新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国の英語教育の問題点

2018-11-12 08:07:51 | コラム
「小学校3年から英語を教える」とは悪い冗談だろう:

私は以前から小学校で英語を教えようという文部科学省(なのだろう)の方針を批判してきたし、そういう論文も発表してきた。振り返ってみれば、この小学校3年からと言う英語教育の方針は、4年以上も前に打ち出されていたのだった。私はこのような外国語教育の誤った方針は何度繰り返して批判しても良いと考えている。即ち、より多くの方にその誤りをご認識願いたい重要な事柄なのである。そこでここに敢えて17年11月に発表した一文に加筆・訂正してご高覧に供する次第だ。

私は恐らく多くの方が反発されるだろうと予測している。そういう方には「日本語が未だ満足に自分のものに出来ていない子供たちに英語を教えて何の為になるのか。誰がどうやってどこの国に行っても英語で議論も出来るようになり、大学で如何なる分野の学問でも十分に教えらる力がつき、アメリカのような国の知的水準が高い支配階層の人たちと意見交換をしても恥をかかないで済むような品格を備えた次元の英語を教えるのか」と申し上げておきたいのだ。

一昨年だったか、ある会合で元小学校の先生だった女性と語り合う機会があった。元先生は寧ろ正式に教科となったことを歓迎しておられた。そこで、年来の持論を手短に述べて、「小学校低学年からの英語教育が如何に愚かなことか」を力説した。彼女は一瞬戸惑いの表情を見せたが、「今の私に教えろと言われたとしても出来ないし、教え方も解らない」と正直に言われた。要するに、この一件がどれほど愚かなことかを全く解っておられなかったのだ。私にはそれは当たり前というか、普通なことだと思えた。

そこで、強調して語って差し上げたことの一つが「これまでに我が国の中学から始めて大学まで教えてきた『科学としての英語』がどれほど“話せるようになる”という点、即ち実用性という点で効果を挙げてきたか」ということである。しかしながら我が国の英語教育では読解力だけはやや別だとは言えるほど高い能力を備えておられる方に屡々出会うのも事実だ。言うなれば、何の為に英語を教えているといえば「科学」であって、実用性は二の次なのである。

その点は30年ほど前にアメリカの家庭にホームステイしたいという希望を持った高校3年の女生徒を、偶々来日していたホストファミリーの長に引き合わせたことがあった時の出来事を採り上げて解説してみよう。その際にこの生徒が見せた高校3年の英語の教科書を見たアメリカ人は「日本の学校教育では英文学者を養成する気なのか。アメリカの高校ではこのような難しい英文学の小説類を教材には使わない。より平易な実践的な英語を教えている」と叫んで、驚いて見せたのだった。即ち、我が国の英語教育の方がアメリカの国語教育よりも難解な教材を使っていたということだ。

私には小学校の児童を国際人なる空想上の存在に仕立て上げる為に、3年の頃から英語を教える意味が何処にあるのか理解できない。敢えて「今まで目に見える効果がなく、多くの英語嫌いを育ててしまう結果を招いた教え方を、小学校の3年までに降ろせば効果が出るのか」と担当官庁に伺って見たい。即ち、「彼らはその教育にnative speakerを使うと言うが、その質の良し悪し、程度の高さ低さ、悪い表現だが『何処の馬の骨か』を判定できる能力があるほど英語の本質を把握できている方が、文科省にも各段階の学校にもどれほどいるのか」かが問題なのである。

私がこれまでに小学校からというか幼児に英語を教えることがどれほど無意味かを何度も強調し、且つ機会を得れば語ってきた。だが、悲しいかな私が語りブログに発表する程度では、当然だが効果を挙げるまでに至っていない。それはある出版社のデスクがいみじくも(認識不足で言われた?!)私が無名な存在であるかからかも知れない。昨年の11月の週刊新潮に藤原正彦氏が「管見妄語」で指摘されたことは、何と私の持論と全く同じだ。「藤原氏は解っておられる」と偉そうに言おう。少なくとも同調者がおられたと意を強くしたのだって。(失礼)

同じ事を何度でも言うが、仏文学のTK博士が指摘された「我が国の世界最低の水準にある外国語教育の手法」を、小学校にまで引き下げて効果上がる訳がないのである。その改善策の一つとして、私は私の勉強の仕方、即ち「音読・暗記・暗唱方式で、単語帳など作らない」を中学の頃に編み出して、大学在学中には中学生に家庭教師としてこの方式で教えて実際に効果もあった。また、某商社の若手を個人指導した際にも明らかに効果があった。

更に強調しておきたいことがある。それは大学の同期だった故K君は入学してきた時点で既に私如きが遠く及ばない英語力があったが、彼の高校までの英語の勉強法はほぼ私と変わっていなかったのだった。確認しておけば、彼も「音読・暗記・暗証方式で単語帳は言うに及ばず、カードなども作ったことがなかった」のだった。彼の発音は非常に綺麗で正確だったが、それはアメリカの基地もある横須賀育ちだったことの賜物であったそうだ。

我が方式は僅か数件の成功例では「Nが少ない」と非難される方もまた多い。それならば、我が国の学校教育に「自由に自分が思うままに英語で話せるようになったほど効果が挙がっていないNがどれほどあるのか」と問い掛けたい。藤原氏も「英語を使う職業に就く希望を持つ者だけが中学校から全力で始めれば良い」と言っておられる。その通りだ。私は昭和20年4月に中学校に入るまで敵性語の英語など見たことも聞いたこともなかった。だが、それでも間に合ったのであると強調しておきたい。

申し上げて置くと、私は英語を活かせる職業に就こうと思って英語を勉強した訳ではない。偶然の積み重ねで職業としてアメリカの会社に転身しただけのことで、そこで、私独自の英語の勉強法で培った英語力が活かせただけのこと。そして22年余を経て今日の持論に立ち至ったのだ。そのような経験をしておられない方々が、小学校から英語を教えて国際人を養成しようなどとお考えになるのは解らないのでもないが、望ましい方向ではないと思う。

藤原氏もアメリカ人に国際人と呼べる者など一割もいないと書いておられる。これも全くその通りで、私は滅多にそういうアメリカ人に出会ったことなどなかった。アメリカ人が国際人だなどと思い込まないことだ。即ち、国際人になる為には英語が話せねばと言うのならば、アメリカには国際人だらけだということになりはしないか。そんなことはないのが事実だ。

私が最後に強調しておきたいことがある。それは「学校の教育ではただ単に英語を教えるだけでは極めて不十分で、我が国と英語圏の諸国(アメリカと言い切っても良いかも知れない)我が国との文化と思考体系の相違点があること」を現実的に細かく教えておく必要があることだ。

兎に角、私は上記のような理由というか根拠で、小学校の3年から英語を教えるなどという方針はは直ちに撤回すべきだと主張するのである。