我が国は未だ知られざる国だと感じた:
私が「外国」と言っても主として北米大陸でだが、何度となく中国人だと思われたことがあった。中国人でなければ中国系アメリカ人と看做された。不思議でならなかったし、誇り高き日本人としては名誉を傷つけられたとすら感じたことがあった。「何故そうなるのだろう」とW社に転進してから東京事務所に駐在していた日系人BJ氏(ワシントン大学のMBAで優秀だった)に尋ねてみた。答えは簡単明瞭で「それは褒められたと思って良いかも知れない。アメリカでも他国でも中国系が圧倒的に多く、遍く知られ且つ評価されている場合があるから」だった。驚いた。
1972年8月にカナダのヴァンクーヴァーから8時間のドライブで、初めてカナダのパルプ工場に向かったときのことだった。言わば人里離れた山中のレストランで昼食となった。運転してくれていた工場の管理担当マネージャーが、若いウエイトレスに「この人は日本から来たのだが、日本が何処にあるか知っているか」と尋ねた。彼女は困惑した表情で暫し沈黙した後で ”Somewhere in the Fareast.”と答えた。マネージャー氏は正解として食事に移った。
同じ出張の際にヴァンクーヴァーの表通りから外れた裏通りに「カレーライスあり」との看板が出ていたレストランがあった。面白そうなので入って見れば、本格的なインドカレー風のカレーだった。食べ終わってキャッシュレジスターの所にいた女性に勘定をしに行くと”Are you Chinese?“と訊くので勿論”No, I’m not.”だ。次は”Korean?“と来たので否定した、すると、何と日本語で「何だ。日本人だったの。珍しい。こんな裏まで入ってきてチャンと英語で注文する以上、日本人ではないと思った」、と言うのだった。色々解釈ができる言い方だが、如何にも自虐的ではないのか。
1975年春にシアトルのデパートの1階を三菱商事のシアトル支店に駐在していた従兄弟と2人で歩いていたときのことだった。回廊式になっている2階から現地人の男の子が”Look at that mommy. Two Chinese are walking, downstairs.“と叫んだのだった。若い母親が慌てて制していた。だが、従兄弟は慌てず騒がず「こういうことは未だ良くあるので」とサバサバしていたのにはかえって驚かされた。あらためて「そういうことなのかな」と考えさせられた。
ここで一寸遡って1970年に生まれて初めて海外に出て台湾に入ったときの経験を。私は現地の台湾の内省人たちに「貴方の顔付きは、世界中何処に行っても間違いなく外省人と看做されるだろう」と言われて落胆していると、これは貶しているのではくて褒め言葉だと聞かされて、一層落ち込んだのだった。そして、その言葉通りにアメリかでは何度も中国人と思われたし、空港などでゲートから到着ロビーに出るや否や、中国人と思しき人が飛んできて何か喚かれたことが何度もあった。矢張り外省人と思われたのだった。
ここまで、余り思い出したくない経験談を並べてきたが「何だ、30年以上も昔のことじゃないか」などと言うなかれだ。私はこの中国人と看做される事態は余り変わっていないと思っている。21世紀に入ってから上海で英語で話していたところ、レストランの若いウエイトレスにてっきり中国系アメリカ人だと思ったと言われてしまった。要するに、アメリカやヨーロッパの人たちには我々と、中国人、韓国人の見分けなど出来ないので、十把一絡げで最も沢山進出している中国人だと思うようなのだ。
言いたくはないが、英語や日本語による海外への我が国自身に関する情報の発信が少な過ぎることと、我が国から敢えてアメリカ大陸やヨーロッパに進出乃至は移住して一旗揚げようという人たちが最早少ないので、我が国は21世紀の今日でも「知られざる国」であり続けているのだと危惧しているのだ。確かにトヨタ、ソニー、ホンダとうは遍く知られている。だが、良く言われていたように、例えば、ソニーはアメリカの会社だと思っている人たちには何度も出会った。だが、これを嘆くのは早いと思う。
我々がアメリカ人、カナダ人、イギリス人(敢えてUK人とはしない)、スコットランド人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、パレスチナ人等々の見分けがつくかということ。私が顔付きと服装で見分けがつくのはアメリカ人だけだ。こう言って少しは慰めになるかも知れないが、我が国にとって必要なことは「可及的速やかに、知られざる日本状態から脱却する努力を積み重ねること」だと思う。何時までも中国人と看做されることが、褒められたことであってはならないのではと思うのだ。
私が「外国」と言っても主として北米大陸でだが、何度となく中国人だと思われたことがあった。中国人でなければ中国系アメリカ人と看做された。不思議でならなかったし、誇り高き日本人としては名誉を傷つけられたとすら感じたことがあった。「何故そうなるのだろう」とW社に転進してから東京事務所に駐在していた日系人BJ氏(ワシントン大学のMBAで優秀だった)に尋ねてみた。答えは簡単明瞭で「それは褒められたと思って良いかも知れない。アメリカでも他国でも中国系が圧倒的に多く、遍く知られ且つ評価されている場合があるから」だった。驚いた。
1972年8月にカナダのヴァンクーヴァーから8時間のドライブで、初めてカナダのパルプ工場に向かったときのことだった。言わば人里離れた山中のレストランで昼食となった。運転してくれていた工場の管理担当マネージャーが、若いウエイトレスに「この人は日本から来たのだが、日本が何処にあるか知っているか」と尋ねた。彼女は困惑した表情で暫し沈黙した後で ”Somewhere in the Fareast.”と答えた。マネージャー氏は正解として食事に移った。
同じ出張の際にヴァンクーヴァーの表通りから外れた裏通りに「カレーライスあり」との看板が出ていたレストランがあった。面白そうなので入って見れば、本格的なインドカレー風のカレーだった。食べ終わってキャッシュレジスターの所にいた女性に勘定をしに行くと”Are you Chinese?“と訊くので勿論”No, I’m not.”だ。次は”Korean?“と来たので否定した、すると、何と日本語で「何だ。日本人だったの。珍しい。こんな裏まで入ってきてチャンと英語で注文する以上、日本人ではないと思った」、と言うのだった。色々解釈ができる言い方だが、如何にも自虐的ではないのか。
1975年春にシアトルのデパートの1階を三菱商事のシアトル支店に駐在していた従兄弟と2人で歩いていたときのことだった。回廊式になっている2階から現地人の男の子が”Look at that mommy. Two Chinese are walking, downstairs.“と叫んだのだった。若い母親が慌てて制していた。だが、従兄弟は慌てず騒がず「こういうことは未だ良くあるので」とサバサバしていたのにはかえって驚かされた。あらためて「そういうことなのかな」と考えさせられた。
ここで一寸遡って1970年に生まれて初めて海外に出て台湾に入ったときの経験を。私は現地の台湾の内省人たちに「貴方の顔付きは、世界中何処に行っても間違いなく外省人と看做されるだろう」と言われて落胆していると、これは貶しているのではくて褒め言葉だと聞かされて、一層落ち込んだのだった。そして、その言葉通りにアメリかでは何度も中国人と思われたし、空港などでゲートから到着ロビーに出るや否や、中国人と思しき人が飛んできて何か喚かれたことが何度もあった。矢張り外省人と思われたのだった。
ここまで、余り思い出したくない経験談を並べてきたが「何だ、30年以上も昔のことじゃないか」などと言うなかれだ。私はこの中国人と看做される事態は余り変わっていないと思っている。21世紀に入ってから上海で英語で話していたところ、レストランの若いウエイトレスにてっきり中国系アメリカ人だと思ったと言われてしまった。要するに、アメリカやヨーロッパの人たちには我々と、中国人、韓国人の見分けなど出来ないので、十把一絡げで最も沢山進出している中国人だと思うようなのだ。
言いたくはないが、英語や日本語による海外への我が国自身に関する情報の発信が少な過ぎることと、我が国から敢えてアメリカ大陸やヨーロッパに進出乃至は移住して一旗揚げようという人たちが最早少ないので、我が国は21世紀の今日でも「知られざる国」であり続けているのだと危惧しているのだ。確かにトヨタ、ソニー、ホンダとうは遍く知られている。だが、良く言われていたように、例えば、ソニーはアメリカの会社だと思っている人たちには何度も出会った。だが、これを嘆くのは早いと思う。
我々がアメリカ人、カナダ人、イギリス人(敢えてUK人とはしない)、スコットランド人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、パレスチナ人等々の見分けがつくかということ。私が顔付きと服装で見分けがつくのはアメリカ人だけだ。こう言って少しは慰めになるかも知れないが、我が国にとって必要なことは「可及的速やかに、知られざる日本状態から脱却する努力を積み重ねること」だと思う。何時までも中国人と看做されることが、褒められたことであってはならないのではと思うのだ。