新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月11日 その2 「君たちは何故株を買わないのか」

2020-03-11 15:16:29 | コラム
ニューヨーク株式市場の乱高下に思う:

私が在職中には東京に出張してきた研究所の主任研究員も含めて何人かの本部の者たちに「君たちは何故株を買おうとしないのか。将来に備える意味でも有効な投資ではないか」と言われたものだった。何もこちらに来る者たちに限らず、本社でも工場でも株式投資は盛んだった。また確かに、あの頃の我がW社ジャパンには積極的に投資をしている者が極めて少なかった。

この傾向は「彼等アメリカ人たちは我が国のように貯蓄に励んでいるのではなくて、専ら株式投資による蓄財を図っていること」を示しているのだった。この辺りが我が国の一般的な傾向と大いに異なる点だった。故に、彼等は東京に来ても常にNY市場の動向に注意して、一喜一憂しているのだった。何分にも東京とアメリカ東海岸とは13時間もの時差があるので、相場の変動を追うのも大変だったようだ。だが、彼等は何も株式投資だけに頼っている訳ではなく、実績さえ残せれば年俸に応じた十分な年金も貰えるようになっているのだ。

そこに今週に入ってからは、アメリカでもコロナウイルスの感染者が増加傾向にあり、その不安感からかNY株式市場では相場が乱高下している状態で、円相場まで変動しつつある。そこで思いだしたことは、あの「何で君たちは株式投資をしないのか」と我々に寧ろ詰問するかのように話しかけてきた、往年の上司たちや同僚のことだった。あのDJIの大波を見れば、「彼等が慌てているのではないかな」などと、あの頃のことが懐かしく思わせられてきた。

だが、落ち着いて考えれば、我が国では彼等のことを心配していられるような状況にはないと思うのだ。専門家やエコノミストの方々は色々と予想もされるし、危機感を表明されたりする。しかしながら、現時点のように言わば世界的に感染が広まってしまったのでは、それが収束するまでにどれだけ世界経済、就中アメリカと中国の景気に悪影響を及ぼすかなどは、予測するのも恐ろしい状態になっていきそうではないのか。

ただ、現在の我が家のように極力遠出をせずに、近所だけで買い物を済ませて、人混みの中には出ないようにしていては、現実の街の中の動向などは掴みようがない。当てになるかならないかも解らないテレビ報道くらいしか情報源がないのだ。実は、私は在職中からある程度以上、景気の動静を読む手段としてタクシーの運転手さんたちに「景気は如何」と尋ねて、かなり正確にその変動が読めるので頼りにして来た。

ところで、我がアパートの周囲には新宿区営の公園があって公衆トイレが2箇所もある。その為だけではないと思うが、今月に入ってからは我が家から見下ろせる何本かの道路には数多くのタクシーが路上駐車して、運転手さんたちが昼寝をしている。総理に不要不急の外出をしないようにと要請され、テレワークとやらも始まれば、タクシーの需要が減少するのは当然だろう。すると、そこには不景気の影がハッキリと見え始めたのではと言いたくもなってしまう。安倍総理、お願いしますよ。


あれから9年も経っていた

2020-03-11 11:17:36 | コラム
東日本大震災に思う:

「あれからもう9年か」という思いと「あれは9年も前のことだったか」との二つの感懐がある3月11日だ。未だ仮設住宅で暮らしておられる方がおられるとの報道もあれば、未だ行方不明の親族を探しておられる方ものことを聞けば、こうして安寧に暮らしているのが申し訳ないような気にさえなるのだ。率直に言えば「あの史上初と言っても良いのだろう大災害時に、菅内閣だったのが返す返すも痛恨」なのである。


あの日は最大の取引先だった某大手メーカーのグループ会社で社長を務められた方お二人と、この百人町で昼食会を開催した後で、大久保通りの風月堂の2階の喫茶室で語り合っていた。そこにあの大地震が襲ってきて、居合わせた客の誰かが「地震だ」と叫んだ時にはテーブルの上のコーヒーはこぼれたし、棚の上の装飾品は落下するし、床の上に置かれていた大きな花瓶が音を立てて倒れて割れてしまった。我々3人も一瞬はテーブルの下に隠れたが、そんなことで間に合うような揺れではなく「この建物が崩壊するのでは」との恐怖を感じていた。

結局は、揺れが収まった後では2階にいたお客全員がこわごわ階段を降りて大久保通りに出ていったのだった。直ぐ目の前に見えるJR山手線のガードでは電車は止まっているように見えた。幸いにして2階の喫茶室のガラスも割れて落ちてこなかったし、見渡す限りではこの通りには何ら異常がないようにも思えた。だが、お二方が早速携帯電話で自宅に連絡を試みられたが、既に不通だった。その辺りで「これは尋常ではない災害なのかも知れない」とは思ったが、まさか東北地方であれほどの大災害になっていたとは想像も出来なかった。

すると、お二方の何方だったかはチャンと喫茶室の勘定書きを持って避難されてきたので、先ずは精算をと1階のキャッシュレジスターに向かった。そこで教えられたことが震度7という大地震だったことだったし、支払いに戻ってきたのは我々だけだったという事実だった。あの大揺れの際に伝票を持って脱出された冷静沈着さには恐れ入ったのを覚えている。お二方にとって大変なことになったのはこれから先で、取り敢えず我が家にご案内して家内に状況を聞こうということになった。

ところが、我がアパートは全く無事だったが、3基あるエレベーター止まっており、地震発生後に帰宅した家内は13階まで歩いて上ったというのを敢えて降りてきて貰って状況を聞こうとしたが、未だそれどころではないというのだった。そこでお二方にはエレベーターは何れ動くだろうから、その後で我が家で様子を見ておられたらと薦めたのだが「大したことはあるまい。万一の場合はタクシーでも拾うから」と、それぞれ横浜と八王子に帰って行かれたのだった。

だが、後で判明したことは公共交通機関は全て動いておらず、年長の方はタクシーにも都外には行きたくないと途中で下ろされるといったような困難な目に遭われた後で、翌朝に横浜市まで到着されたそうだった。残る八王子に住んでおられる方は帰宅を諦めて、都内に住んでおられたお嬢さんの嫁ぎ先に何とか辿り着いて、一夜を過ごされたそうだった。我々3人は今でも定期的に昼食会を開催しているが、何故か中々この話題が採り上げられたことは少ないのだ。

私は結局エレベーターの動くのを待ちきれずに歩いて上がったが、87歳の現在ではそんな勇気のある無謀なことには挑戦せず、ただひたすら動くのを待っていると思う。思えば9年前は未だ78歳だったし、2度目の心筋梗塞も経験しておらず、仕事もしていたのだった。ということで、今回は3.11の思い出話だった。