新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

フットボールと私

2017-12-18 14:58:12 | コラム
究極のスポーツに魅せられて70年:

私とフットボールの関連を回顧してみようと思う。戦後間もなく遠縁に当たる慶応大学の出身者に、アメリカンフットボールの魅力とそれが如何に面白いかを教えられた。その頃は既に蹴球部の部員だったが、そのフットボールの試合を観戦に、進駐軍に接収されていた明治神宮外苑競技場(彼らは勝手に戦時中に死亡した大学のフットボール選手、Nile Kinnickに因んで Nile Kinnick Stadium と呼んでいた後の国立競技場)に藤沢の田舎の中学生が、そこで開催されるアメリカの陸・海・空・海兵隊のフットボールテイ―ムのトーナメント決勝戦である Rice Bowlを下駄を履いて見に行っていた。入場は無料だった。

東京から僅か50 km南東にある藤沢が田舎だという意味は「当時は蒸気機関車に引っ張られた東海道線の上り列車で東京まで出て行くのは、大変な行事だった」のだった。それほど東京は遠かったのだが、21世紀の現代では理解できない感覚だろうと思う。

その頃でも既に所謂「ルールが解らない」という次元を超えて、フットボールの試合の進め方も得点の取り方も解っていたので「なるほど。これは面白い競技だ」と納得させられた。あのアメリカ人たちのお祭り騒ぎの観客席で、中学生が1人で静かに観戦していた。誰にも話しかけられた記憶はないが、当時でも恐らく英語で話が出来ていたと思う。

それだけではなく、当時住んでいた昭和20年初期の藤沢市鵠沼には日系二世を始めとして多くの慶応のアメリカンフットボールの選手が住んでいたので、住民たちも何となく「フットボールの格好良さ」を認識していた。そういう影響もあって、自分自身どうやって湘南中学の厳格な蹴球部の練習を逃れたのかについての記憶はないが、関東大学のリーグ戦をも観戦に上京したものだった。

当時の関東の強豪大学は慶応、立教、早稲田、法政で、日系人は慶応には服部、法政には山脇という選手がいたとの記憶があるが、山脇については確信はない。慶応には太田という素晴らしい長身のWRがいて、QBの服部が太田を目がけて長いパスを投げ、それをまた太田が捕ってしまうのが素晴らしかった。

このようにフットボールに関心があり、大学の試合を見に行っていたのは多分高校の頃までで、社会人になってからは昭和35年まででサッカーとの縁を切った格好にしてしまったし、フットボールに再び入れ込むようになったのは、長男が日大フェニックスに憧れて日大高校に進学して本格的にフットボールを始めた昭和54年辺りからだった。

私はこの頃には既にアメリカの会社に転進しており、アメリカ人たちと話をする時に話題に窮した場合にフットボールを持ち出せば必ず乗ってくるものだと承知していた。即ち、「息子が高校でフットボールをやっている」と言えば「まさか、我々の(と言ってパスを投げる格好をして)フットボールを日本の高校でもやっているのか。知らなかった」と言って目を輝かして乗ってくるのだった。

その日大高校の清水之男監督(残念ながら故人である)とは学校年齢が同じというご縁もあって親しくして頂き、当時でも既に大学フットボールの関東を代表する強豪校だった日本大学フェニックスのフットボールにも大いなる魅力を感じていたのだった。

更に、昭和50年(1975年)に再度転進して入社したW社の事業部がシアトルのキングドーム(1999年に解体された)に年間の指定席を持っていたので、シーズン中に出張があれば、必ずシアトル・スイホークス(Seattle Seahawks)の試合を見に行けるようにして貰えたので、アメリカのNFLのフットボールの魅力の虜にもなった行ったのだった。

また、上司がシアトルのワシントン大学の7万人収容のフットボール専用のハスキースタジアム(Husky Stadium)に年間指定席を持っていたので、NFLの試合よりも人気があると言われるNCAAの試合を見る機会にも恵まれた。彼は「大学のフットボールの試合こそが『これぞアメリカ』と言えるのである」と教えてくれたが、ハスキースのファンの熱狂振りには、確かにスイホークスのゲームの盛り上がりとは別個の地元のファンならではの賑やかさがあると思う。

私が一旦フットボールを語り始めればキリがないので、今回はこの辺りまでにして、何れまた機会を捉えてこの究極の球技の魅力を語って見ようと思う。