政府は要請しただけだった:
総理のあの意を決した要請以来、各方面での公演や興行の自粛が続いている。その多くは「無観客」であるようだ。私は昨日、リモコンの操作を誤って相撲にチャンネルを合わせてしまった。そこに展開されていたのは見慣れない光景で、初めて観客がいない桟敷とはこうなっていたのかと知ることが出来たし、如何なる小さな音でも反響してしまうと言うか、マイクが拾ってしまうのも異様に思えて斬新な経験だった。興行としては採算も何もない赤字覚悟で打って出たのかと思わせてくれた。それが相撲を何処までも好んでおられる方々の為なのか、力士たちの為なのかは計りかねた。
そこに追い打ちをかけるかのように、JリーグとNPBからシーズンの開幕を延期する旨の発表があった。NPBの場合は既に無観客でオープン戦を展開してきていたし、オリンピックに合わせて3月に開幕を繰り上げていたので、どう処理するのか程度の興味で成り行きを眺めていた。私はこの期に及んでは、少なくともドーム球場で観客を入れての興行には飛沫感染や濃厚接触の危険を伴うろうと思って見ていた。また、何処かで誰かが「皆が自粛している最中に、野球だけはやっている」と皮肉を言っていたのが応えたのかなと思って、延期の発表を聞いていた。
そこで、既に無観客での開催を一応発表し明11日まで最終決定を延ばしてきた春の高校選抜野球が取り残された格好になった。ここでの障害というか厄介な存在が、かの高野連である。いや、尊いアマチュア野球と言った方が良いかも知れない。野球界ではもう何十年前になったか記憶もないが(検索すれば解ると思うが)嘗て「柳川事件」というのがあって、中日だったかが美しいアマチュアの社会人野球の日本生命から事前の了解無しに柳川という選手を引き抜いた為に、社会人側は今後はプロの世界とは一切の縁を切り、選手の交流を認めないと宣言してしまった。
要するに、戦前は職業野球と呼んでいた野球を生業とする集団を恰も賎業のように看做してきたアマチュア野球界が、職業野球に絶縁状を突きつけたのだった。私はその清く正しく美しいアマチュア野球の頂点に位するのが、高校野球だと看做してきた。私はその余りの鬱陶しさにアマチュアとプロフェショナルの間に具体的に如何なる制約があるかは知らないが、NPBの経験者は高校野球を含めてアマチュアの指導を許されずに、長嶋一茂が父親とキャッチボールも出来ないと嘆いたのを聞いた記憶がある。
その高野連が明日には具体的に如何に自粛するかの最終決定を下すそうだ。現実的に考えれば、主催する毎日新聞社は入場料収入はなく、所謂グッズなる商品も販売出来ずに、甲子園球場の賃貸料やグラウンドの整備費等を負担するのであるから、採算がどうのという事態は既に度外視されているのだ。それに加えて、NPBが開幕延期というのであれば、その総理の要請に応えた精神に倣って、中止すると想像したくなるのが普通だろう。
だが、私は清く正しい高校球児が澄んだ瞳を輝かして、苦しい練習を積んできた成果を見せる大会を中止しては、教育の一環であると主張してきた高野連の精神に反するので、決行すると踏んでいる。しかし、ここに私独得の「閃き」というがあって、そこには相矛盾する「世間一般の自粛ムードには逆らえずに中止」と出ているのだ。何れにせよ二者択一であるので、当たる確率は50%なので、高野連が何れを採るかを興味深く見守っていこうと思っている。
ここに残る明らかな問題点は、経済面というか採算が取れないということだ。先ほど何処かのテレビ局のゲストが言っていた事は「ある程度以上の規模の会社であれば、その体力というか財力で自粛に耐えられるだろうが、中小の興行主はバタバタと倒れていくかも知れない」だった。誰にでも見える先行きだが、総理は予算措置を講じると言っておられた。それを頼りに催し物を開催するか否かは、完全に二進法で判断するしかないのだ。だが、これは私流に言えば「八百万の神」がおわします我が国では、容易に決断出来る相談ではないのだ。問題点は高野連が如何なる判断の基準を用いるかではないか。
私は現在の情勢では、何も高野連に限ったことではないが、何らかの判断を下すに当たって色々な考え方が出てくるとは思う。だが、その大前提的な基準として使うべき事は「その決定が新型コロナウイルスの現状以上の広範囲の感染を食い止めることに効果があるかないか」の一点に絞ることだと思う。その決定を「唐突」だの「事前の相談がなかった」などと言う輩には「貴方はこれ以上のウイルスの蔓延を食い止めるのと、貴殿にも感染するかも知れない危険性を秘めた催し物の開催の、何れをお好みですか」とでも言ってやれば良いと思っている。
総理のあの意を決した要請以来、各方面での公演や興行の自粛が続いている。その多くは「無観客」であるようだ。私は昨日、リモコンの操作を誤って相撲にチャンネルを合わせてしまった。そこに展開されていたのは見慣れない光景で、初めて観客がいない桟敷とはこうなっていたのかと知ることが出来たし、如何なる小さな音でも反響してしまうと言うか、マイクが拾ってしまうのも異様に思えて斬新な経験だった。興行としては採算も何もない赤字覚悟で打って出たのかと思わせてくれた。それが相撲を何処までも好んでおられる方々の為なのか、力士たちの為なのかは計りかねた。
そこに追い打ちをかけるかのように、JリーグとNPBからシーズンの開幕を延期する旨の発表があった。NPBの場合は既に無観客でオープン戦を展開してきていたし、オリンピックに合わせて3月に開幕を繰り上げていたので、どう処理するのか程度の興味で成り行きを眺めていた。私はこの期に及んでは、少なくともドーム球場で観客を入れての興行には飛沫感染や濃厚接触の危険を伴うろうと思って見ていた。また、何処かで誰かが「皆が自粛している最中に、野球だけはやっている」と皮肉を言っていたのが応えたのかなと思って、延期の発表を聞いていた。
そこで、既に無観客での開催を一応発表し明11日まで最終決定を延ばしてきた春の高校選抜野球が取り残された格好になった。ここでの障害というか厄介な存在が、かの高野連である。いや、尊いアマチュア野球と言った方が良いかも知れない。野球界ではもう何十年前になったか記憶もないが(検索すれば解ると思うが)嘗て「柳川事件」というのがあって、中日だったかが美しいアマチュアの社会人野球の日本生命から事前の了解無しに柳川という選手を引き抜いた為に、社会人側は今後はプロの世界とは一切の縁を切り、選手の交流を認めないと宣言してしまった。
要するに、戦前は職業野球と呼んでいた野球を生業とする集団を恰も賎業のように看做してきたアマチュア野球界が、職業野球に絶縁状を突きつけたのだった。私はその清く正しく美しいアマチュア野球の頂点に位するのが、高校野球だと看做してきた。私はその余りの鬱陶しさにアマチュアとプロフェショナルの間に具体的に如何なる制約があるかは知らないが、NPBの経験者は高校野球を含めてアマチュアの指導を許されずに、長嶋一茂が父親とキャッチボールも出来ないと嘆いたのを聞いた記憶がある。
その高野連が明日には具体的に如何に自粛するかの最終決定を下すそうだ。現実的に考えれば、主催する毎日新聞社は入場料収入はなく、所謂グッズなる商品も販売出来ずに、甲子園球場の賃貸料やグラウンドの整備費等を負担するのであるから、採算がどうのという事態は既に度外視されているのだ。それに加えて、NPBが開幕延期というのであれば、その総理の要請に応えた精神に倣って、中止すると想像したくなるのが普通だろう。
だが、私は清く正しい高校球児が澄んだ瞳を輝かして、苦しい練習を積んできた成果を見せる大会を中止しては、教育の一環であると主張してきた高野連の精神に反するので、決行すると踏んでいる。しかし、ここに私独得の「閃き」というがあって、そこには相矛盾する「世間一般の自粛ムードには逆らえずに中止」と出ているのだ。何れにせよ二者択一であるので、当たる確率は50%なので、高野連が何れを採るかを興味深く見守っていこうと思っている。
ここに残る明らかな問題点は、経済面というか採算が取れないということだ。先ほど何処かのテレビ局のゲストが言っていた事は「ある程度以上の規模の会社であれば、その体力というか財力で自粛に耐えられるだろうが、中小の興行主はバタバタと倒れていくかも知れない」だった。誰にでも見える先行きだが、総理は予算措置を講じると言っておられた。それを頼りに催し物を開催するか否かは、完全に二進法で判断するしかないのだ。だが、これは私流に言えば「八百万の神」がおわします我が国では、容易に決断出来る相談ではないのだ。問題点は高野連が如何なる判断の基準を用いるかではないか。
私は現在の情勢では、何も高野連に限ったことではないが、何らかの判断を下すに当たって色々な考え方が出てくるとは思う。だが、その大前提的な基準として使うべき事は「その決定が新型コロナウイルスの現状以上の広範囲の感染を食い止めることに効果があるかないか」の一点に絞ることだと思う。その決定を「唐突」だの「事前の相談がなかった」などと言う輩には「貴方はこれ以上のウイルスの蔓延を食い止めるのと、貴殿にも感染するかも知れない危険性を秘めた催し物の開催の、何れをお好みですか」とでも言ってやれば良いと思っている。