新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月1日 その2 気になるカタカナ語の濫用

2019-02-01 14:23:46 | コラム
スピードスターはSpeed starじゃないのだ:

またかと言われようと何だろうと、気になるカタカナ語のおかしさを挙げていこう。スポーツ中継の解説者は仕方がないとしても、新聞社やテレビ局の者どもはこれくらいの英語が解っていないのは困ったもので、彼らがおかしな言葉を使うから、罪なき一般大衆が誤解してカタカナ語を嬉しそうに使うのだと思って怒っているのだ。

スピードスター →英語の綴りは speedster でジーニアス英和でもOxfordでも「スピード狂」のことだと真っ先に出てくる。即ち、「車を高速度で運転する人」である。決して彼らが誤認識しているような「俊足の人」か「足が速いスター選手」という意味でもない。今回伊藤純也が海外に移籍するようになってその紹介の記事の見出しが「スピードスター」だったのは、明らかに Speed star という英語を勝手にでっち上げたのだろう。

メンタル →英語では mentalだが、彼らは「精神力」の意味で使っているようだ。先ず、間違いはこれは形容詞であって名詞ではないことだ。名詞にして使いたいのならば後に strength を付けたくなる。だが、Oxfordを見ると mental の意味は connected with or happening in the mind とあり、その後に strength を付けても「精神力」の意味にはなりそうもない。プログレッシブ和英によれば「精神力」は emotional strength と出てくる。何れにせよ、形容詞を名詞のように使うのは誤り。

フィジカル →これは physical のことだが、これも形容詞だ。「体の強さ」か「体力」を言いたいのならば、矢張り strength の手助けが必要となるだろう。だが、「メンタル」と同様に戸籍を得てテレビでは誤用されたこのような言葉がまかり通っている。テレビ局でも新聞社でも、関係者は子供の頃から大学まで曲がりなりにも英語の勉強はしたのだろう。そして、単位も落とさずに卒業できたのだろう。もう少しだけで良いからしっかりしろよ。

レベルアップ →これも酷い言葉だ。既に何度も採り上げてきたので、今更という気はする。だが、矢張り濫用を止めろと言っておきたくなる。選手たちも報道関係者も堂々とこのカタカナ語を使って「一層練習を積んで技術を向上させて上達する」という意味に使うが、これはそのまま英語にはならないのだ。言うのならば to improve my level of skill or techniqueとでもなるところだ。日本語だと承知で国内で使っている限りは問題ないが、海外に行って使ってはならないのだ。

ベストを尽くす →英語擬きと日本語の合成語である。これも何度も槍玉に挙げてきた。何故「最善の努力をします」とか「出来る限りのことをやります」と言ってはいけないのだろうか。ここでも困ったことに「ベスト」は good か well という形容詞の最上級である。学校では「形容詞形のままでは名詞の代わりには使えない」ということを教えていないのだろうか。英語だと I’ll do the best. で通じてしまうだろうが、ジーニアス英和には名詞形で使えるとは出ている。

Oxfordにも名詞形で使えるとあるが、「通常は前に the を付けろ」とある。尤もだ。矢張り英語とは面倒くさい言葉だと思わざるを得ない。


元号と西暦の関係

2019-02-01 08:06:21 | コラム
元号と私:

一昨日の産経に曽野綾子さんが「透明な歳月の光」の中で “最近テレビを見ていて、少し気になることがある。何かというと、「これが平成最後の」という形容詞がつくのである。” と指摘されていた。その傾向は私も感じていた。私の分析では「事前に元号が変わる時期が解ったいたのが初めての事なので、そういう表現をしているだけのことで、御代代わりへの便乗的だ」となっていた。より私風に言えば「マスコミらしい軽佻浮薄振りだ」ともなる。

ところで、昨日の「記念日の特集」では何年目になるかの計算の基礎には全て西暦を使っていたのを、お気付きの方がおられるかと思う。それは、例えば「昭和8年生まれの私が平成31年の今年では何歳になっているか」を計算するとなると、簡単にはできないと思っているからだ。即ち、昭和8年には25を足すと西暦1933年となる。次は平成31年からは12を引くと2019年になるという仕掛けだ。そこで2019-1933=86と、目出度く86歳だったと解るのだ。西暦の方がこういう計算が楽にできると言いたいだけのことなのだ。

私は1972年にアメリカの会社に転進した結果で、報告書や経費伝票というか何から何まで日付けは西暦でなければならない世界に入ってしまった。初めのうちは多少戸惑いはあったが、馴れてしまえばこの方が記憶するのでも何でも単純化できたので楽だった。そして、その世界に22年も滞在してしまえば、何時の間にか西暦でしか考えられないようになっていたのだった。例えば、W社に転じたの1975年だったが、それが昭和50年だったという意識が殆どなかったのだ。

こんな事を述べていけば、如何にも私が元号軽視論者のように見えるかも知れないが、そうではなく西暦の方が計算がしやすかったと言いたいだけのことだ。そこで、新元号となった後の心配して見よう。新元号による年を西暦に換算する時には「XX何年に18を足せば良いのかな」などと、今から計算の基礎を用意しておこうかな等と考えている。