新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月30日 その2 COVID-19に思うこと言いたいこと

2020-03-30 14:11:59 | コラム
新型コロナウイルスに思うこと言いたいこと:

国立国際医療研究センター病院(NCGM):
志村けんという方がここで亡くなったことが、テレビのニュースの画面で知った。新型コロナウイルスに感染して重症の肺炎を起こされたとは聞いていたが、その訃報には私には他人事人とは思えないのだ。特に70歳だったと聞いては、87歳の当方はあらためて危機感をひしひしと感じている。ご冥福を祈りたい。実は、その志村さんが亡くなったと報じられた病院には、私は彼が他の病院から転院されたという今月の23日には、定期検査を受けに行っていたのだ。

もう公表しても良いと思うが、その際に気が付いたことは、正面玄関が二つに別けられていて、言わば奥の方には「37.5度以上の発熱の方云々と、掛かりつけの医院乃至はクリニックの紹介状をお持ちの方のみ」と掲示されて、言うなれば発熱外来の受付のようになっていて、一般の外来の建物には入って行けないようになっていた。報道によれば、こういう感染者を受け付ける病院は都内に数多くあるが、何処の病院がそうであるかは公表されていないとあった。だが、当然のことだと思うが、NCGMはその一つだったのだ。

この病院には所謂「一見さん」は受け付けられず紹介状が必要になるが、私は2006年1月に第1回目の心筋梗塞を発症した際に救急車が運んで下さったので、それ以来お世話になれている次第だ。私が診て頂いている循環器内科の外来の診察室の前には、どちらかと言えば小さな紙が貼られていて「当病院には感染症専門医がいるし、病床も十分に準備してあるのでご安心を」と表示されていた。私は、従来からかかっている患者は受け入れるという意味だと思って読んだし、同時に万が一の場合には受け入れて頂けるのだろうと、少し安心して帰宅した。

臭覚と味覚を失う:
阪神タイガースの藤浪晋太郎投手がこの点を球団に申告してPCR検査を受けた結果で陽性と判明し、その旨を公開するよう球団に願い出たということは、評価して良いと思う。私がここに採り上げたいことは、その藤波の勇気ではなく、臭覚と味覚を失っていたことについての経験を語ってみたいのだ。18年の9月頃だったか、日常的に鼻水が出るし、朝から晩まで鼻をかんでいなければならない状態になった。そして愚かにも、以前に「アレルギー性鼻炎」との診断を聞いたことがあったので、てっきりその際発だと決めつけて、掛かりつけのクリニックで点鼻薬を出して頂いていた。

そうこうするうちに気が付いたことがあった。それはデパートの手洗いでも、JRの駅の手洗いに入っても、何の臭いもしないことしか感じないので「我が国の公衆便所も清潔になったのだろう」と気楽に考えていた。だが、そのうちに何を食べても何の味もなくて、何だか美味くないとしか感じられなくなってきたのだった。外出する際には、ポケットテイシュを2~3包みもポケットに押し込んでおかねばならなくなった。その頃に不注意にも自宅で転んで後頭部を強く打ったので、念の為に掛かりつけにクリニックでCTの検査をお願いした。

結果は意外なことで、S医師から「頭は大丈夫だったが、蓄膿症がある」と宣告されたのだった。そして提携されている耳鼻咽喉科の医院を紹介されて即刻飛んでいった。そこでの診断は「重症ではないがCTの写真の通りの蓄膿症」と診断された。長々と述べてきたが、怖いことは「今になって私が臭覚と味覚を失えば、真っ先に思うことは蓄膿症であって、新型コロナウイルスに感染したとは思上手い。先ずは蓄膿症の再発かと思って放置するか、また同じ耳鼻咽喉科の医院に行くだけだろう。藤波君の勇気がなかったら、その程度の知恵しか働かなかったと思う。

恐ろしいことは、藤波君の例があって始めて中国でそういう症例があったとか、ドイツだったかでもそういう患者が出ていたという話が出てきたことだ。このウイルスの感染が始まった後の事で、、言ってみれば後出しジャンケンのような感染症の専門家の対応には、大いに疑問を感じる。今になって「そういう症例があったとは承知していた」という惚けた対応はないと思う。後手後手や継ぎ足し方式は、何事に対する対応でも遅い嫌いがある政府だけに任せておいて欲しい。


カタカナ語の排斥論者は憤慨している

2020-03-30 08:30:59 | コラム
小池都知事も何故「所謂」を付けてカタカナ語を使うのか:

私には全く理解できないことは彼らが「所謂オーバーシュート」と「所謂ロックダウン」という表現を使うことだ。私は現在のような緊急事態にあって、このような結局は意味不明な方カタカナ語を使う必然性は全くないと指摘してある。もしかして、専門家会議の尾見副座長がカタカナ語(紛い物の英単語)を使われたから、権威者に対するお追従で使っているのであれば、一般の視聴者や国民を混乱させるので、もっと罪が深いと思う。即刻止めるべきだ。

私はアメリカの教養がある知人のMBAの女性に尋ねて、下記のように“overshoot”と“lockdown”の使い方というか意味の解説を伝えておいた。それを読んで頂ければ一目瞭然で「オーバーシュート」は「感染者の爆発的増加」の意味ではなく、「ロックダウン」も“blockade”よりは「都市封鎖」に近いとなっていると理解できるではないか。まして、小池都知事が何を思ったか頭に「所謂」を付けたのをメデイアまでが真似る意味などないと断じる。未だに(誤りでも)カタカナ語を使うと、知性的だとか英語を良く知っているとでも思われるとでも鱈っているのか。とんでもない誤解だ。。

>引用開始
“overshoot”とは、ある一定の目標がある事を示している。「オーバーシュート」はその目標値を通り過ぎるか、超えてしまうことを意味する。私にはその副座長さんは何らかの新型コロナウイルスの感染者の数を想定しておられ、感染者の数がそれを超えた場合を「オーバーシュート」と言われたので、その際には人々に「家から出ないで、健康を維持して」と言いたかったのではないか。

ここワシントン州では健康管理、消防士、救急車の要員、救急救命士、育児等の緊急を要する職に就いている人たち以外は、テレウワーキングをするか、または外出しないようにと要請されている。レストラン、バー、多くの店舗は閉鎖されているが、食料品店と薬局は営業している。

この状況は正確に言えば“lockdown”ではない。だが、他人と接触しないようには要請されている。しかしながら、私は現実的には「ロックダウン」の方が“blockade”より適切だと思う。即ち、これの方が国境閉鎖か人々をその国から締め出すという響きがあるから

<引用終わる

終わりに、敢えて漢字の熟語の解説までしておくと、深く考えるまでもないことで「所謂」とは「世間で言われている。俗に言う」と広辞苑にある。誰が「オーバーシュート」や「ロックダウン」と俗に使っていると言うのか。好い加減におかしなカタカナ語を忘れろ。