また2通喪中の葉書が来る師走:
今年は特にこの葉書が多いように感じていた。そこに、12月に入ったと思った途端にまた2通である。1枚は昭和26年(1951年)に大学に同期で入学した者で他の3名と組んでいた麻雀の仲間でもあった。彼は足が弱って不自由していたが、2年ほど前に彼の自宅の近所である大崎に用事があった時に呼び出して語り合ったのが最後になった。
つい先頃、「彼奴はどうしているだろうか。あの方面に出る機会でもあれば声をかけてみようか」と思ったことがあった。だが、奥方から送られてきた葉書を見れば、亡くなったのが丁度その頃だったではないか。せめて電話だけでもしておけばと悔やんでいる。某英字新聞の編集局次長だった。ご冥福を祈るだけだ。
もう1枚は、昭和30年(1955年)に新卒で採用して頂いた会社の同期入社の仲間。但し、彼は関西学院大学出身でいきなり大阪支店勤務だったので、当方が昭和37年に大阪に転勤するまでは余り親しく言葉を交わす機会がなかった。生真面目な人だった。
その彼が今年の2月に突然電話をくれたことがあった。それは年賀葉書を整理していたら、私からのものが出てきて急に消息が知りたくなって電話をしたと朗らかに説明された。その時に病名は聞かなかったが既に足が不自由で50 mも歩けないのだと聞いたので、芦屋から転居したと聞いた熊本に一度遊びに行ければと思うなどと他愛のない会話をして別れた。
彼が亡くなったのは、それから間もなくだったとは、昔の会社の別人から知らされていた。「虫の知らせ」というのは本当にあるのだと痛感せざるを得なかった。謹んであらためてご冥福をお祈りする次第だ。
今年は特にこの葉書が多いように感じていた。そこに、12月に入ったと思った途端にまた2通である。1枚は昭和26年(1951年)に大学に同期で入学した者で他の3名と組んでいた麻雀の仲間でもあった。彼は足が弱って不自由していたが、2年ほど前に彼の自宅の近所である大崎に用事があった時に呼び出して語り合ったのが最後になった。
つい先頃、「彼奴はどうしているだろうか。あの方面に出る機会でもあれば声をかけてみようか」と思ったことがあった。だが、奥方から送られてきた葉書を見れば、亡くなったのが丁度その頃だったではないか。せめて電話だけでもしておけばと悔やんでいる。某英字新聞の編集局次長だった。ご冥福を祈るだけだ。
もう1枚は、昭和30年(1955年)に新卒で採用して頂いた会社の同期入社の仲間。但し、彼は関西学院大学出身でいきなり大阪支店勤務だったので、当方が昭和37年に大阪に転勤するまでは余り親しく言葉を交わす機会がなかった。生真面目な人だった。
その彼が今年の2月に突然電話をくれたことがあった。それは年賀葉書を整理していたら、私からのものが出てきて急に消息が知りたくなって電話をしたと朗らかに説明された。その時に病名は聞かなかったが既に足が不自由で50 mも歩けないのだと聞いたので、芦屋から転居したと聞いた熊本に一度遊びに行ければと思うなどと他愛のない会話をして別れた。
彼が亡くなったのは、それから間もなくだったとは、昔の会社の別人から知らされていた。「虫の知らせ」というのは本当にあるのだと痛感せざるを得なかった。謹んであらためてご冥福をお祈りする次第だ。