新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月12日 その2 中国は白昼堂々と

2020-03-12 15:21:20 | コラム
中国とUNとWHOの関係:

中国のこれまでの歴史における数々の悪行というか、悪知恵というか、悪辣というか、狡猾とすべきか知らないが、我が国に対してのみではなく方々の国で仕掛けてきたことは、高山正之氏が週刊新潮に連載しておられる「変見自在」に余すところなく記述されていると思って毎回読んでいる。だが、ここに記されているのは過去のことであって、習近平主席が独裁を開始してからの事までには至っていない。私は中国は習主席が君臨するようになってからは、以前よりも規模が大きく且つ限りなく野心的になってきて、世界制覇の野望を白昼堂々と見せていると看做している。

特に露骨な点は「何事も金で片付けようとする方針で、その手口はあからさまにアフリカの低開発国に顕著に表れている。そして5G問題が脚光を浴びるのと変わらない速度で、一帯一路をヨーロッパの経済的に不安定な諸国に持ちかけた。そして現在急速にコロナウイルスの感染が広まりつつあるイタリアがその典型的な困った例のようである。ところが、習主席の手法はそんなところで終わりにせず、UNのこれというポジションに金に飽かして中国人を送り込んでいるだけに飽き足らず、WHOのテドロス事務局長を自家薬籠中のものにして、あからさまに中国寄りの決定や発言をさせているのだ。

その「白昼堂々」と言うかあからさま例として挙げられるのが、先頃のテドロス事務局長の懸念材料とする4ヶ国の中には中国が入っていないのみならず、その対処法を礼賛し、返す刀で我が国をも懸念材料にしてくれたのだった。中国はそこまでに止まらず、今度はWHOに2,000万ドルの寄付をしたのである。それを受けるWHO(なのかテドロス氏なのか知らないが)も白昼堂々を適用したいくらいだ。我が国はそれほど偏向し切っているアンフェアーなWHOを未だに信用している感があり、「WHOがこう言った」などと引用する姿勢は如何にも甘過ぎると断ぜざるを得ない。

私に不思議に思えてならないことは、これほど中国が傍若無人に振る舞っていても、世界の何処からも真っ向から「テドロス事務局長不信論」が出てこないことだ。我が国の間抜けマスコミなどは昨日のテドロス事務局長の意味不明なパンデミック宣言などをそのまま何らの注釈も付けずに報道し、批判はゲスト解説者の任せする無責任振りも今に始まったことではないが、見識が全く欠如している。これまでに真っ向からテドロス更迭論を唱えたのは産経新聞だけという弱腰だ。私の記憶に誤りがなければ、トランプ大統領も何もTwitterで触れておられない。まさか、習主席に気兼ねしておられるのではないだろうな。

クドクドと述べてきたが、私が言いたいことは「我が政府はUNとアメリカに真っ向からUNとWHO不信論を伝え、習近平主席の振る舞いに対してクレームの申し入れをすること」だ。「このコロナウイルスの全世界での蔓延の状態を見るときに、テドロス如き人物に制圧の大事業を任せておいてはならない」と、UNどころか全世界に働きかけて何が悪いのかと、私は考えている。テレビに登場された専門家の一人は「テドロス氏は英語を母国語していないので、不明瞭なパンデミック宣言になったのだ」などと解説されたが、問題は言葉ではないのだ。彼の責任感と倫理の問題だ。


春の選抜高校野球の開催中止

2020-03-12 09:03:13 | コラム
毎日新聞社と高野連の中止の決断に思うこと:

高校球児って何のことだ:

一般的にと言うかマスコミは「球児」を野球に限定しているようだし、恐らく誰しもが「高校球児」と聞けば、純真無垢な高校の野球部員のことだと理解するだろう。だが、私はこんな偏見はないと思っている、この世には「蹴球」もあるし「籠球」もあるし「排球」もあれば、古くは「鎧球」という名称すらあった。お解りでない方の為に解説しておけば、これは「アメリカンフットボール」のことである。これらの「球」の字が付く競技(球技)がありながら、如何なる根拠で「球児」を野球に限定するのか。不公平だ。

精神主義の時代は終わっている:
11日の「報道1930」では、私が日頃その発言を高く評価している自民党の新藤義孝議員が選抜高校野球の開催中止を捉えて「日頃、血を吐くような練習をして来た野球部員たちが気の毒だ」との趣旨の発言をされた。遺憾ながら甚だ陳腐であり、前世紀の遺物のような野球観だと断じたくなった。野球という球技の世界では未だにこのような部員たちを絞り抜く練習を積むことが肝腎だと思っている指導者がいるようだが、最早そういう時代は終わっている。新藤氏がそういう古き認識でおられるのは非常に残念だった。

私が知る限りでも、何も野球界だけに限ったことではないが、我が国では上から下まで「血を吐くような練習」が尊ばれた時代が長く続いた。即ち、我が国独得の精神主義が支配していたのだった。苦しい練習こそが上達への道だったし、かの我が国最初の三冠王となった落合博満氏は「練習なんて人の見ているところでやるものじゃない」と断言した。かの長嶋茂雄氏は立教大学時代に砂押監督の猛練習によって鍛え上げられたので、これこそが一流選手への道だと確信し、監督となってからは選手たちを非常に厳しく鍛え上げたそうだ。

その思想と対極にあったのが、残念ながら先頃亡くなった故野村克也氏だった。彼は南海ホークス時代にMLBから来たドン・ブラッシングゲームにアメリカ式合理的な練習法とベースボールを教え込まれて、監督就任後も選手たちをアメリカ式を採り入れた指導法で育てていったのだった。私はこれまでに何度か「トレーニングの方法という点では、野球が我が国で最も遅れている」と酷評してきた。それは取りも直さず「精神主義から脱出出来てない」という意味だ。あるジムのトレーナーは「我が国で最もトレーニングの手法が進んでいるのは、未だにマイナースポーツの域を出ていないアメリカンフットボール」と断言した。

何故、精神主義の時代が続いたのか:
週刊新潮3月12日号に非常に興味深い佐藤勝氏と奈良の興福寺老院・多川俊映氏の対談があった。多川氏は法相宗の「唯識」を語られた中で、その最初の修行法である「堂参」を解説しておられたので、少し長くなる外用してみる。

>引用開始
「朝早く起きて、20ほどあるお堂を勤行しながら回り、終われば掃除、掃除が終わればまた掃除です。非常に地味で楽しみもない。それを10年くらいさせて様子を見ます。初めは真面目でも長くやっていれば、どこかでボロが出てくる。だから10年勤めあげれば、まあまあやれるかかな、ということですね。その次が「竪義」という口頭試問を行います。(以下略)」
<引用終わる

私は堂参の10年には驚かされたが、そこで思い出したのが故酒井阿闍梨が成し遂げられた「千日解放行」だった。その内容を今ここで云々する気はないが、私には「修行僧を厳しい物理的な修行で限界まで追い詰めて、何かを悟らせる手法か」と思わせられた。私のような俗物にはその極限というか限界まで達した先に何が見えてくるかは想像も出来ないが、野球の練習に屡々見られるやり方が、その修行法に学んだのではないかと思わせられる精神主義が見えてくるように思えるのだった。

私が20年以上もの間働いていた合理主義のアメリカのビジネスの世界には、精神主義のような考え方は、もしかすると薬くらいにはなるかなと思わせられる程度にしか存在していなかった。簡単に言えば「精神一到何事か成らざらん」とは考えないということだ。目的達成の為には如何なる段階を踏んで攻めるかを理屈で考えて、方法論を組み立てていくのだった。スポーツの世界にも勿論精神主義はなく、言うなれば「如何にして短時間の全体練習で、最高のテイームを作り上げるか」を考えているのだと聞かされていた。

アメリカ式の手法:
根本にある思想は「各人の自覚に任せておく」という考え方だと思う。簡単に言えば、コーチたちはトレーナーの意見を入れて各選手はそのポジションに最適な身体を作る為にはどのような「ウエイト」を含むトレーニング方法を教え込み、それを自分でそれこそ毎日続けてから全体練習に参加させるという、各人の自主性を尊重した練習法を課しているのだ。その宿題が出来ていなければ、自動的にレギュラーメンバーから脱落するだけの解りやすい方式だ。余計なことを言えば、我が国の野球に見られるように「監督が選手の打撃指導をする」などは夢にも考えられない世界だ。

野村克也氏は「MLBの野球は体力と体格に任せた大雑把なものだと思っていたが、ブラッシングゲームに教えられたアメリカ式は全く異なっていた」と述懐していた。野球の専門家に「そんなことは承知している」と言われそうだが、先日NHKのBSで見たアメリカの大投手、ランディ-・ジョンソンが少年野球を指導した際に「投手が一塁ベースのカバーに入って送球を受けるときには右足でベースの内側を必ず踏む」を繰り返し教え込んでいた。基本中の基本に見えるが、少年たちは誰一人としてそうすべきだとは知らなかった。これなどは些細な例だ。私流に言えば「文化の違い」だ。

私はアメリカ人たちの合理性と20数年間付き合ってきたのだが、屡々その息が詰まりそうな合理性というか、報告書などには「ここは言わなくとも解ってくれるだろうなどとは考えずに、そこまで細部にわたって記述しておかねばならないのか」とウンザリさせられたほど、所謂”detail“の省略は許されなかった。彼等は絶対と言って良いほど「言わなかったこと」や「書かれていなかったこと」を推察してくれることはしないのだ。だから、私は毎日のように如何なる事でも報告書にして残して置いた。

選抜高校野球の開催中止:
ある専門のお医者様は「中止したことは医学的に見ればほぼ無意味だが」と切り出した後で「現在のような緊急事態の下にあっては中止の決定もあり得る」という表現だったのが最も印象的だった。私は「球児が気の毒だ」という類いの精神主義には与さないが、毎日新聞社も高野連も政府の自粛の要請と多くの競技大会が中止また延期となっている「空気」に圧されたのではないかと思って見ている。この決定は私が常に言う二者択一であるのだから、昨日になって議論を百出させるよりも、1週間前に「イェスかノーか」を決断出来ていたのではと思うのだ。

だが、ここは文化を異にするアメリかではないのだから、そこはズバリとは割り切れなかったのだろう。さぞかし大変だっただろうとは解る。だから「球児たちが気の毒だ」と言うのか。