新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月25日 その2 好い加減にしようよ、妙な選抜の仕方

2017-12-25 14:01:34 | コラム
私は羽生結弦の選出を疑問に思っている:

マスメディアは羽生が練習中に転倒して負傷して以来、全日本選手権に出場できなくともオリンピック代表には選ばれるとの予測を流し続けてきた。あれでは恰も協会の意を帯して土壌作りをしてきたかのようだ。私は我が国の各種の競技団体は長年こういう選抜方式を繰り返してきた事を大変好ましくないと思ってきた。こんな事を言えば、恐らく批判されるだろう事を覚悟で言っている。

昭和20年の中学入学以来大学を経て社会人になってからの運動部とその競技の経験者として、私は「負傷乃至は怪我をする者は何処かに至らざる点があるか、欠陥がある選手だ」と信じるようになった。陳腐な言い方としては「無事これ名馬」というのがあるではないか。何も未熟なだけではなく、精神的に緩んだとことがある者は、思わぬところで怪我をするものなのである。

私は羽生の輝かしき実績は十分に認めるし、何やら物の怪に憑かれたような技術的だけではなく精神的な高みを目指している、野村萬斎にまで教えを請うような練習の仕方にも、世界的な名手として一定以上の評価はしている。だが、その過程に於いて余りにも重大事故になってしまう負傷が多いのも気懸かりだった。それはあるいは極限までに達しようとする努力の中では止むを得なかったのかも知れないとも見做してはいるが。

だが、私はマスコミが勝手に協会の意向を忖度したのかどうかは知らないが、仮に全日本を欠場してもオリンピック代表に選ぶという考え方には到底賛成できないのだ。オリンピックには我が国から3名まで枠があるが、そのうち1名は予選(と言っても良いような全日本)に自己責任で負傷した為に出ない羽生が予め選ばれているかのようなやり方は不公平だと思う。

しかも、羽生がこれから先何処まで回復するのかは私には「推定」としか見えないし、これから先来年の平昌オリンピックまでに彼がもう一度故障しないという保証が何処にあるのかとも、協会には尋ねてみたい衝動に駆られる。オリンピックで我が国の代表の優勝させたし気持ちは悲しいほど解るし、その希望を羽生に託したい願望も解る。

だが、それでは3名の枠を目指して、負傷も故障もせずに昨日までの全日本選手権に出場していた連中の努力をどうする気かと思っている。懸命に演技して第3位に入った無良に対して「公平且つ公正無比」と協会は言い切るつもりかとも問いかけたい。私は各種の団体の「実績を考慮し、3位以内に入賞できそうな者」を選ぶ方式は採らない。

いっそアメリカ式に最終予選での一発勝負の方が余程フェアーだとすら考えている。過去の実績は過去のことだ。そうすれば無良君の努力も報われるのではないかとすら考えている。

故に、私はその競技しか知らずに、と言うか世間を知らずに育ち、その結果として協会に残った古き時代の名手たちが、現代の近代的練習方で鍛え上げられてきた若者たちを、古き時代の尺度で選んでいくのは如何にも時代遅れであり、古池の中の蛙に過ぎないと思う。何れまた、マラソンなどの種目では「日本人1位」などという屁理屈が出てくるのだろう。もう好い加減にしようぜ。


フットボールに思う

2017-12-25 09:35:35 | コラム
我が国のサッカー選手たちに「やる気」の有無を問いたい:

先週末からは御身大事とばかりに寒空の下に弱った体を曝さないように極力家に籠もって、スポーツのテレビ中継ばかりを見て過ごしていた。そこにはラグビーあり、サッカーあり、バスケットボールあり、ヴァレボールあり、フィギュアスケートあり等々と多彩だったので、結構楽しめた。矢張り最も関心があったのはサッカーとラグビーだった。

そこで自分でも意外だったことがあった。それは天皇杯の準決勝戦だったサッカーの試合には全国大学ラグビーの準決勝戦ほどの興奮もスリルも感じなかった点だった。ラグビーは23日に2試合が中継され、大東文化大学対慶応大学の試合などは俗な言い方をすれば「手に汗握る熱戦」だったので、近頃の我が国のサッカーには見られない緊張感を持って観戦した。

結果としては、大東文化大学が慶応を僅差で退けだたのだった。私が着目したのは、遺憾ながらサッカーには見られない「両大学の選手たちのやる気」だった。厳密に言えば[サッカーとラグビーは同じフットボールでありながら、試合の進め方に違いがあり、ラグビーでは選手たちは常に勝負を挑み続けていかないことには進行しないようにできている。近頃アナウンサーや解説者が好んで引用するハリルホジッチ監督が言う duel が展開されていると思う。

そこで一寸脱線するが、彼らは duelをフランス語だと言うが、英語にもチャンと duel (カタカナ表記すればデユーエルとでもなるか)という言葉はあるし、Oxfordにも「語源がフランス語」などという記述もない。意味はジーニアス英和でも見て考えれば良いだろうよ。

ラグビーでは攻める側対守る側が1対1で対峙した形になる局面が多いと思う。そこで攻める側の誰かがボールを持って突進すれば、直ぐ目の前にいる守る側の者はその相手にタックルに行かざるを得ないし、ボールを持っている者は敢えてその相手に当たりに行くか、かわして走り抜けるかの選択しかない。場合によっては味方の誰かにパスを回すこともあるが、多くの場合はそこに言うなれば壮烈な duel が発生するのだ。

その当たり合いの激しさを捉えてマスコミなどは「ラグビーこそが男のスポーツ」などと賞賛するのだと思っている。だが、女性がやっても、そのような展開の中では duel に持って行かざるを得ないと思うよ。

その大東文化対慶応の試合を決めたのが、後半にもう時間が残り少なくなってから慶応が攻め上がってそこでトライを取れば試合が逆転する場面になった。慶応は必死にバックスにパスを展開して攻めようとした。その時に肩を脱臼していたという大東文化の主将・河野が素晴らしいダッシュで将にパスを取った瞬間の岡田という選手に素晴らしいタックルを、痛んでいる方の肩で仕掛けて落球させて「ノックオン」となって慶応は「万事窮す」の形になった。

私の目にもあの河野のタックルは素晴らしかったし「主将としての重責を担ったやる気の発露」と賞賛しても良いプレーではあったと思った。別な言い方をすれば「(残念ながら)近頃のサッカーの選手たちが見せる事がない『やる気』に満ちていた」のだった。そこで、サッカーの為に述べておけば「サッカーとはそもそもラグビーのように常に身を挺したタックルで当たり合うゲームではない」ということだ。

しかし、私が日本代表を含めてサッカーの試合を見ては常に批判している点は「彼らには自分でやってやろう」という精神がやや希薄であり、直ぐに責任逃れのパスを頻繁に後方に回したがるので、ハリルホジッチ監督がお嘆きの「duel」の発生の頻度が低いのである。即ち、男対男の勇猛果敢なスリルに富んだ当たり合いがほとんど展開されないのだ。この点はサッカーとラグビーのゲーム進め方の違いから発生するのだが、我が国のサッカーの選手たちは「自分でやってみせるぞ」という「やる気」に欠けていると見えて仕方がないのだ。安全第一に見えて仕方がないのだ。

23日には確か天皇杯の準決勝戦があったので、サッカーも見た。だが、あの大東大対慶応の必死の当たり合い(duel でも良いが)を見た後では、サッカーは「綺麗事で安全第一のパス回しが優先されているかのようで、自分で決めてやろう精神は何処にあるのかな」と見えるのだった。勿論、レイソルもマリノスも懸命にやっているのは解った。

だが、当たり合いにしても正面から綺麗に反則にならないような競り合いを挑むのではなく、足を引っかけたり後ろから押したするような反則を取られるような形が多く、直向きさが足りないのではと感じさせられた。ハリルホジッチ監督が 「duel を」と言いたい気持ちも少しは解る気がする。

ところで、先ほどは大東文化大学の主将・河野を褒めるような表現をしたが、それは私の本意ではない。「大事な試合を控えて、主将たる者が負傷をするような心掛けは『誠に以て怪しからん』と言いたい」のである。しかも、その負傷者を試合に出す監督の選手起用も、私は好ましくないと断じたい。

あの試合で大東文化大は勝ったから良いような事かも知れないが、河野がタックルの後で悶えていたように脱臼が更に悪化したらどうする考えだったのかを、監督に問い質したい。だが、河野の「やる気」までは認めて上げないと、彼の立場もないかも知れない。


私の主張は「サッカーの選手たちは何もラグビーに倣う必要はないが、もう少し『自分でやってやろう』か『ここは一つ目立って見せよう』という類いの『やる気』を見せて欲しいのだ」なのである。