内閣総理大臣という任務の適任者は誰だ:
政治ジャーナリストや評論家や有識者やマスメディアの中でも、半ば公然と「次の総理大臣には誰が最適か」と論じ始められて来たようだ。「さもありなん」と思わせられてしまう。つい先日も一寸取り上げた事で、元自民党総務局長(派閥の局長ではない、念のため)久米氏が「岸田総理の再選は無理でしょう」と言い切り「では次は小石河から」と突っ込まれると「石破先生かな・・・」と言葉を濁しておられた。
こういう言い方もあるが、私が今でも接触できる範囲の世間では「岸田さんを降ろすとしても、次がいないじゃないか。まさか高市早苗氏を推すのか」という意見が最も多いように感じている。確かに、自由民主党には「彼(彼女)こそが次期総理/総裁だ」と期待したし人物は見当たらないと言い切っても大きな誤りではない気がするので困る。私の見方では「小河」は願い下げにしたいのだが。
しかし、心からの意見を言えば「どれ程難しい職位でも、任務でも、誰かをその地位に据えて全責任を与えてやらせてみれば、仕事か職務というものは誰がやってもそれなりに出来るものなのだと解る」と思う。誰が担当しても、その人なりの結果を出せるのであると思う。要点は「その人なりの器量か経験と勉強に基づいて備えてきた実力以上の結果は出てこない」という事。
極論かも知れないが、私は「その人物が予想も出来なかった素晴らしい成果を挙げる事もある」ので、それは、その人物を選んだ読みを誇るべきだろうと考えている。確かに「アッ」と驚くほどの大物にになった例もあれば、「何故その人物にしたのか」と嘆く事もある。だが、その場合は「その人物を選んだ側の責任に帰すべきなのだ」と考えている。
何が言いたいのかだが、要するに「人物の否定的な面を見るのではなく、特徴を見抜いて選んでみる事」だと思うのだ。就任していきなり結果を出せる者もいるだろうし、ある程度の時間を与えれば何かをやり遂げる事もあるだろう。重ねて言うが、その人物にやらせてみるまでは、真の力量の程は分からないのだという事。
有能だと評価して抜擢したが「そこまでの地位に上げると無能レベルに達して、役に立たなかった」という例など幾らでもあるだろう。何となく年功序列で順番が回っただけだと思っていたが、大化けしたという例だったあったではないか。自由民主党内ではグダグダ言っていないで、思い切った人事が必要なときが来ているのではないだろうか。何度でも言うが「やらせてみないと分からない事」はあるのだ。