新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

続・ビジネスマンの服装学

2018-11-02 16:07:59 | コラム
ビジネス・パーソンの服装学、何と厳格な:

これは08年の3月に掲載したものに加筆・訂正してあると共に、先頃発表した「ビジネスマンの服装学」の続編にもなっている。

20万円のスーツを来ているアメリカのExecutive:
これも間違いなく我が国で誤解・誤認識されているアメリカの企業社会の文化の中の分野の一つである。アメリカの大手企業の幹部ともなればその99%はIvy League等のMBAという「資産家の出」であり、皆一様に$1,000以上もするスーツを着こなし、$50~$100もするアメリカのブランド品の高級ネクタイを締め(我が国ではこの倍以上の小売価格になるだろう)、$300~400もする靴を履いていると承知している人は少ないだろうが、これは事実である。

これらと同じものが我が国で販売される場合には、ただ単に為替レートを用いて換算すれば良いのではないことは言うまでもないこと。これらが日本国内での小売価格は、スーツならば20万円以上にはなってしまう。残念ながらフランスやイタリアのネクタイを有り難がって数万円を惜しまない人は数多いが、私が愛用した格式高き”Countess Mara”のネクタイなどを知りビジネスマンは極めて少なかった。だが、残念ながらこのブランドは倒産したはずで、最早入手できないと聞いている。

ご参考までにアメリカのスーツの有名ブランドを挙げておこう。”Hickey Freeman”や”Hart, Schaffner”等がそうである。日本では若者が何故か飛びついた”Polo”(by Ralph Lauren)や”Brooks Brothers”は、俗に言うシニアー向けの高級ブランドのうちで、決して大学生や新入社員程度の年齢層向けではない。実際に私はアメリカではBrooks Brothersには良くネクタイ等を買いに行ったものだが、若者に出会ったことなどなかった。

ネクタイの最高級ブランドで嘗ての歴代大統領の御用達の”Sulka”は入っていくのも怖いような雰囲気の紳士用品専門店だった。私がサンフランシスコでその支店に入っていった時には「貴方はここが”Sulka”と承知で入ってきたか?」とアフリカ系の店員に詰問された。「勿論」と答えたところ、掌を返すように丁寧になったのは不愉快だったが、この辺りの姿勢が格式の高さを物語っているのだ。ここまでに挙げたブランドを一つでも、特にSulkaの有り難さを知っておられれば、貴方は相当なアメリカ通であろう。

ところでネクタイの値段だが、アメリカで$50ならば、日本国内では1万円以上で店頭に並ぶだろう。今でこそ銀座に靴屋の”Coal Hahn”が店を出し、”Johnston & Murphy”が多くの店頭に並ぶ時代になったが、これを読んでアメリカの靴だと直ぐにお解りなる方が多いとは思えないのだが。それほどアメリカのブランドに対する認知度は低いと思っている。

私の狙いはアメリカ製品の我が国の国内価格を論ずるのではない。アメリカでの企業社会における服装に対する意外な?厳格さを申し上げたいのである。私がアメリカのビジネス社会での”Dress code”に馴れていない頃に、副社長と共に東京に出張してきたマネージャー(言うまでもないがアメリカ人である)が、私が同じスーツを2日連続で着用して現れた時に、鼻をつまんで「臭い。直ぐ着替えてこい」と命じたのだった。このNY週の名家の出身でありMBAのマネージャーは、必ず3着以上を”Garment bag”(=ハンガーに掛けて吊す形式になっているものだが、トローリーケースが普及した現在では見かけることもなくなった)に入れて東京に持参し、ホテルにチェック・インするや否や全て「特急」でプレスに出してしまう。お客様の前に皺になったスーツやアイロンがかかっていないパンツで出て行くことは許されないのがアメリカの”Dress Code”なのである。

こんな程度で驚いて頂いては困る。私の生涯最高にして最後の直接の上司だった副社長兼事業部長は厳格な規範(=”Norm”)を設けて、彼の部下が”Jacket and tie”という、ブレザー等の代わり上着の下にフラノ等の代わりズボンという服装で仕事の場に出ることを許さず、ワイシャツも白以外は認めなかった。これがアメリカのビジネスマンの服装学なのである。彼は私が忙しさに紛れて散髪していないままに本社に出張した際には「お前には床屋代に不自由しないくらいの給料を払ってあるはず。髪を切ってから出直せ」と厳しく叱責された。こういう事を部下に命じるアメリカの何処がキャジュアルで大雑把なのであろうか?

“A Dress for Success”:
だが、この程度でも未だ驚くのは早いのである。これから真の意味でのビジネスマンの服装学に触れていこう。

アメリカには「出世する服装」と訳されたジョン・モロイ=John Molloyという人の名作がある。因みに、モロイ氏は後に”A New Dress for Success”も上梓している。これはアメリカのビジネス・パーソン(女性がいることを忘れてはならないのでパーソンとした次第)の服装の厳しい規定というか規範を余すところなく語った本である。「厳しい規定」としただけでは何のことかと疑問に感じられる方が多いだろうし、現にこのことを語った場合に多くの方が不思議そうな顔をされた。これは、何かといえば我が国民の頭の中に服装に関しては「イギリス人=紳士」で洗練されており、「アメリカ人=キャジュアルか田舎者」といった既成概念が刷り込まれているせいだと確信している。それは誤解であり、アメリカに対する誤認識で勉強不足あると言いたい。

実は、私自身が服装に関しては学生の頃から非常に興味があり、特にアメリカの会社に移ってからはそれ以前に覚えた理論と、実際が上手く合致して益々詳しくなっていた。換言すれば私なりの「一家言」を持つに至っていたのである。そこに偶然に知ったこのモロイの本を読んで(遺憾ながら翻訳で、だったが)その一致点が多かったことに驚き、且つ自信を深めていった。

この本と我が理論は「その規範がどれほど厳しい(実はこの「厳しい」という言葉の使われ方が気に入らないのだが)というか、こと細かに、厳密に、妥協をせずにビジネスの場における服装とは如何なるものか」を述べているのである。

ごく簡単にその一部を紹介すれば、スーツの色はnavy(=濃紺)かcharcoal gray(=濃灰色)に限定されていると言って良いだろう。シャツの色は白で無地、生地はオックスフォードで”button-down”=ボタン・ダウン。我が国では未だにボタン・ダウンのシャツが若者のものだと思われているようだが、あれは”executive”のものである。

スーツに(現在大流行の)ストライプが入っていれば、シャツにはストライプがないものを着用するのが常識。ネクタイは無地のスーツに無地のシャツであればストライプ入りでもパタン(=pattern、柄物)ものでも良いが、何れかにストライプがあればストライプは禁物で柄物しか許されない。ベルトと靴の色はスーツに調和する色で一致させねばならない。即ち、黒に限定される。靴下もその黒に合わせることは必須であり、所謂デザイナー・ブランドのロゴマークが付いているものなどは論外である。シャツとスーツのネームまたはイニシャル入り(=personalized)は日本だけの習慣であり、外国人を相手にされるお仕事の方は避けた方が良い。

色の使い方も要注意で、同系色を1色と数えて、頭から足の先までで3色に止めておくことが原則であり肝心なのである。アクセサリーにも、何時つけて良いのかに決まりがある。ビジネスの場に出る時に石(宝石等)が入った“tie bar”(=ネクタイ留めだが、タイピンは誤訳であり誤認識である)や“cuff links”(=カフス・ボタン)等の着用は避けるべきだ。意外だと思われる向きもあるだろうが、アクセサリーは夜の部のみと思っていて良いだろう。これが原則である。

此処まででほんの一部である。驚かれた方が多いと思うが、アメリカでの出世した経営幹部(=Executive)でも事細かには知らない人がいることもまた事実である。であれば、我が国の幹部社員の方々に知れ渡っていなくとも別段不思議ではない。

“Wash and change “ or “Wash and shave”:
1969年だったか、UKの大手紙パルプメーカーのマネージャーと日本の見込み客との夕食会を何気なく18:00に設定した。私がアメリカの会社に転出する前のこと。それを聞いた誇り高き英連合王国のビジネスマンが怒った。「それでは私がホテルに戻ってシャワーを浴びて、髭を剃り直して夜の会合用に着替える時間がないではないか。気が利かない。早くとも19:00に変更せよ」と言われた。全く意表をつかれ、未だその方面の知識がなかった私は何のことか理解出来ずに当惑したのだった。

後で知ったことだが、こういう習慣は我が国で「紳士の国」と広く崇められているUKだけに限ったことではないのだ。良く考えなくとも解ることで、アメリカとはUKからの移民で構成されている国なのだから。彼らは夜の部には着替えて出直すのが当たり前のことなのだ。そのためにタキシードとまでは言わなくとも、シルクのジャケットなどを持参して出張してくるのだ。宝石類がついたアクセサリーなどはその時に使うもので、昼間の仕事に場につけて出るものではない。

ここまでお読み頂いて、多くの方が粗野でキャジュアルと思われているアメリカの大手メーカーでの経験を披露して、USAとUKは親類だったと再認識して頂こうと企画した次第だ。

他の例も挙げておこう。それはアメリカ東海岸のペンシルベイニア州の他の事業部の本部を訪問した時だった。その事業部で輸出も担当するマネージャー夫妻と夕食会ということになった。その小さな町で最高ランクのフランス料理屋の予約が20:00と聞かされていた。一応”Wash and shave”を終えて言われた通りに18:30に彼の自宅に参上した。だが、奥方は不在だった。彼の子供さん達は小さかったので”Baby-sitter”が来ていた。(なお、sitterを「シッター」と発音しないように。それは英語式に綴れば“shitter”となり、全く異なる意味となるからだ。)これは大事(おおごと)なのだと認識した。暫くして美しく髪を結い上げてロング・ドレスで正装した奥方が戻ってきた。そうなのです、着付けに美容院に行っていたのです。彼は勿論タキシード。私も着替えておいて良かったと安堵の溜息。同じアメリカでも東海岸に行けば、将に「所変われば品変わる」なのだ。

予約した時刻にレストラン到着後は、先ずバーで軽くカクテルを賞味しながら語り合いの一時。30分程でウエイターが恭しく”Your table is ready, sir.”と迎えに来る。それから仕上げのリキュールまで終えて終了が23:00。申し上げておくと、これでもヨーロッパではなくアメリカだと言うこと。何処がキャジュアルですか?ラフな国なのか?西海岸ではこれほど格式張ってはいないが、奥方がお出でになる夕食会などは、それほど気楽な行事ではないのだ。話題にも注意せねばならず(腰から下関連の話題は許されないのが常識)、馴れないうちは何を食べたのか記憶がないこともあったくらい。

アメリカのビジネスの場の服装学:
このような服装学の源は金融・証券街にあったと聞いている。即ち、ウオール・ストリートのexecutive達の服装が広く一般の企業にも浸透してきたと解釈している。具体例を挙げれば、我が上司であった事業部本部長兼副社長は36歳で中西部の営業所長だった頃には全くあか抜けない服装をしていた。それが39歳で大抜擢され本部営業部長、次いで本部長と急上昇し、42歳で副社長就任となった。その間に彼の服装は急速に目覚ましく洗練されていき、何時しかモロイ氏が示した通りの厳しさを身につけていた。45歳の頃には最早何者も寄せ付けないような隙がない服装となり、スーツ・ケースもブリーフ・ケースもアメリカ最高のブランド品になっていた。鞄類にもアメリカの高級ブランドがあるのだ。それらは我が国の2~3のデパートでは取り扱っていると知って置いて貰いたい。何もヨーロッパものだけが高級品とは限らないのだ。

我がオウナー・ファミリー出身のCEOも、70年代後半には全く服装に関心がないかに見えたが、会社が目覚ましく成長発展を遂げていた彼の40歳代後半から50歳代にかけては、恐ろしいほどの貫禄を見せるほどで、チャーコール・グレーのスーツを着こなす格式高き大社長に変身していた。

日本望見:
「何だ、それの何処が日本の経営者達と違うのか」と言われそうだが、日本の経営者達に多く見られるようにスーツは英国製の生地と超一流の仕立て(と見えるのだが)、ネクタイがフランスは“Hermes”(=「エルメス」)、カフス・ボタンとタイピン(正しくは”tie bar”で、タイピンは全く別のもの)に宝石という具合で、モロイ氏の教えからすれば違反ばかりである。金さえかければ良いものではないのだ。

「石」(=宝石類)がついているアクセサリーは昼間の着用は避けて、夜にシルクのジャケットでもと洒落込んだ時のものである。それに着用するものには統一性が欲しい。兎に角有名ブランド品に振り回されていて、高級店の高級品さえ着ていれば安全という感じがするのだが。何もフランス製で高価だからといって何が何でも「エルメス」では不釣り合いである。一言皮肉をお許し願えば、アメリカの政府高官は先ずアメリカ製のネクタイをしており、余り良い印象を持っていないフランス製をしているのは余り見たことがないのだ。我が国は何故かヨーロッパのブランド品崇拝の傾向が強く、折角耐久性に優れデザインもヨーロッパものと遜色がない良いものが多いアメリカ製のスーツやネクタイは見向きもしない偉い方が多いのである。これでは田舎者丸出しだ。

我が国内では多少“モロイイズム”ないしは私流から外れていても問題はないだろうが、私の主張は少しでもこういうことを知って、自らの服装の美学と規範を守って欲しいのだが。それにアメリカの政府高官と雖も怪しげな人はいる。具体的に名を挙げるのは避けるが、例の”Six Party Talks”で一躍世界に名をはせた某氏などは、目を疑わせるほどの図抜けた無関心振りである。これすなわち、その某氏はエリートでも何でもない成り上がり者だと自ら語っていることになるのだ。尤も、常にコートもスーツもボタンをかけずに闊歩されている大統領もおられるがね。

此処で主張したいことは服装には自分の思想・哲学を疲労する一貫性が必要であるが、決して華美にわたるべきではないということだろう。怪しげな国産デザイナーなどの言うことに惑わされてはならない。その悪影響を見よ。多くの代議士などはピン・ストライプのスーツにストライプのシャツとネクタイという有様。道化師かと笑われるよ、アメリカのエリートに!