71年目のあの日がやってきた:
あれから71年も経ってしまったが、あの日の記憶は未だに鮮明に残っている。毎年繰り返して同じ事を書いてきたのだが、今年も昨年と同じことを書き記しておく。今になって思い出しても不思議な事は、2~3日前に「天皇陛下がラジオにお出になって戦争に負けたと言われるそうだ」と、中学1年生のこの私が何処からともなく聞かされており、それを信じていた点だった。記憶が正しければ、当日は学校は休みとなって朝から家にいてラジオの放送が始まるのを待っていた。
あの日は空には雲一つなく何処までも抜けるほど青く澄み切っていた。そこに正午からだったのか陛下はキーを間違えておられたのではないのかしらと一瞬疑ってしまった高い声で玉音放送が始まった。13歳の子供には良く意味がとれなかったような難解な文章だった。だが、兎に角「戦争が終わったのだ」と言う事は十分に理解出来た。「アー、良かったなー」というのが偽らざる感想だった。そこで張り詰めていた緊張の糸は明らかに切れていた。
今頃になって当時の事情というか国民の意識を知らない連中が「本気で竹槍の訓練をして本土決戦に備えていたのか」と半ば揶揄するかの如きことを言うが、あれは失礼千万であると思う。不愉快である。当時は本気でアメリカ軍が上陸してきたら最後の一兵まで戦うのは当然だと教え込まれていたし、それが内地における戦争の雰囲気だったのだから。
「あー、終わったのだな」と何か気が抜けたようで開放感を味わっている時にでも、我が家から徒歩でも15分ほどの相模湾の辺りでは何時もの通りに艦載機が襲ってきていて、「バリ、バリ」と機銃掃射の音が聞こえていた。「何だ、アメリカは未だ止めていないのか」と不思議に思いながら、最早解放されたはずだと、気を落ち着けて何れ止めるだろうと艦載機の襲来の音を聞いていた。
未だに覚えているが、不思議なほど負けた悔しさであるとか、無念さも残念さも感じなかった。兎に角、これまでの約4年間の緊張というかアメリカ他の連合軍に対する敵対意識もあの放送とともに完全に消滅してしまっていた。感情のようなものは完全に何処かに消えていったようだった。言ってみれば、残ったものは虚脱感だけだったかも知れないと思う。
そこから登校を再開すれば「我が国は戦争が終わって民主主義国家に変わったのだ」と聞かされ、急に長髪が許可され、敵性競技として禁じられていた野球部か出来るなど、陸士や海兵の予備校の如きだと世間の評判が高かった我が湘南中学も一気呵成に新時代に向かって走り出したのだった。あの頃では世界有数の経済大国になるなどとは夢にも思えなかったが、その後には当然のように経済的に進歩発展していったのだった。
あれから71年も経ってしまったが、あの日の記憶は未だに鮮明に残っている。毎年繰り返して同じ事を書いてきたのだが、今年も昨年と同じことを書き記しておく。今になって思い出しても不思議な事は、2~3日前に「天皇陛下がラジオにお出になって戦争に負けたと言われるそうだ」と、中学1年生のこの私が何処からともなく聞かされており、それを信じていた点だった。記憶が正しければ、当日は学校は休みとなって朝から家にいてラジオの放送が始まるのを待っていた。
あの日は空には雲一つなく何処までも抜けるほど青く澄み切っていた。そこに正午からだったのか陛下はキーを間違えておられたのではないのかしらと一瞬疑ってしまった高い声で玉音放送が始まった。13歳の子供には良く意味がとれなかったような難解な文章だった。だが、兎に角「戦争が終わったのだ」と言う事は十分に理解出来た。「アー、良かったなー」というのが偽らざる感想だった。そこで張り詰めていた緊張の糸は明らかに切れていた。
今頃になって当時の事情というか国民の意識を知らない連中が「本気で竹槍の訓練をして本土決戦に備えていたのか」と半ば揶揄するかの如きことを言うが、あれは失礼千万であると思う。不愉快である。当時は本気でアメリカ軍が上陸してきたら最後の一兵まで戦うのは当然だと教え込まれていたし、それが内地における戦争の雰囲気だったのだから。
「あー、終わったのだな」と何か気が抜けたようで開放感を味わっている時にでも、我が家から徒歩でも15分ほどの相模湾の辺りでは何時もの通りに艦載機が襲ってきていて、「バリ、バリ」と機銃掃射の音が聞こえていた。「何だ、アメリカは未だ止めていないのか」と不思議に思いながら、最早解放されたはずだと、気を落ち着けて何れ止めるだろうと艦載機の襲来の音を聞いていた。
未だに覚えているが、不思議なほど負けた悔しさであるとか、無念さも残念さも感じなかった。兎に角、これまでの約4年間の緊張というかアメリカ他の連合軍に対する敵対意識もあの放送とともに完全に消滅してしまっていた。感情のようなものは完全に何処かに消えていったようだった。言ってみれば、残ったものは虚脱感だけだったかも知れないと思う。
そこから登校を再開すれば「我が国は戦争が終わって民主主義国家に変わったのだ」と聞かされ、急に長髪が許可され、敵性競技として禁じられていた野球部か出来るなど、陸士や海兵の予備校の如きだと世間の評判が高かった我が湘南中学も一気呵成に新時代に向かって走り出したのだった。あの頃では世界有数の経済大国になるなどとは夢にも思えなかったが、その後には当然のように経済的に進歩発展していったのだった。