新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月12日 その2 池江璃花子さんの不運

2019-02-12 17:03:56 | コラム
池江璃花子さんが白血病に:

不運と言うしかないだろう。私はこれまでに何度述べてきたことだが、自分でも良く解らない「閃き」か「勘」というか、スポーツの試合であるとか、将来何が起きるかといったような物事の先が見えてしまうことがあるのだ。または「そういう結果になれば良いのだが」という望ましい未来の絵が見えてこないという経験をして来た。これは「如何なる結末になるのか」などを思い描こうとしている訳でもないのに、自然にというか勝手に「勘」が閃いてくるのである

例えば、1960年に急性肝炎に罹って45日ほどの入院加療の後に主治医に「会社に復帰して良し」との許可を貰って、喜んで会社の上司に報告に短時間出社したのだった。だが、報告しながら、どうしても「自分が自分の机に座って仕事をしている絵」が見えてこなかったのだった。「おかしな事もある物だ」と思っていると、その晩から高熱が出て風邪を引いたことが判明して、会社復帰が2日ほどズレてしまった。「なるほど、こう言うことだったのか」とは解ったが、実に奇妙な「勘」だと痛感させられた。

その意味では「池江璃花子という何年に一人という逸材であろう水泳選手が、幾ら国内の大会やアジアの選手権等で新記録で勝とうとも、オリンピックや世界選手権等で優勝する姿がどうしても見えてこなかったのである。「閃き」である以上、これには何ら根拠がなかったが、どういう形でオリンピックのような大会での活躍が阻まれるのかと、正直なところ不思議なことだと思ってきた。

その池江さんが本12日の午後から各テレビ局が「オーストラリアの合宿で体調の不良を訴えて途中で帰国して検査の結果白血病と診断された」報じた。各局は挙って多くの専門の先生方のご意見を求めたところ「先ずは治療に最短でも半年を要し、その時では寛解であって完治ではないかも知れない」という意見を述べておられた方が多かった。聞いているだけでも誠に気の毒な事態であり、心の底から池江さんに同情したし、我が国の水泳界にとっても痛恨の出来事だと思った次第。

同時に、私の何の根拠もなかった「池江さんがオリンピックのような大会で勝つ姿が見えてこない訳」が解ってきたような気がした。池江さん自身は治療に専念して第一線に復帰する意欲満々であると思わせてくれる告白をしていたが、未だ18際という若さでこのような難しい病気に罹ってしまったのは本当に不運だと思わずにはいられなかった。私が危惧することは、仮に半年で完全回復できたとしても、その間にあれだけの記録を出す筋肉を維持できないのではないのかという点である。

しかも、この点には「最短でも」と「寛解であって完治ではないかも」という条件も付くようなのである。白血病にはいくつかの治療法があるようだが、その間に水泳に必要な筋肉を鍛えるようなトレーニングを並行してやっていけるものなのだろうかと思う時、彼女は大変な苦難を背負うことになってしまったと感じている。だが、聞くところでは池江さんは大変強靱な精神力の持ち主であるようだから、このいきなり降りかかった難病を短期間に克服して、私の無根拠の「閃き」が虚構だったと証明して、2020オリンピックで大活躍して入賞、即ちメダルを獲得して欲しいと切に願うものである。


“child abuse”

2019-02-12 13:31:11 | コラム
児童(幼児)虐待:

英語では“child abuse”と言う現象があるとは、アメリカ人の中で過ごしていて何かの切っ掛けで覚えた表現だったが、「恐らく白人の世界だけででも起きることだろう」くらいに気軽に考えていたものだった。それに“abuse”とは「乱用する」のことだと思っていたので、まさか同じ単語が「虐待」の意味で使われるとは余り考えていなかった。ところが、ジーニアス英和には乱用よりも「虐待する」という方が先に出てくるのだ。Oxfordにはそうとは出ていない。

因みに、Weblioで調べると“Child abuse is an abuse of disciplinary rights.”という例文が出ていて、巧みに abuse の持つ二つの異なる意味を使い分けてあったのが印象的だった。なお、disciplinary right とは「懲戒権」のことのようである。野田市の件での栗原某などは、まさしくこの権利を乱用したと思わせて極めて遺憾だと言える。

その児童虐待が我が国ではこれほど頻繁に発生していて、あの千葉県の野田で起きたように我が子を死に至らしめたほどの虐待が起きるなどとは私にはとても想像も出来なかった。我が国でこのような悲しい事件が数多く起きているとは、我が国の劣化かとすら思わせてくれた。その昔には亭主が女性の連れ子を虐待するという話は良く聞かされたものだったが、あの野田市の一件は何度テレビのニュースを聞いても我が子を虐待して死に至らしめたのであって、私には鬼畜の所業としか思えなかった。

私は既に指摘したが、学校や教育委員会の責任逃れ体質や、児童相談所の権限の範囲の狭さなどは、至急法的にも改善すべきだと思っている。特に学校等では教員が長い経験を経て管理職に昇進して行く制度を改革して、ビジネスの世界を経験した人物を登用せよとも提案した。現に某総合商社を40歳台で退職して家業を継いでいた友人が、その後に不振だった女子商業高校の経営に転進し、実業界での経験を活かしてその学校を見事に進学校にまで改革した例があるのだ。

要するに「広い世界を経験して『責任とは』を心得た人物に、学校や委員会や児童相談所等の管理運勢を任せてはどうか」という主張である。また各組織(機関)は縦割りではなくて、常に横の連絡と提携を密にしておく方法も考えるべきではないのだろうか。それに担当される方々が「親の恫喝に負ける」などという失態を二度と繰り返さないように十分な社会経験を積んでおけるような工夫も必要だろう。我が年齢層が子育てをしていた頃には「モンスターペアレント」などが出てくるような要素は皆無だったと思う。