新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月7日 その2 United Nations対G20の考察

2016-09-07 13:41:54 | コラム
何の為にUnited Nations(UN)はあるのか?:

先頃中国の杭州に世界の20ヶ国の首脳が集い、習近平国家主席の演出と主演の大国際政治ショーが開催された。習近平国家主席はこの集いは政治の目的ではなく飽くまでも経済を主たる目的に掲げていたようだった。だが、私は単純に考えて、何故に我が国にはあれほど信者が多いUnited Nations(UN)という組織がありながら、それを活用せずに何処となく屋上屋を架すというか二重手間のようなG20を開催し、何ら具体的な結果が出ないお祭りをする必要があったのかと思って眺めていた。

しかも、習近平は事前に面倒を見ておいたいくつかの発展途上にある国を使って「南シナ海問題が採り上げられないよう根回しどころか圧力まで掛けておいた」と報道されていた。確かに南シナ海問題は経済関連ではないが、G7の諸国まで抑えきってしまった習近平主席の無茶な豪腕には恐れ入るしかない。かくなる上は、フィリピンを初めとして中国と対立する諸国は南シナ海問題をUNに改めて提起するしかないだろう、仮令何ら結果が期待できなくても。

UN信仰は不要:
だが、遺憾ながら、我が国には根深い「UN信仰」という宗教の如き観念が遍く普及している。中には「これほど間が抜けたことはない」と言う立派な有識者もおられて屡々「敵国条項」の存在を指摘されている。国会議員にも何かといえば「国連の議決があれば」との条件をつけたがる純情な者がいる。”Security Council”(訳語と略語が「安保理」だ)なる存在がこれまでに不公平な存在だとの事実を何度も見せたにも拘わらず。

私が思うには、上述のような明解にUNの姿勢というか設立の理念を表している憲章も事実もあるのに、我が国民が尚且つ信仰するのは我が国には世界のどの国にもない美しく綺麗な”fair play”を重んじる精神と、性善説を信奉する生真面目さがあるからだと思っている。遺憾ながら、世界には綺麗事など通用しないのが常識だと思うべきだし、知るべきだ。

余談だが、私は英語に携わってきた者として「国連」という和訳を誤りだと断じるので一切使わない。それは何度か述べてきた”United Nations”の何処にも「国際」という意味を表す言葉ないからで、かかるお為ごかしで何処かの誰かに阿る和訳を軽蔑しているからだ。「安保理」だって同じだ。”Security Council”をどう訳せばそうなるのかが私の理解を超越している。

私は”United Nations”を「国際連合」(国連)というこじつけというか綺麗事の和訳を何処かで誰かが付けた根っこには、1920年1月に設立された”League of Nations”を「国際連盟」としたことがあるのだろうと思っている。これらの英語表記の何処にも”International”という言葉がないにも拘わらず、「国際」としたのは私には不可解なのである。故に、個人として頑なに「国連」という表現を嫌って”UN”と表記し、「安保理」だの「常任理事国」などというお為ごかしの和訳も嫌うのだ。

UNは無力化した:
UNがたとえ現在のような無力な存在となっているにも拘わらず、北朝鮮がミサイルでも何でも発射すれば「明確なSecurity Council(SC)の決議違反」だの、SCの議題にして制裁を厳格化しようなどと言い出すのは無意味ではないのか。北朝鮮がこれまでに一度でもUNの決議に従順に従ったことがあったか。UNとしては飽くまで体面を保つ為に決議をしているとしか思えないのだ。

私には対北朝鮮の例が示すようにUNもSCも単なる傀儡に過ぎず、先進国などというものがどれほど無力かを示しただけだと思っている。それだからといってG8からプーチン氏率いるロシアを外し、今度は習近平の思い通りにおざなりに、過剰設備を如何に処理するかなどを議題にしたようだ。私には如何なる事があっても国有企業が多いと聞く中国の鉄鋼会社が操業を短縮し、ダンピング的輸出を止めることなどあり得ないと思っている。

新興勢力の過剰設備の考察:
私は1997年2月に中国の財閥が運営するインドネシアの世界最新鋭の製紙工場を見学する機会を得て、中国を初めとする世界の新興勢力が大規模に製造業に進出すれば、最早世界では旧式で小規模で製造能力が低い機会など生産している会社はなく、完全に自動化され電子器機で制御された超合理的且つ近代的な設備を抱えていると知ったのだった。かかる新鋭の機械設備では往時の長い年月をかけて築き上げた”skill”などは不要で、熟練工が作り上げるもの以上の高度な品質を備えた製品を目にも止まらぬ速度ではき出されてくるのを見て言葉を失ったものだった。

一方の先進国は古く遅く小規模な生産設備を過剰に抱え、利益が上がらぬ不景気が続けば新規どころか合理化への設備投資もままならず、懊悩呻吟しているところに新興勢力が高品質の製品の安値攻勢をかけてくるのだからたまったものではないのだ。そのような新興勢力を総称してBRICSなどと言うので、中国一国の過剰設備だけを論っていてもことは収まらない時代だ。だからと言って、習近平の牛耳られてしまうようなG20を開催しても「世界の過剰設備」問題は解決する訳がない。その前に各国の景気を盛り返さねばならないという大問題が控えているのだから。だから無力なUNに依存せずG20なのか?


低い一山を越えただけのことだった

2016-09-07 07:36:31 | コラム
勝ち方が悪かった:

申すまでもなく、6日夜にタイで行われたW杯最終予選の第2戦目のタイ国代表相手のサッカーのことだ。テレビもスポーツ新聞も「勝った、勝った」と大喜びだ。確かに勝ったのは大変結構だったが、相手は如何にホームゲームだったとはいえ遙か格下である。最初からある程度以上は引いて守ってくると解っていたにも拘わらず攻めあぐねて、点が取れるまでに18分を費やす出来だった。後半の後半には相手が疲れてきて思うように攻め立てたが、2点目が取れたのが75分目だったし、2点で終わってしまったのは情けなかったし、得点能力不足を露呈した。

実は、昨夜22:09の時点で「閃きがなかったが」と題して「如何に何でも負ける相手ではあるまい。前半が終わって10:05の時点では勝てるとは思っているが、取れるべきところで外しすぎたのが気懸かりだ。それと相変わらずハリルホジッチ監督の選手起用に疑問を感じる。浅野に岡崎の代わりが務まる訳がない。岡崎は得点感覚があるが、浅野は起点になる動きしか出来ていない。それに矢張りイラン人の審判は怖い。」と載せていた。

私はこの最終予選に入る前から「多くは期待しない」と言ってきたが、その通りの結果で少しだけ期待を満たしてくれたに過ぎない勝ち方だった。試合中ずっと頭にあったのは「所詮はこの程度のテイームで、矢張り多くは望めない」と「いや、いや、十分な準備期間(欧州組を早めに帰国させて長期の合宿をしてという意味)を与えてやれば、もっとましな試合が出来て予選を突破するだろう」の分裂した思考だった。

改善を要する点は多々あるが、第一は「シュートの正確性を増すことと、思い切りを良くして蹴ること」」ではないか。昨日は何度ここぞという時に外したかを数えてはいなかったが、あの相手に17本も蹴って2点しか取れなかったのは論外だ。次は矢張り引いて守ってきた相手に対して工夫がなさ過ぎたと見える攻め方の改善だ。相手は中盤は放棄したかと見えたほど当たってこないにも拘わらず、暇さえあれば綺麗なバックパスをバックスに供給し、そのバックス間で無意味にパスを回している間に前線では誰も動き出していないのだ。あれでは相手も安心してみていられただろうと、皮肉の一つも言いたくなった。

後方へのパスの多用も不満だが、直ぐそばにいる味方に細かく繋ごうとし過ぎるので相手にはパスの出し手の意図が丸見えで、何度奪われたことか。余計なお世話だがアナウンサーは「パスをカットされた」と言いたがるが、実態は奪い取られたのであってカタカナ語を使いたければ「インターセプションされた」の方が正確だろう。私は以前から細かく繋ごうとすること即ち責任逃れで、自分で何とかその場を切り抜けて(キープして)行こうとしない点を批判してきた。その欠陥を格下の相手にも読まれていたのだ。今後当たる格下ではない相手にはもっと痛い目に遭う危険性があると危惧する。要改善だが、問題の根は精神構造と育ちにある気がする。

矢張り気になった点は香川も本田も存在感が薄いことだ。ずっと考えていたが「この両名が目立たなくなったのは周りの連中の技術が両名に徐々に追いついてきただけではなく、欧州で半ば補欠扱いであったり使われていない状態の両名が最早周りに使われているようにさえ見えるところまで来てしまったのか」と考えていた。特に私の目には本田はやることなすこと全て中途半端で、拾って繋いでチャンスを作りたいのか点を取りたいのか、意図が見えないサッカーをやっていたのが気になった。

さて、ハリルホジッチ監督の選手起用である。浅野は足が速いことは悪くはないがサッカーの技術は未熟の部類に止まっているし、経験も不足だ。原口にしても善戦健闘で前半の得点も褒めてやっても良いが、あの場合の酒井宏樹のセンターリングは今世紀最高の出来だったことを忘れてはならないと思う。何度も指摘してきたことだが、マスコミは点を取った者を褒めるが、サッカーではそこまで組み立てた者たちがいてこその得点で、視聴者や読者を誤解させる報道姿勢を改めるべきだ。私は精一杯監督に味方して、岡崎と清武を休養させたのだと解釈することにした。

当然のようで厳しいようなことを言えば「これで先ず低い一山を超えただけのことで、これから先には未だ未だ高い山が待っているのだ。特にオーストラリアの乱暴狼藉とでも形容詞体当たりを中心にするサッカーが最高峰かと懸念する」ものでである。

最後に審判は矢張り怖かった。森重だったかに出たイェローカードも不可解だったが、何とタイ国の守備陣に一発レッドカードが出たのには驚かされた。その場面も再生された画面でも見たが、何故あれが退場になるかは解り得なかった。今後も8試合だったかが残っていれば、何時何時また中近東の審判に出遭うかは予測のしようもないが、余程注意して当たりに行く必要があると思わせられた。それは対戦相手も同じ条件かも知れない。だが、言いたくないし言ってはならないことかも知れないことは、アジアの協会の問題点がその辺りにある気がしてならない。浅野は昨夜に最終予選での2点目を取ったのかも知れないのだから。