新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月5日 その3 外国で中国人に間違えられて

2020-03-05 15:23:56 | コラム
我が国は未だ知られざる国だと感じた:

私が「外国」と言っても主として北米大陸でだが、何度となく中国人だと思われたことがあった。中国人でなければ中国系アメリカ人と看做された。不思議でならなかったし、誇り高き日本人としては名誉を傷つけられたとすら感じたことがあった。「何故そうなるのだろう」とW社に転進してから東京事務所に駐在していた日系人BJ氏(ワシントン大学のMBAで優秀だった)に尋ねてみた。答えは簡単明瞭で「それは褒められたと思って良いかも知れない。アメリカでも他国でも中国系が圧倒的に多く、遍く知られ且つ評価されている場合があるから」だった。驚いた。

1972年8月にカナダのヴァンクーヴァーから8時間のドライブで、初めてカナダのパルプ工場に向かったときのことだった。言わば人里離れた山中のレストランで昼食となった。運転してくれていた工場の管理担当マネージャーが、若いウエイトレスに「この人は日本から来たのだが、日本が何処にあるか知っているか」と尋ねた。彼女は困惑した表情で暫し沈黙した後で ”Somewhere in the Fareast.”と答えた。マネージャー氏は正解として食事に移った。

同じ出張の際にヴァンクーヴァーの表通りから外れた裏通りに「カレーライスあり」との看板が出ていたレストランがあった。面白そうなので入って見れば、本格的なインドカレー風のカレーだった。食べ終わってキャッシュレジスターの所にいた女性に勘定をしに行くと”Are you Chinese?“と訊くので勿論”No, I’m not.”だ。次は”Korean?“と来たので否定した、すると、何と日本語で「何だ。日本人だったの。珍しい。こんな裏まで入ってきてチャンと英語で注文する以上、日本人ではないと思った」、と言うのだった。色々解釈ができる言い方だが、如何にも自虐的ではないのか。

1975年春にシアトルのデパートの1階を三菱商事のシアトル支店に駐在していた従兄弟と2人で歩いていたときのことだった。回廊式になっている2階から現地人の男の子が”Look at that mommy. Two Chinese are walking, downstairs.“と叫んだのだった。若い母親が慌てて制していた。だが、従兄弟は慌てず騒がず「こういうことは未だ良くあるので」とサバサバしていたのにはかえって驚かされた。あらためて「そういうことなのかな」と考えさせられた。

ここで一寸遡って1970年に生まれて初めて海外に出て台湾に入ったときの経験を。私は現地の台湾の内省人たちに「貴方の顔付きは、世界中何処に行っても間違いなく外省人と看做されるだろう」と言われて落胆していると、これは貶しているのではくて褒め言葉だと聞かされて、一層落ち込んだのだった。そして、その言葉通りにアメリかでは何度も中国人と思われたし、空港などでゲートから到着ロビーに出るや否や、中国人と思しき人が飛んできて何か喚かれたことが何度もあった。矢張り外省人と思われたのだった。

ここまで、余り思い出したくない経験談を並べてきたが「何だ、30年以上も昔のことじゃないか」などと言うなかれだ。私はこの中国人と看做される事態は余り変わっていないと思っている。21世紀に入ってから上海で英語で話していたところ、レストランの若いウエイトレスにてっきり中国系アメリカ人だと思ったと言われてしまった。要するに、アメリカやヨーロッパの人たちには我々と、中国人、韓国人の見分けなど出来ないので、十把一絡げで最も沢山進出している中国人だと思うようなのだ。

言いたくはないが、英語や日本語による海外への我が国自身に関する情報の発信が少な過ぎることと、我が国から敢えてアメリカ大陸やヨーロッパに進出乃至は移住して一旗揚げようという人たちが最早少ないので、我が国は21世紀の今日でも「知られざる国」であり続けているのだと危惧しているのだ。確かにトヨタ、ソニー、ホンダとうは遍く知られている。だが、良く言われていたように、例えば、ソニーはアメリカの会社だと思っている人たちには何度も出会った。だが、これを嘆くのは早いと思う。

我々がアメリカ人、カナダ人、イギリス人(敢えてUK人とはしない)、スコットランド人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、パレスチナ人等々の見分けがつくかということ。私が顔付きと服装で見分けがつくのはアメリカ人だけだ。こう言って少しは慰めになるかも知れないが、我が国にとって必要なことは「可及的速やかに、知られざる日本状態から脱却する努力を積み重ねること」だと思う。何時までも中国人と看做されることが、褒められたことであってはならないのではと思うのだ。


3月5日 その2 「4日のPrime Newsでの櫻井よしこさんの発言に思うこと」の訂正版です

2020-03-05 09:20:58 | コラム
櫻井よしこさんの発言は何時も核心を突いている:

桜井さんは昨夜も非常に興味深い指摘を何点もしておられた。だが、最近高齢化共に、とみに夜遅くまで起きていられなくなってきたので、残念ながら21時過ぎに打ち切って寝てしまった。そこで、そこまでの間に「これだ」と思った幾つかの点と関連する話題を挙げておこう。

*「何故野党とマスコミは安倍総理の緊急の一斉休校の要請に反対し、批判し続けるのか。」との指摘から。
この点は私も即刻批判して「朝日新聞の記者が総理の声明の後の質疑で、例の『唐突論』と『事前に相談がなかった』と論いだしたのを聞いただけで、これ以上見ている価値無しとチャンネルを変えた」と述べて置いた。桜井さんは「総理が有事だと言っておられる以上、批判だの揚げ足取りは無用で、一致団結して事に当たるべきであり、そこを優先すべきだ」という意味の指摘をされた。これ以上何も言うことはないほど尤も至極なことだ。

だが、マスコミは今日に至るも批判的な記事を載せ、どこそこで大損失を生じて気の毒だというような報道の羅列である。これが国難とでも言いたいようなコロナウイルス問題に対する姿勢かと言うことであり、私には本末転倒だとしか思えない。ウイルス制圧のためには全てを犠牲にせよとまでは総理は言っておられないし、予備費を活かして補償すると言っておられたではないか。すると、奴らは補償が万人に行き渡らない危険性があるとまで言い出すのだ。再び言えば「要請はウイルス制圧の目的だった」ので、議論や選択の余地は先ずないのである。

*「我が国では何事でも小出しにする傾向があるのは良くない」との指摘。
この点は永年アメリカ側の一員として我が国とアメリカの両方の文化と文明と思考体系に接してきた者としては、桜井さんの指摘は誠に尤もだと思うと同時に「遺憾だ」とまでは言わないが、改善の必要があると思うのだ。これだけでは何が言いたいかお解り願えないと思うので、一旦少し趣を変えて別な視点からこの問題を論じてみようと思う。

そこで、我が友YM氏に登場願おう。彼に「アメリカの有名私立大学のビジネススクールで、どのようにマーケテイングを教えていたのか」と尋ねたことがあった。彼の答えは「我が国では多くの事柄が先ず小さなことから(最小の予算を)決定してそこから出発し、経過というか成り行き次第で継ぎ足しまた継ぎ足しとなっていく。それは応用が利くようで聞かない場合が多い。即ち、継ぎ足しでは予算が不足することもある。私の信条は先ず範囲を大きく広げておくことから始め、事が進んでから焦点を絞り込んでいく方式である」となっていた。

即ち、演繹的対帰納的の違いだった。この基本的な考え方で8年間世界各国の優秀な院生たちに講義し、討論しあってきたということだった。私は桜井さんの指摘と同じ事だと受け止めているのだ。

この彼の主張の具体例を挙げてみれば「ある大手製造業の工場を見学すると、広い建屋内に多くの製造ラインが同じ方向に向かって並んでいるのではなく、先ず小規模で開始して市場の成長に伴い事業規模の拡張に従って継ぎ足し継ぎ足しでとなってしまい、各製造ラインがバラバラになってその間の通路が迷路の如くになってしまう。その為に原料や製品の場内の輸送にも不便となっている例を見てきた。これなどは「工場の建設計画の際に規模を大きく採っておけば、そういう形式にはならないのであって、非効率である」となる。この際に「我が国は土地が狭くコスト高だ」との議論は措いておく。

次に、私が実際に経験した「ここを経費を惜しまずに、もう一寸お金をかければ」というアメリカ式思考体系の例を挙げておこう。1980年代初期に我が社が日本のお客様の全工場を巡回して「液体容器の最善の加工法」と「牛乳やジュースの充填機の操作法」のプリゼンテーションをしたことがあった。その際に来場される全員の為にテーブルの上に当日の説明資料の日本語版を置き、隣に記念品(訂正前は危険品となっていた)を並べて、団長格のマネージャーに準備完了と報告した。彼は一目見て「何をやっているのか」と私を叱責した。

それは「我が社の説明を聞きに来て下さった遠来のお客様に筆記用具は自分の物を使えというのか。失礼ではないか。ここで経費を惜しんでは何もならない。即刻人数分ではなく予備の分も入れて買ってこい」という趣旨の厳命だった。私が怒られて学んだ点は「お客様の遇し方」と「大した額ではない経費を惜しむな」だった。そう言われた考えさせられたことは「我が国ではここをこうすればより良いのだが、先ずは最小の予算で始めよう」となるが、彼等は「先ずは予算を十分にとって、後で悔やまないようにしよう」と考えることだった。

*「アメリカへの入国制限」という問題。
この件は去る2月18日にSM氏がさり気なく「このままに推移すれば、トランプ大統領は日本からアメリカへの入国を制限すると言い出すのでは」と述べていた。どうやらその点の検討を始められたようなのだ。桜井さんの主張は「海外向けの正確な情報の発信は必要である」との点だったと記憶するが、先月のうちにSM氏が予測して見せたように、決して荒唐無稽な発想ではないと思うのだ。SM氏は2月10日の週にカリフォルニア州を出てきたのだから、現地の雰囲気を語ったものと受け止めていた。

私が懸念していることはアメリカは兎も角、コロナウイルスの発生源であるはずの中国が北京と上海への我が国からの入国者を14日間隔離すると言い出したかと思えば、日本発生源説まで唱えるのだ。既に入国制限している国が複数あるのが実態だ。その最中にあって連日連夜テレビ局は「本日何人感染者が増えた」とさも嬉しそうに報道し、常にクルーズ船の分まで加えて「1,000名を超えた」と強調する始末だ。これは論外だが、私が恐れているのは「このままではオリンピックは開催されても、何処からも選手団が送り込まれない事態になるのでは」だ。

マスコミの猛省を求めたい。


4日のPrime Newsでの櫻井よしこさんの発言に思うこと

2020-03-05 09:04:58 | コラム
櫻井よしこさんの発言は何時も核心を突いている:

桜井さんは昨夜も非常に興味深い指摘を何点もしておられた。だが、最近高齢化共に、とみに夜遅くまで起きていられなくなってきたので、残念ながら21時過ぎに打ち切って寝てしまった。そこで、そこまでの間に「これだ」と思った幾つかの点と関連する話題を挙げておこう。

*「何故野党とマスコミは安倍総理の緊急の一斉休校の要請に反対し、批判し続けるのか。」との指摘から。
この点は私も即刻批判して「朝日新聞の記者が総理の声明の後の質疑で、例の『唐突論』と『事前に相談がなかった』と論いだしたのを聞いただけで、これ以上見ている価値無しとチャンネルを変えた」と述べて置いた。桜井さんは「総理が有事だと言っておられる以上、批判だの揚げ足取りは無用で、一致団結して事に当たるべきであり、そこを優先すべきだ」という意味の指摘をされた。これ以上何も言うことはないほど尤も至極なことだ。

だが、マスコミは今日に至るも批判的な記事を載せ、どこそこで大損失を生じて気の毒だというような報道の羅列である。これが国難とでも言いたいようなコロナウイルス問題に対する姿勢かと言うことであり、私には本末転倒だとしか思えない。ウイルス制圧のためには全てを犠牲にせよとまでは総理は言っておられないし、予備費を活かして補償すると言っておられたではないか。すると、奴らは補償が万人に行き渡らない危険性があるとまで言い出すのだ。再び言えば「要請はウイルス制圧の目的だった」ので、議論や選択の余地は先ずないのである。

*「我が国では何事でも小出しにする傾向があるのは良くない」との指摘。
この点は永年アメリカ側の一員として我が国とアメリカの両方の文化と文明と思考体系に接してきた者としては、桜井さんの指摘は誠に尤もだと思うと同時に「遺憾だ」とまでは言わないが、改善の必要があると思うのだ。これだけでは何が言いたいかお解り願えないと思うので、一旦少し趣を変えて別な視点からこの問題を論じてみようと思う。

そこで、我が友YM氏に登場願おう。彼に「アメリカの有名私立大学のビジネススクールで、どのようにマーケテイングを教えていたのか」と尋ねたことがあった。彼の答えは「我が国では多くの事柄が先ず小さなことから(最小の予算を)決定してそこから出発し、経過というか成り行き次第で継ぎ足しまた継ぎ足しとなっていく。それは応用が利くようで聞かない場合が多い。即ち、継ぎ足しでは予算が不足することもある。私の信条は先ず範囲を大きく広げておくことから始め、事が進んでから焦点を絞り込んでいく方式である」となっていた。

即ち、演繹的対帰納的の違いだった。この基本的な考え方で8年間世界各国の優秀な院生たちに講義し、討論しあってきたということだった。私は桜井さんの指摘と同じ事だと受け止めているのだ。

この彼の主張の具体例を挙げてみれば「ある大手製造業の工場を見学すると、広い建屋内に多くの製造ラインが同じ方向に向かって並んでいるのではなく、先ず小規模で開始して市場の成長に伴い事業規模の拡張に従って継ぎ足し継ぎ足しでとなってしまい、各製造ラインがバラバラになってその間の通路が迷路の如くになってしまう。その為に原料や製品の場内の輸送にも不便となっている例を見てきた。これなどは「工場の建設計画の際に規模を大きく採っておけば、そういう形式にはならないのであって、非効率である」となる。この際に「我が国は土地が狭くコスト高だ」との議論は措いておく。

次に、私が実際に経験した「ここを経費を惜しまずに、もう一寸お金をかければ」というアメリカ式思考体系の例を挙げておこう。1980年代初期に我が社が日本のお客様の全工場を巡回して「液体容器の最善の加工法」と「牛乳やジュースの充填機の操作法」のプリゼンテーションをしたことがあった。その際に来場される全員の為にテーブルの上に当日の説明資料の日本語版を置き、隣に危険品を並べて、団長格のマネージャーに準備完了と報告した。彼は一目見て「何をやっているのか」と私を叱責した。

それは「我が社の説明を聞きに来て下さった遠来のお客様に筆記用具は自分の物を使えというのか。失礼ではないか。ここで経費を惜しんでは何もならない。即刻人数分ではなく予備の分も入れて買ってこい」という趣旨の厳命だった。私が怒られて学んだ点は「お客様の遇し方」と「大した額ではない経費を惜しむな」だった。そう言われた考えさせられたことは「我が国ではここをこうすればより良いのだが、先ずは最小の予算で始めよう」となるが、彼等は「先ずは予算を十分にとって、後で悔やまないようにしよう」と考えることだった。

*「アメリカへの入国制限」という問題。
この件は去る2月18日にSM氏がさり気なく「このままに推移すれば、トランプ大統領は日本からアメリカへの入国を制限すると言い出すのでは」と述べていた。どうやらその点の検討を始められたようなのだ。桜井さんの主張は「海外向けの正確な情報の発信は必要である」との点だったと記憶するが、先月のうちにSM氏が予測して見せたように、決して荒唐無稽な発想ではないと思うのだ。SM氏は2月10日の週にカリフォルニア州を出てきたのだから、現地の雰囲気を語ったものと受け止めていた。

私が懸念していることはアメリカは兎も角、コロナウイルスの発生源であるはずの中国が北京と上海への我が国からの入国者を14日間隔離すると言い出したかと思えば、日本発生源説まで唱えるのだ。既に入国制限している国が複数あるのが実態だ。その最中にあって連日連夜テレビ局は「本日何人感染者が増えた」とさも嬉しそうに報道し、常にクルーズ船の分まで加えて「1,000名を超えた」と強調する始末だ。これは論外だが、私が恐れているのは「このままではオリンピックは開催されても、何処からも選手団が送り込まれない事態になるのでは」だ。マスコミの猛省を求めたい。