新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカ側から見た我が国の交渉の仕方

2018-11-14 15:52:46 | コラム
相手の立場を考え過ぎているのでは:

昨13日に「我が国の政府は弱気に過ぎないか」と題して論じたので、今回は22年以上もアメリカの大手メーカーの一員として対日交渉の席に就いていた立場から見た経験から、私が見た「我が国の交渉の仕方」をあらためて振り返ってみよう。そこには言うまでもないが歴然とした相互の文化と思考体系の違いがあったのだ。そこで、先ずはアメリカ側にいたからこそ見えてきた我が国の交渉の方法を採り上げてみる。

*相手側の顔を立てる:
必ずしもこの点を強く意識しておられたのではないと思うが、アメリカ側から見ていると「折角、遙か8,000 km以上を飛んで来られたのであるからその申し入れを無下に拒否するのではなく、何とかご一行の顔を立てて何らかのお土産を差し上げねばならないのでは」と苦慮しておられる場合が多々あったと思う。

非常に有り難いご配慮なのだが、彼らには絶対的に「結果を出すか、出さねばならない」という考え方であり、「顔を立てる」(save one’s face との表現はあるが)という文化が遍く存在している訳でもないので、日本までやって来た目的が達成できていないのであれば、さしてそのご苦労とご厚意には感謝しないのである。

*落とし所を探る:
上記と同様の彼らの思考体系からして、所期の目的以外のところで交渉を纏めてしまおうとは先ず考えていないのである。飽くまでも初志貫徹を目指しているのである。ここには、私が日頃から主張している「アメリカ人を相手にした場合に論争と対立を怖れてはならない。堂々と自己乃至は自社の主張を展開しよう」も入ってくると思っている。

*足して2で割る:
これも同様の考え方で、アメリカ側が¥100で売り込んできたのに対して、日本側の予想と言うか受け入れ可能な線が¥95であった場合に中間を採って「¥97.5で如何か」というような打診をされることが間々ある。良くお考え頂いてはいるとは解っていても、これも受け入れられないのだ。「我々は¥100で買わせようとしてきたのである」と考えるのがアメリカ式で拒絶するのが普通だ。

ここで余談を一席。私がアメリカの会社に転進する切っ掛けを作ったことになったUKの大手メーカーの日本代表者だった日系カナダ人N氏はは親御さんが関西出身だったので、見事な関西弁なのだが「アメリカ人もUK人もこのようににべもなく拒否しても、相手の目の前でシレッとして『気悪うせんとまた会おうや』という意味で、“Don’t feel bad. Let’s see each other again.”と言うものだ。日本人もこれくらいに物事を割り切らないと」と指摘していた。

*「これを言うことで失うものがない」は受け付けられない:
アメリカ人の思考体系では、私が見ていても「ゲーム感覚では」と疑いたくなったほど気安く「これを言うことで失うものはない」とでも思い込んでいるのかと思わせるほど強気で主張することが多い。こういうものの言い方は彼らの間では通用するが、日本側には屡々「高飛車な姿勢である」とか「強引過ぎる」とか「こちらの善意に付け込んできている」と解釈されて、感情的にさせてしまうこともあった。

私は彼らにはゲーム感覚もなく、彼らとしてごく普通の交渉の仕方であると思っていると解っている。時には、そのように強気に出て相手の反応を見てから次ぎなる作戦を立てるということもある。アメリカ側の一員として敢えて言えば「この戦法にご立腹なきよう」とお願いするだけだ。要するに、「一方的ではないか」と言い返せばそれまでのことである。

玉砕戦法:
これまでに何度も繰り返し指摘して来たことだが、アメリカ側は「二の矢」か「三の矢」を準備して臨んでくるのが普通だが(これが、私が指摘する contingency plan である)、日本側はそこまでの備えができておらず、嫌な表現だが玉砕になってしまうことが間々あった。時には「逆櫓」まで準備して交渉の席に就かれる方が良いと思う。

*交渉の権限:
アメリカ側は担当副社長乃至は事業部本部長が来ていない限り、交渉の席上で提示した条件の変更、または足して2で割るような妥協はあり得ないのだ。しかし、日本側には担当役員や事業部長が出ておられることが多いので、その場で変更が話し合われることがある。アメリカ側では、例えば製品の価格のような性質の交渉でマネージャー程度が妥協しても良いというような権限は与えられていないのである。要するに、彼らは「妥協はできないし、してはならない」者たちなのであると心得ておかれると良い。

*ここで、話題を変えて如何に自己主張をするかを考察しておこう。

肝心な事は「アメリカのビジネスの社会では如何に文法的に正確な表現で美文であっても、自分の意見ではない第三者の意見か伝聞を述べたのでは評価されない」という原則である。ここには「会議や会合等の場で自分の意見を主張しない者は、その場にいないのと同然の見なされる」という見方である。要するに「アメリカの会社では交渉事や部内の会議等の場で、明確に自分の意見述べて参加しない者は評価されない」ということだ。

私は国際的な交渉を実際に経験して「これは簡単なことであるが、このようにして自分の意見を主張すると、それに対する反論も意見も出て来るので、多くの場合にそこから討論が始まるのがアメリカの(ビジネスの)世界だから、自分の意見を主張する以上、異論や反論に対する討論の準備と心構えが必要である」と認識できたのだった。私は遺憾ながら我が同胞は自らが主張した結果というか反論が来るのを怖れておられる方が多いと感じたことが多々あった。

その交渉事の席ではアメリカ側に負けないような「討論馴れ」というか自分の意見の理論的根拠を十分に準備しておくことが必要となるのだ。これは私が主張する「論争と対立を怖れずに」と同じことである。何分にも彼等は学校教育で "debate" を学んできているから、彼らの意見が根拠に乏しいような性質でもあっても、それを論破するのには当初は苦労させられたものだった。

十分に心得ておいて頂きたい事は「彼等の世界は個人が単位で、その各個人が独自の意見を持って当たってくるのが、我が国との大きな文化の違いである点」である。この点が認識できていないと「彼と意見が対立して議論が噛み合わず感情的な論争にでもなって、仲違いしてしまうことになったらどうするか」というような不安感に悩まれるようなのだ。だが、彼等が感情的になることは先ず考えられず、激しい討論が終わった後では「良い議論だった」と笑顔で握手して終わるのが普通なのである。

この辺りも彼我の文化の違いの一つだった。結論的は「白熱した議論をして万が一にも仲違いなどになってしまうことを怖れずに、自分を前面に出して意見を述べていく場慣れと度胸を養って、論争に負けしないようになることを心掛けていくことだ」と信じている。このように感情を排して堂々と自己主張を展開することが外国との交渉でも勝ち抜くための「鍵」を握っていると思う。