う前に大筋はすり合わせてから会談に入りましたから、齟齬を来すことは先ずありませんでした。アメリカ側の他の連中でも同じ会社の長年の馴染みでしたから、阿吽の呼吸は合いました。そう言う訳は、難しい商談をする以上、前後の事情を弁えていない者が同席することすらおかしいのですから、通訳も出来る当事者の存在は当然です。ましてや、一国の外交交渉事を当事者でもない女性にやらせるのは余り適切ではないと危惧するものです。これは英語の上手い下手の問題ではありません。だから、翻訳ソフトや機械では???ということです。

通訳とは破壊と再構築だ:

私は「通訳が仕事」でも「業者」でもありませんでしたが、何時の間にかそのやり方を、身を以て覚えていきました。当初は「そんなおかしなことを言ってはいけない」であるとか「間違いである」とか「矛盾したことを言っては困る」等々を言って窘めていました。そういうことを言っていると、聞いている間に感情が入ってきて、そこで記憶が乱れるか、そこから先に話し手について行けなくなってしまったこともありました。それではいけないのであると悟ってからは、素直に出来るようになったことは「頭の中を真空というか真っ白にして、自分の考えや感想を差し挟まずに、話し手が言われたことだけをそのまま覚え、そのままを違う言語に出来るようにすること」でした。即ち、自分を調教したのでした。すると、不思議なもので、空になった頭の中に話し手が言ったことが全部素直に入り、自分の思考とぶつかることもなく、すらすらと別な言語で言えるようになりました。

私の通訳法には通訳を専門とする方とは決定的に違う方法を採る点があります。それは、先ず絶対にメモを取らないことです。その理由は記憶力というか、一度聞いたことは先ず確実に頭の中に残せる自信があったこともありますが、メモを取っていると書くことに気を取られる為に聞くことに集中できず、虻蜂取らずになってしまう危険性が高いのです。但し、メモを取らないと、人によっては記憶力のみに頼ることに不信感を抱かれることがあって困りました。

また、如何に記憶に自信があっても弱点はありました。それは数字でした。即ち、日本語には「万」と「億」の単位があっても英語にはこの概念がないのに“million”や“billion”があるので、難儀しました。これはもう書き留めることしかないので、メモ用紙は一応用意をして臨むようにはしていました。また「10万」が“hundred thousand”であるのも悩ましい日本語との違いです。

そこから先は自己陶酔のようなもので、「どうだ、俺以外にこれほど素直にスピーチ全体を記憶して、直ちに違う言語に即座に変換できる奴がいるのか」との意識で通訳するようになりました。この記憶の容量は、交渉や会話の内容で異なりますが「10分くらいは話し続けられても大丈夫ですから、途中で思考が途切れない限界までお話しください」と見得を切るまでになりました。現実には難しい交渉事でも何でも、準備された原稿無しに10分も「序論・本論・結論」の順で理論的に語り続けられる方は希ですが。

このような形で「当事者としての通訳を続けていられる時間は一日中でも大丈夫ですが、1週間でも続くと「偶には俺自身で考えて話せる時間をくれよ」と思うようになって苛立ってくることがありました。そうなると「変なことを言うな」とか「それは間違った解釈だから訂正せよ」などと怒鳴ってしまったこともあります。これは一種のフラストレーションで、話し手のアメリカ人と1対1で過ごしている時に、感情を抑えきれず絡んでしまうこともありました。

面白かった?ことは自分と同程度乃至はそれ以上かも知れない通訳能力がある人が交渉の席に同席していると意識過剰になるのか、自分でも信じられないくらい上手く出来る日と、とちっているばかりという風に、どちらか一方になってしまうことがありました。矢張り知らず知らずのうちに「上手くやって見せよう」と意識するようです。

更に「今日は快調で最高の出来」と自己満足していると、その人に「今日の貴方の通訳は酷かった」と貶されたものです。同様に、彼に「今日の通訳は不出来でしたね。どうかされましたか」と言うと「エッつ。俺は会心の出来だと思った」との返事が返ってくるのでした。この方の名言が「通訳とは破壊と再構築だ」でしたが、当にその通りで、元の話し手の意中を読み切って、専門の方のような訳し方をせず、聞いた内容を一度分解し、通訳者の言語で見事に再構成する方が良い結果が出るものです。これぞ通訳の醍醐味ですが、「通訳専業者」の方にはこのような勝手なことは出来ないでしょう。