新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月10日 その2 催し物の自粛は

2020-03-10 14:20:32 | コラム
政府は要請しただけだった:

総理のあの意を決した要請以来、各方面での公演や興行の自粛が続いている。その多くは「無観客」であるようだ。私は昨日、リモコンの操作を誤って相撲にチャンネルを合わせてしまった。そこに展開されていたのは見慣れない光景で、初めて観客がいない桟敷とはこうなっていたのかと知ることが出来たし、如何なる小さな音でも反響してしまうと言うか、マイクが拾ってしまうのも異様に思えて斬新な経験だった。興行としては採算も何もない赤字覚悟で打って出たのかと思わせてくれた。それが相撲を何処までも好んでおられる方々の為なのか、力士たちの為なのかは計りかねた。

そこに追い打ちをかけるかのように、JリーグとNPBからシーズンの開幕を延期する旨の発表があった。NPBの場合は既に無観客でオープン戦を展開してきていたし、オリンピックに合わせて3月に開幕を繰り上げていたので、どう処理するのか程度の興味で成り行きを眺めていた。私はこの期に及んでは、少なくともドーム球場で観客を入れての興行には飛沫感染や濃厚接触の危険を伴うろうと思って見ていた。また、何処かで誰かが「皆が自粛している最中に、野球だけはやっている」と皮肉を言っていたのが応えたのかなと思って、延期の発表を聞いていた。

そこで、既に無観客での開催を一応発表し明11日まで最終決定を延ばしてきた春の高校選抜野球が取り残された格好になった。ここでの障害というか厄介な存在が、かの高野連である。いや、尊いアマチュア野球と言った方が良いかも知れない。野球界ではもう何十年前になったか記憶もないが(検索すれば解ると思うが)嘗て「柳川事件」というのがあって、中日だったかが美しいアマチュアの社会人野球の日本生命から事前の了解無しに柳川という選手を引き抜いた為に、社会人側は今後はプロの世界とは一切の縁を切り、選手の交流を認めないと宣言してしまった。

要するに、戦前は職業野球と呼んでいた野球を生業とする集団を恰も賎業のように看做してきたアマチュア野球界が、職業野球に絶縁状を突きつけたのだった。私はその清く正しく美しいアマチュア野球の頂点に位するのが、高校野球だと看做してきた。私はその余りの鬱陶しさにアマチュアとプロフェショナルの間に具体的に如何なる制約があるかは知らないが、NPBの経験者は高校野球を含めてアマチュアの指導を許されずに、長嶋一茂が父親とキャッチボールも出来ないと嘆いたのを聞いた記憶がある。

その高野連が明日には具体的に如何に自粛するかの最終決定を下すそうだ。現実的に考えれば、主催する毎日新聞社は入場料収入はなく、所謂グッズなる商品も販売出来ずに、甲子園球場の賃貸料やグラウンドの整備費等を負担するのであるから、採算がどうのという事態は既に度外視されているのだ。それに加えて、NPBが開幕延期というのであれば、その総理の要請に応えた精神に倣って、中止すると想像したくなるのが普通だろう。

だが、私は清く正しい高校球児が澄んだ瞳を輝かして、苦しい練習を積んできた成果を見せる大会を中止しては、教育の一環であると主張してきた高野連の精神に反するので、決行すると踏んでいる。しかし、ここに私独得の「閃き」というがあって、そこには相矛盾する「世間一般の自粛ムードには逆らえずに中止」と出ているのだ。何れにせよ二者択一であるので、当たる確率は50%なので、高野連が何れを採るかを興味深く見守っていこうと思っている。

ここに残る明らかな問題点は、経済面というか採算が取れないということだ。先ほど何処かのテレビ局のゲストが言っていた事は「ある程度以上の規模の会社であれば、その体力というか財力で自粛に耐えられるだろうが、中小の興行主はバタバタと倒れていくかも知れない」だった。誰にでも見える先行きだが、総理は予算措置を講じると言っておられた。それを頼りに催し物を開催するか否かは、完全に二進法で判断するしかないのだ。だが、これは私流に言えば「八百万の神」がおわします我が国では、容易に決断出来る相談ではないのだ。問題点は高野連が如何なる判断の基準を用いるかではないか。

私は現在の情勢では、何も高野連に限ったことではないが、何らかの判断を下すに当たって色々な考え方が出てくるとは思う。だが、その大前提的な基準として使うべき事は「その決定が新型コロナウイルスの現状以上の広範囲の感染を食い止めることに効果があるかないか」の一点に絞ることだと思う。その決定を「唐突」だの「事前の相談がなかった」などと言う輩には「貴方はこれ以上のウイルスの蔓延を食い止めるのと、貴殿にも感染するかも知れない危険性を秘めた催し物の開催の、何れをお好みですか」とでも言ってやれば良いと思っている。

我思う、故に我あり

2020-03-10 09:19:35 | コラム
物思うことが多い時だ:

今回は如何なる件名にしようかと悩んでいたら、ふと学生の頃の最も不得手としていた哲学で教えられたデカルト(Rene Descartes)「我思う、故に我あり」が、それもラテン語で”Cogito ergo sum“となっていることまでが思い浮かんできたので、これにしようと決めたのだった。

新型コロナウイルスの感染で、リーマンショックよりも景気は悪化するのでは:
これは、確か嘉悦大学の高橋洋一教授がそう言っておられたとして引用してあったと記憶する。未だに感染の蔓延状態をマスコミが嬉しそうに報じている状況が続いている。私は感染が始まった頃からボンヤリと「この感染が中国や我が国だけで収まっている間は兎も角、何時の日か世界中に拡散されたら取り返しの付かない事態が来るのでは」と想像していたが、「まさか」と思いたくて、そういうことを言わないようにしていた。高橋教授の警告にしても「彼らしいな」と受け止めていた程度だったが、その危険性もあるのかなとは思っていた。

ところが、現実はご承知のようにイタリアを始めとしてヨーロッパでも広範囲に感染が広がり、早期に中国からの流入を制限したアメリカでも東西両海岸で感染者が出てきてしまった。これは容易ならざる事態かと思って見ていると、昨日ではニューヨーク株式市場で相場の暴落が始まってしまった。現在の世界各国の中で最も好景気を誇っていたアメリカがこういう状況になってしまえば、「実体を一向に詳らかにしない中国の経済などは」という恐れに取り憑かれてしまう。習近平は自国と世界の危機を何処までお解りなのかと疑っている。

我が国では安倍総理を先頭に懸命にウイルスと景気の低迷の防止対策を講じておられるが、世界の状況がここまでに至ってしまえば、野党とマスコミ連合が後手後手だの唐突だのと揚げ足を取っては内閣を貶めていて済む事態ではないのは明らかだ。私は元より安倍内閣を支持する側に立ってつもりだが、多くの対策が継ぎ足し、継ぎ足し的であることは否めないと思う。事ここに至れば「予算の予備費」程度では済まない事態に陥りそうなのだから、財政的にはもっと投網を広く打っておくような措置が必要だと思うのだ。

専門家会議とは:
先ずは「専門家」とはどのような方を指しているのかと考えて見たい。私は以前に「専門家とはスポーツの評隣家のような存在ではないのか。その方々はそのご専門の分野を学問としては広く深く極められたのは間違いないが、実際にはグラウンドかフィールドに立って球を蹴ったり、投げたりあるいは打ったりされた経験はお持ちではないが、その蓄積された見識で評論をしておられるのだ」と述べたことがあった。しかも、世間というかマスコミには「最高乃至は一流の権威者」として認識されているのだ。

この度の新型コロナウイルスの感染が発生するや、マスコミは疫学、医学、防疫学がご専門の大学教授、元国立感染症研究所員、各種の権威ある委員会の主要会員等々をお招きして、色々とご意見を承っていた。そして、ウイルスの感染問題などを知らない一般人には有益な知識を与えて頂けたが、時には不安材料も提供されていた。だが、上記の私の専門家論から見れば、現実にピッチやグラウンドに立って試合をやっておられるのは、大谷義夫医師だけのように思えてならないのだ。

私は政府が依存しておられる(のか否かは不明だという気がしないでもないが)専門家会議では尾見という先生しかご尊顔を拝していない。と言うことは「もしかして、優れた評論家の集まりであって、実際に現実の世界でプレーしてこられた方は少ないのではないのか。または、実際に一国の命運を左右するような重大な決定に携わってきたご経験があるのだろうか。」とお尋ねしたくなるのだ。総理がこれまでに下してこられた決断は「この患者への手術の方式はこれで良いのか」との決定とは違うような気がするのだ。総理の判断が「唐突だ」の「聞いていない」などと苦情を言っている場合かと思えてならならない。

中国とWHO:
敢えて「胡散臭い間柄では」と言って置くが、中国は事ここに至るや否や、形振り構わずにWHOに21億円もの寄付をしたというではないか。かのテドロス事務局長も形振り構わずに中国のウイルス対策を賞賛し感謝し続けている。私はここまでやってのける中国を批判するよりも「そこまでやるか」と感心せねばなるまいかとすら思っている。常に性善説を信奉し、フェアープレーで事に当たってきた我が国には到底不可能な芸当である。だが、今や感心している場合ではない。中国とテドロス事務局長を何らかの手段で打つべきではないのか。トランプ大統領が今日まで手を打たれないのも不思議だ。

性善説:
私は我が国民はその性善であり、決して大衆の面前で悪事を企むことなどないと信じてきた。アホだった。あの静岡県議の諸田とかいう虚け者が出てくるに及んで、認識を改めねばなるまいと思った。奴はシレッとして「転売ではない」などとぬかしたが、問題はそんな些末なことではない。道義的にどうかという視点で見るべきだ。私は静岡県議会が沈黙しているのが不思議でならない。諸田は自営の会社の社長を辞任して県会議員は辞めないというが、反対ではないのか。税金で生活していた者が、マスク不足に付け込んだ罪悪は刑事・民事の双方で裁かれるべきだ


それにつけても情けないのは未だに中国人にマスクを買い占められていたり、販売店に僅かに入荷するトイレットペーパーを争いあって買っていく浅ましさが。幾ら政府が在庫は十分にあると伝え、メーカーに供給は心配ないと言わせても、群がって買う群集心理だ。「デマ」なるものはスマートフォンを通じて拡散されているようだが、不幸にしてそれを持っておらず、トイレットペーパーの供給不足など考えたこともなかった当方は「何故店頭から消えるのかな」と訝ってみていた程度の危機感の欠如だった。でも、性善説を信じているので、スマートフォンなど買う気はない。