新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月21日 その2 マスメディアに告ぐ

2017-12-21 15:40:52 | コラム
敢えて重ねて言う「奇妙なカタカナ語の使用を止めよ」と:

これは、これまでに何度主張したか記憶もないほど唱え続けてきたことだ。それは「元の英語にはないような意味のカタカナ語を創り上げて、朝から晩までテレビで流し、新聞紙上で使うのを止めろ」ということだ。止めるべきだという最大の理由の一つが「小学校3年から英語を教えるなどと馬鹿なことを言っていながら、誤ったカタカナ語垂れ流して、児童や生徒や学生を混乱させることは英語教育上誠に好ましくないから」である。

近頃テレビで余りにも頻繁に使われるので憂慮しているのが「トラブル」である。
彼らは「事故」でも「故障」でも「揉め事」でも何でも、一寸困った事態が生じると全て「トラブル」と表現してしまうのだ。局側でシナリオかニュース原稿を作っている誰かが、数分でも費やして辞書を見れば「トラブル」(=trouble)に「事故」だの「故障」だのという使い方はないと解るはずだ。彼らは視聴者を愚弄する気だとしか思えない。

念の為にジーニアス英和はどのように出ているかと言えば「①心配、苦労、悩み、~の持つ心配事、苦労(悩み)のタネ」が最初に出ている。これが常識的な trouble の意味だ。Oxfordには「1.~with a problem, worry, difficulty, etc. or situation causing this」とある。何と「2.Illness or pain」となっている。何処にも故障も事故もない。「3. Something that is wrong with a machine, vehicle, etc.」が出てくる。これらを全部「トラブル」で括って良い訳がない。

ここから先は既に「日本語の表音文字かを憂う」として採り上げた例と重複するかも知れないが、おかしいか誤った使い方であるカタカナ語を挙げていく。サッカーの中継などで無知な解説者が言う「滑りやすいピッチ」を「スリッピー」(slippy)とするのはおかしいのであり、正確を期せば slippery なのである。だが、これは放送用語としては登録済みのようなので遺憾だ。

次も解説者用語で「キャプテンシー」(captaincy)というのがある。これは歴とした誤りで「主将としての地位か役目」の意味になってしまう。彼らが言いたいのは captainship (=主将としての資格;統率の才)なのだ。良く考えなくと解ることで leadership という言葉があるではないか。語尾に y を付けるのではなく、shipを付ければ良いのだ。これなどは英語をチャンと教えられていれば犯すことがない誤りだ。とすれば「教育の問題」ではないのか。

次は私がテレビに登場する学者や教授や有識者や専門家が恥じることなく使う「フリップ」を挙げておこう。テレビ局も彼らも「表」か「チャート」の意味で「フリップ」と称するのは奇怪であり情けなくもある。それは flip という言葉を如何なる辞書で調べても「表」乃至は「チャート」の意味が出てこないのだ。恐らく、英語で flip chart という大きなレポート用紙のような模造紙を束ねたもののことを、(インフルエンザを「インフル」としたように)頭の「フリップ」だけを捉えて「表」のつもりで言っているのだろう。「辞書くらい引けよ」と言ってやりたい。先生方は恥ずかしくないのかと疑っている。

次は文法的にも誤りではないが、何故カタカナ語を使う必然性があるかという例。先ずは「オープン」だ。この言葉を彼らが導入したところで「開店」か「開業」か「始業」という熟語が消滅してしまった。私は「オープン」というカタカナ語を使う必然性を未だに見いだせていない。「何、開店よりもこの方が格好が良いし、近代的だと」言いたいのか。中には「オープンさせた」というのもある。「させた」って何だろう。

「スタッフ」(=staff)も「職員」、「部員」、「社員」、「従業員」等の漢字を使った言葉を死語にしてしまった。私にはスタッフを好んで使う意味というか意義が解らないのが辛い。中には「ホールスタッフ募集」などというのも見かける。一瞬 whole staff (従業員全体)かと思ったが hall staff という意味らしい。スタッフとした方が応募者が多く来るのだろうか。

こういう例を挙げていけば明日の朝までやっていられると思うが、この辺りで止める。でも後から後から良く飽きもせずにカタカナ語化していくものだと感心している。つい先日も所謂「食レポ」というのに「ボリューミー」というのが出てきて感心した。「沢山の量がある」と言いたいようだったが、volume の語尾に y を付けてみても、そういう意味にはならないし、そんな単語はない。voluminous という派生語はあるが「服などがゆったりした」か「書物などで巻数の多い」という意味である。でも、yを付ければ形容詞になると知っているのは偉いと褒めておくか。

兎に角、テレビ局も新聞社も英語の単語を数多く知っていると誇示したい気持ちは解らないでもないが、おかしなカタカナ語を広めることは青少年の英語の勉強の為にはならないと、もう好い加減に目が覚めても良い頃ではないのかな。学校で英語を教えておられる先生方は、奇妙か誤ったカタカナ語の氾濫をどうお考えか、一度でも良いからご意見が伺いたいものだ。「何、重宝に使っています」だと。


モンゴル人たちに文化の違いを教えたのか

2017-12-21 13:36:23 | コラム
何故最初にモンゴル人に教えておかなかったのか:

家人が相撲のことばかり飽きもせずに報道するテレビの下らなさにウンザリして「何故、モンゴル人が入門した時に、最初にやってはいけないことをチャンと教えなかったのか。そうしておけば白鵬があそこまで増長しなかっのではないか」と、極めて当たり前の反応をして見せてくれた。「そうなんだ、最初が肝腎なんだ」とは誰でもが思いつきそうなことだ。

だが、長年日本とアメリカの文化の違いの谷間を彷徨った経験をした者としては、「文化の違いを克服する」のはそれほど簡単なことではないのだと言っておきたい。第一に「相互に文化の違いがある」と認識できて初めて克服を心掛けるのだ。更に念を押しておくと「文化(culture)とはある集団なりグループにおける言語・風俗・習慣、更には思考体系の違いを言う」のであって「文明」(=civilization)のことではないのだ。

これまで再三再四採り上げてきたことだが、私は英語での意疎通ができていても、それだけでは日本とアメリカの間に歴然として存在する文化の違いが如何なるものかをある程度以上理解し認識できた上で何とか克服する方法を見出して、その「違い論」のプレゼンテーションを本社事業部の全員の前でできるようになったのは、W社転進から10年も経った後だった。

それも、私が1951年(昭和26年)に入学した上智大学で(今にして思えば)ほとんどアメリカ式と言っても良いほどの厳しい規律と欧米の文化に4年間接したお陰で「違い」をある程度認識できてきたという基礎ができていても、W社での最初の数年間は「何でこうなるのか」とでも言いたい目に見えるようで見えない厚くて高い壁にぶつかっていた。

そこで、大学でぶつかった壁の中でも最も簡単な例を挙げておこう。それは、アメリカ人の教員(神父ではないが、何れはそうなる人)が担当された「英会話」という単位での出来事だった。自慢話ではないのだが、そこでは私はその講座の中では最も良く発言して、会話能力のほどを見せていたつもりだった。だが、1年経って成績を見ると何と70点で、これと言うほど発言していなかった連中が私より遙かに高い評価を受けていたと知ったのだった。

そこでその教員に「何で70点か」を訊きに行ったのだった。教員は資料を見て「君は欠席が多かったので、平常点や試験の成績と発言の内容を足して平均すれば70点にしかならない」とバッサリと切って捨てられた。確かに、私は事情があって大学の規定である雇用主が証明してくれた「アルバイト届」を出して、学期末の試験を受験する資格を確保していたので、欠席が多かった。これでは文句を言う資格はないと解り黙って退散したのだった。これが欧米の大学教育における文化だとあらためて確認できた次第だった。

長い導入部だったが、モンゴルと我が国の文化比較論に戻ろう。確かに20歳にもならないモンゴル人の青少年が入門してきた時に「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、相撲部屋と相撲の世界における「やるべき事」と「やってはならない事」を事細かに教えておくことは大事だとは思う。だが、その青年乃至は少年が我が国とモンゴルの間に「文化に違いがある」などと承知してやってくることなどあり得ないと思う。彼らは文化の違いの学習に来たのではないのだから。恐らく、聞かされても何故そうなるかと理解できないのではないかと思う。

それだけではない。指導するべき立場にある親方や相撲協会の理事とやらいう連中が「相互の文化の違いの存在」などを心得ているのだろうか。そんなことがあるとは思えない。彼らがモンゴルに一定の期間でも滞在し生活して、彼我の文化の違いを認識しようと試みたことがあったのだろうか。私が勝手に想像すれば、いきなり頭越しに「日本に来て『相撲の世界に入ってはかくあるべし』と、ろくに日本語が解らない者たちに強制的に言って聞かせただけ」に終わるのではなかったのか。

でも、彼らは「他にその言葉を学ぶ意外に手段がない世界」に放り込まれた以上、我が国の拙い外国語教育ではとても追い付かないほど素早く外国語である日本語を覚え、尚且つ相撲の世界でも順調に番付の上位に上がって行ったのだった。その上に、白鵬のように、言わば彼一人が相撲の繁盛を背負って立ったが如き活躍をすれば、思い上がってしまうのもこれまた当然ではなかったのか。それにも拘わらず、今になって横綱の品格などと「相撲の世界の文化」などをしたり顔で言い募っても、彼らモンゴル勢に「何の事?」という顔をされてしまうのも、相撲界というか関取上がりで固めた協会の身から出た錆だと私は思うのだ。

私が「日本とアメリカの企業社会における文化の違い」を解説し始めた頃に、W社OBで私が最も尊敬している代表的なアッパーミドルの1人である、後に大学院大学の教授になったノースウエスタン大学のMBAだった超インテリに「自国の文化が如何なるものかを認識せずに、他国の文化との比較を論じるべきではない」と助言されたことがあった。尤も至極であると思って聞いた。八角さんや高野某(元検察官)さん、如何ですか。

最後にもう一言。私は相撲をスポーツの枠の中に捉えて報道するのは止めるべきだと何度も指摘した。あれは歴史と伝統に輝く「興行」である。マスメディアはその辺りを良く分析して取りかかって欲しい。