kazk様
ご指摘の
<問題はそれが一部に偏ってること、その典型が野球というわけです。その上各人が最も適性のあるスポーツというものがあるはずですが、それを探す場もありません。マイナースポーツにいけばそれなり以上の成績を残せるアスリートも多いはずですがそういう資源の適性配分がありません。例えばラグビーの大野均は大学に入ってから初めて代表です。何か間違えてるとしかいえません。>
については賛成です。私は以前から我が国の体育会制度には疑問ありと唱えてきました。それは言うまでもないことで、一度ある運動部に所属すれば極論では生涯その競技以外には手も足も出せないのだということです。しかも、現在所属して懸命に練習に励んでいる種目が、果たして自分に最適か否かは解りません。ただただ精進する以外ありません。これには大いに問題があります。
大野均の例を挙げられましたが、フットボール界では他の競技から転向し、大学で初めて経験した一本目になったという例が限りなくあります。典型的な例が強かった頃の京大ギャングスターで新入生の中から体が大きい者を勧誘して教え込んだというのは有名です。関東の一部校にもフットボール未経験で一本目になった者は幾らでもいました。典型的だったのは日大三高の野球部では補欠扱いでフェニックスに入るや1年生からセンターという重要な地位を確保した安部奈知がいます。
彼はTBSの何とかいうアスリートを集めた番組の常連になったほどの身体能力の持ち主でした。フェニックスには彼以前から多くの未経験者を全日本級に育て上げた実績があります。フェニックスには他にも高校では野球部だったが、日大に入学していきなりQB(クオーターバック)に抜擢された松岡秀樹の例もあります。他の大学の例は省きます。
これは篠竹監督礼賛ではなく、高校や大学でも他の競技種目の中に埋もれていた素材が幾らでもいたのではないかという議論です。いえ、自分に何が最適かなどは解らないものだということでもあり、指導者にも見抜くだけの眼力があるのかという疑問です。私は「我が国では懸命に精進する余りに何でも『~道』に仕立て上げる嫌いがあり、その道での名人・達人になることを目指しすぎる余り、他の競技の良い点を取り入れる余裕を生じていないのだ」と考えております。それが良いのかまたは不適切かの結論を出すのは簡単ではありますまい。
アメリカの例を参考までに挙げれば(何時だったか「アメリカに暮らしたことがあったが、子供たちはそういう教育を受けなかった」という苦情が来たことがありました)、三大スポーツと言われる野球、フットボールとバスケットボールをシーズン制で回して学校で教えているので、皆(と言うか多くの者が)三種目をムラなくこなせるようになります。そして、大学からプロに行くような優れた者は「どの種目を選べば最も有利か」と考えて選択すると聞いています。勿論、高校のトーナメント制の全国大会などある訳がなく、精々州の大会程度だそうです。
言いたかったことは、三大スポーツでムラのない体を作っておくことが良いだけではなく、自らの適性を指導者とともに見いだせる点が良いのではないかという点です。張本勲がしきりにMLBの質が低下したと批判するのは、野球しかやったことがない敢えて悪い表現を使えば「余り学がない南米人」が増えたことで、私が批判する「身体能力ショー」のようなボーンヘッドが多い野球になったのだと見ております。
私は今更我が国の体育会制度を改革するとか破壊することはあり得ないと思っております。これも10年以上前から書いてきたことですが、某ジムのフットボールのXリーグのあるテイームのトレーナーをやっていたトレーナーが「トレーニングの科学性という意味では我が国の野球は最悪。サッカーにも勘違いがある。最も優れているのが未だにマイナースポーツの域を脱していないフットボールである」と言っていました。今では野球界も大いに近代化されましたが、嘗ては発展途上国でした。
実は、かく申す私も自分には何が向いているかなどとは考えたこともなく、小学校(国民学校でしたが)の頃から旧湘南中学の蹴球部の大きな人たちの中に入れて貰ってボールを蹴っていたので「何としても湘南に合格して蹴球部に入るのだ」と思い込んでいました。勿論、何度か述べたように甲子園で優勝してしまった野球部とは親しかったので、野球もそれなりに楽しんでおりましたし、就職してからもお遊びのような会社の軟式野球で投手などやっていたほどで、内野手としても楽しみました。
ご指摘の
<問題はそれが一部に偏ってること、その典型が野球というわけです。その上各人が最も適性のあるスポーツというものがあるはずですが、それを探す場もありません。マイナースポーツにいけばそれなり以上の成績を残せるアスリートも多いはずですがそういう資源の適性配分がありません。例えばラグビーの大野均は大学に入ってから初めて代表です。何か間違えてるとしかいえません。>
については賛成です。私は以前から我が国の体育会制度には疑問ありと唱えてきました。それは言うまでもないことで、一度ある運動部に所属すれば極論では生涯その競技以外には手も足も出せないのだということです。しかも、現在所属して懸命に練習に励んでいる種目が、果たして自分に最適か否かは解りません。ただただ精進する以外ありません。これには大いに問題があります。
大野均の例を挙げられましたが、フットボール界では他の競技から転向し、大学で初めて経験した一本目になったという例が限りなくあります。典型的な例が強かった頃の京大ギャングスターで新入生の中から体が大きい者を勧誘して教え込んだというのは有名です。関東の一部校にもフットボール未経験で一本目になった者は幾らでもいました。典型的だったのは日大三高の野球部では補欠扱いでフェニックスに入るや1年生からセンターという重要な地位を確保した安部奈知がいます。
彼はTBSの何とかいうアスリートを集めた番組の常連になったほどの身体能力の持ち主でした。フェニックスには彼以前から多くの未経験者を全日本級に育て上げた実績があります。フェニックスには他にも高校では野球部だったが、日大に入学していきなりQB(クオーターバック)に抜擢された松岡秀樹の例もあります。他の大学の例は省きます。
これは篠竹監督礼賛ではなく、高校や大学でも他の競技種目の中に埋もれていた素材が幾らでもいたのではないかという議論です。いえ、自分に何が最適かなどは解らないものだということでもあり、指導者にも見抜くだけの眼力があるのかという疑問です。私は「我が国では懸命に精進する余りに何でも『~道』に仕立て上げる嫌いがあり、その道での名人・達人になることを目指しすぎる余り、他の競技の良い点を取り入れる余裕を生じていないのだ」と考えております。それが良いのかまたは不適切かの結論を出すのは簡単ではありますまい。
アメリカの例を参考までに挙げれば(何時だったか「アメリカに暮らしたことがあったが、子供たちはそういう教育を受けなかった」という苦情が来たことがありました)、三大スポーツと言われる野球、フットボールとバスケットボールをシーズン制で回して学校で教えているので、皆(と言うか多くの者が)三種目をムラなくこなせるようになります。そして、大学からプロに行くような優れた者は「どの種目を選べば最も有利か」と考えて選択すると聞いています。勿論、高校のトーナメント制の全国大会などある訳がなく、精々州の大会程度だそうです。
言いたかったことは、三大スポーツでムラのない体を作っておくことが良いだけではなく、自らの適性を指導者とともに見いだせる点が良いのではないかという点です。張本勲がしきりにMLBの質が低下したと批判するのは、野球しかやったことがない敢えて悪い表現を使えば「余り学がない南米人」が増えたことで、私が批判する「身体能力ショー」のようなボーンヘッドが多い野球になったのだと見ております。
私は今更我が国の体育会制度を改革するとか破壊することはあり得ないと思っております。これも10年以上前から書いてきたことですが、某ジムのフットボールのXリーグのあるテイームのトレーナーをやっていたトレーナーが「トレーニングの科学性という意味では我が国の野球は最悪。サッカーにも勘違いがある。最も優れているのが未だにマイナースポーツの域を脱していないフットボールである」と言っていました。今では野球界も大いに近代化されましたが、嘗ては発展途上国でした。
実は、かく申す私も自分には何が向いているかなどとは考えたこともなく、小学校(国民学校でしたが)の頃から旧湘南中学の蹴球部の大きな人たちの中に入れて貰ってボールを蹴っていたので「何としても湘南に合格して蹴球部に入るのだ」と思い込んでいました。勿論、何度か述べたように甲子園で優勝してしまった野球部とは親しかったので、野球もそれなりに楽しんでおりましたし、就職してからもお遊びのような会社の軟式野球で投手などやっていたほどで、内野手としても楽しみました。