新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

トランプ大統領式交渉術か

2019-06-26 07:49:21 | コラム
日米安保条約破棄に言及したとか:

私はこのBloombergのニュースを見た瞬間に極めて単純に考えて、彼一流の交渉術というか駆け引きかと受け止めた。即ち、大統領は「片務契約でアメリカ国にとっては不利益だ」と決めつけられたようだが、かの第九条を含む現行憲法を我が国に押しつけたアメリカ側からしたら、先刻ご承知であったはずのことで、今更不利だ損だの得だのと言う視点からアメリカの大統領が言い出すのはおかしいのではないかと、私は言いたいのだ。「片務」と言われるが、私は我が国は集団的自衛権を発動すると言っていたのではなかったのかと、ふと思い出していた。

そこで考えたのだが、専門家やマスコミが何かと言えば「ビジネスマン」と形容したがるトランプ大統領は、私の22年余りのアメリカの大手製造会社に勤務した経験の範囲内では出会ったことがない種類の「ビジネスマン」だということだった。私はこれまでに何人かのアメリカの不動産業界の方とも接触があった。現に、W社第9代のCEO・ジャック・クレイトン氏は別会社になっていた不動産部門から昇格した人物だが、所謂「不動産業界人」の臭いは極めて希薄だった。いや、回りくどいことを避ければ、トランプ大統領のような駆け引きが強い経営者ではなかった。

そこで、この「日米安保条約破棄」は何の「デイール」を引き出す為の圧迫の材料だったのかという辺りを考えて見た。現実問題としては、数多の公約の中で積み残しになっている対日本の貿易赤字問題があるし、間もなく安倍総理との3ヶ月連続の首脳会談が予定されていれば「シンゾーよ、赤字削減策に重要な部分である対アメリカの数百万台もの(?)自動車輸出を手控えないようであれば・・・」と切り出す材料になるだろうかと見えなくもない。また、ライトハイザー代表が懸命に突っ張ってもTAG交渉が進んでいなければ・・・、とも考えられるかなとも思える。

上記は私独自の単純な考え方だが、真剣に我が国とアメリカの関係を考えて見れば、同盟関係をここでアメリカ側から断ってしまおうという方針を打ち出されるのであれば、問題は極めて深刻である。私には虎視眈々と我が国を狙っている隣国・中国があり、何かにつけて我が国に不当な問題というか案件を押しつけてくる韓国もある。北方領土問題もそのままであるロシアも近い。そういう立場にある同盟国である我が国を保護するのが安全保障条約である。それを破棄して貴重な同盟国を失うとすれば、我が国とアメリカにとって何らの利益にもならないと思うのだ。

トランプ大統領は如何なる損得勘定に基づいて側近だか誰だか不詳だが、そういう外部に漏れてしまうようなことに(本当に本気で)言及されたのだろうか。安倍総理は来たるべき首脳会談で可能な限りトランプ大統領の真意を確認して頂きたいものである。アメリカ人の思考体系(物の考え方)には「自分が大事であり、最優先だ」と「二進法的に割り切って決断する」という、我が国とは大いに違う太い柱があることを、再確認しておくべき時かなとも考えている。


6月25日 その2 トランプ大統領の考察

2019-06-25 14:07:27 | コラム
“unpredictable”でも理解出来る気がする:

私はトランプ大統領が採り上げて実行されて来た政治・外交・軍事・経済政策等を貫いているというか支えている根本的な思想というか考え方は「アメリカファースト」であり「アメリカを再び偉大に」であると認識している。その方針の裏付けになっている考え方に「アメリカにとって損か得か」かというマスコミや専門家が屡々形容する「ビジネスマン」としての判断の基準があると思っている。先ほども些か驚かされた「損・得勘定」の表れとしてBloombergが報じた「アメリカにとって得が少ないから日米安保の処分を考えておられる節がある」という考え方をされるのだ。

トランプ大統領は就任以来これまでの大統領が見せたこともなかった「大統領令」(英語は“executive order”なのだが、相変わらず我が国の翻訳専門家の技術は凄いと思う)に署名される場をテレビに映させては「そんなことをなさるのですか」と我々(で悪ければ私)を驚かせてくれていた。そのような斬新にして誰もの意表を突くような思い切った一見何の脈絡もないように見える多くの政策を実行されて来た。そして、その思い切りの良さはこれまでに「アメリカにとっては良い結果」を生じてきていた。

だが、そういう外交・内政の諸々の政策を批判するもは誤りであって、例えば中国を相手に関税賦課合戦から入って行かれた対中国の争いは「今後あの国がアメリカを始めとする自由主義経済であり民主主義を信奉する諸国にとっては極めて危険極まりない存在であり「この機会に徹底的に叩いておかれること」には何ら異論を唱える余地などないのだ。そういう視点に立って考えて見れば、トランプ政治には脈略がないのではなく、「アメリカにとっては極めて有効」であり、その副産物として既存の世界の秩序を覆して行く意図を持って取り組まれたかは疑問であると思っている。

私にはそのトランプ大統領が打ってこられた多くの思い切った手段の陰には、勿論ビジネス界から出てこられた大統領ならではの経済性重視があるにしても、あれほどの思い切りの良さの陰には極めて有能な振付師(辞任したバノン氏のような)が付いているのではないかと何度か考えさせられた。私には現在は振付師が不在なのか、何代目かがお側にいて色々と斬新且つ果断なゲームプランを提示しているのではないかという気もする。だが、今回のイランに対する戦争はしないと言われても、制裁を強化されたように極めて困難で解り難い事態か時代になって行くのかなとしか思えないのだ。

アメリカが何十年間もイランを政治的且つ経済的且つ軍事的にも嫌っている事は、私如きにも理解出来るだけの歴史があり、あそこまで強硬に出て行かれるだけの理由は十分にあると思わせられている。その点は今朝の産経新聞の古森義久氏の解説があらためて「なるほど、そうだったか」と、解りやすかったかと思って読んだのだった。

私にはトランプ大統領がホルムズ海峡で「自国の船は自国で守れ」と言われるのは、今日までの損得勘定に裏打ちされた「アメリカファースト」に発するものだったのだろうと理解出来ると思う。だが、現実的には海上自衛隊なり保安庁の船の派遣を実行するのは難問だろうなと言わざるを得ない気がする。アメリカは自国が産油国になってしまった以上、そう主張されるのかなと受け止めている。

更に言えば、トランプ大統領は「アメリカファースト」を貫かれる以上、イランと事を構えてイランの石油を輸入しないよう関係諸国に求められ、ホメイニ師にまで制裁を科すと決められたのでは、アメリカの立場を貫き通す大目的の前には、他国に多少の火の粉が飛ぶのは止むを得ないと割り切っておられるようだ。でも、その他国の一つに我が国が入っているのは非常に困った事になってくるのではないのか。

昨年の前半に触れたことだが、永年アメリカに駐在されアメリカの政財界の事情に精通し某元財界人と語り合った際に「トランプ大統領は如何に安倍総理と世界で最も親しい間柄であっても、『いざ』となれば、アメリカの国益とご自分の再選を優先されるのであれば、あれほど親密である安倍総理の立場を忘れるかも知れない危険性を感じることがある」という点で意見がほぼ一致してした。私は22年半のアメリカの会社に勤務していた間に「アメリカの政治家や経営者はそういう所をいともアッサリと割り切ることが屡々ある」という類いの経験を何度もしたし見聞したから言うのだ。

私には、繰り返しになるが、トランプ大統領は世界を変えてやろうとしておられるよりも、「アメリカファースト」の実践を優先され、その結果が世界を変えてしまうことも辞さない方針を採っておられるのではないのか見る方が正確ではないのかと思えるのだ。それに、イランを厳しく責め立てられる背景には、アメリカのイスラエルやサウジとの関係を重要視されているのだと見える次第だ。

ここから先は私如きに出来ることは「ジッと固唾をのんで成り行きを見守っている」ことしかないと見える。28日から大阪で開催されるG20が難しくなってくる一方の国際情勢などを解決する場になるとは余り思えないのだ。それにしても、トランプ大統領は何をなさりに韓国に赴かれるのだろう。結果として何が出てくるのかも気になるが、まさか駐韓アメリカ軍の引き上げを悩める文在寅大統領に宣告しに赴かれるのではないだろうな。矢張り、トランプ大統領は“unpredictable”でありながら、時には読みやすい方なのかも知れないと思わせられることもあるか。


「2,000万円蓄えよ」問題に思う

2019-06-25 09:55:44 | コラム
後期高齢者は出費も消費しないのだ:

一昨23日に曽野綾子さんが「故三浦朱門氏がパンツとシャツしか買わないで済むと言うだろう」との件を採り上げたが、それでは、自分は実際にどういう消費生活をしているかを振り返ってみた。すると、今年になってからの半年間にパンツもシャツも靴下も買っていなかったと判明した。ここ数年間で毎月の出費で最大の項目は病院とクリニックの診療費と薬代で、恐らく金額的に次に来るのが、2~3ヶ月に一度の理髪代だと思う。終活ということを頻繁に見聞するようになったが、今更置き場に困るような物は極力買わないように努めている。

余談だが、理髪店は中央区の京橋まで出向いている。それは、これまで25年もの間指名してきた新宿の理容師さんが店の閉鎖に伴って京橋に移籍されたので、偶には東京の中心地の観察に行くもの良いだろうと思って、終了後には銀座の中央通り経由で山手線の有楽町まで歩いて、変わりゆく東京の空気を吸って新宿に住む田舎者感を味合わされている。

30数年前に藤沢の一戸建てからここのアパートに越すことになった時に、家内は知人に「これから先はセーター1着買う時には何か一着捨てるくらいの覚悟がないと、置き場(収納)に困るから要注意」と警告されたそうだが、現在では極めて尤もな事だと痛感しながら暮らしている。

ましてや、この年齢になって置き場に困るような物は買わないのは当然だ。思うに、全国にはそういう高齢者が3~4人に1人はいる時代になったのだから、内需が盛り上がらないのは当然だろうと思わずにはいられない。ましてや、内部留保には懸命になっても昇給はさせない経営者が増えたとあっては、国内の消費は伸びない訳だと思っているが、誤解か誤認識だろうか。

パンツ、アンダーシャツ、靴下のような嘗ては手に取ってみれば「中国製」が多かった非耐久消費財を買うのは、自慢ではないが年に2回お墓参りに行った際に立ち寄る巣鴨の地蔵通り商店街のマルジか、ジムと同じ建物の2階にある経済的な価格の品物が並ぶユニクロである。それも前述のように昨年の12月にマルジで室内履きの靴下を2足買ったのが最後だ。

食生活だって慎ましやかなのもので、既に老化したお陰で小食になっていことに加えて、去る1月から散々悩まされてきた顎関節症の為に益々小食にならざるを得ず、金融庁が試算されたとかの夫婦2人で月に6万円という食事の出費は「一体どれほど贅沢に大食された家庭か」と家内が感心している。当家も偶には外食はするが、最大の楽しみは近所の小さなホテルが提供する目玉料理の¥850の鰻重である。

曽野綾子さんは2,000万円の蓄えがなくて飢え死にされた例は知らないと言っておられたが、現実には特殊詐欺の被害に遭われた方々はタンス預金や銀行に1,000万円単位の蓄えがおありのようで、家内と共に感心し且つ尊敬している。あの被害の状態では、金融庁の指摘は満更見当違いではないように思えてならない。それを野党の連中は安倍総理の問責決議案にしてしまうのだから、世間の実情を全く調査していないようだ。あれでは、三原じゅん子議員に「恥を知れ」と一喝される訳だ。



私の英語勉強法

2019-06-24 15:49:59 | コラム
K君へ;

昨日一寸だけ語り合った「私の英語の勉強法」の最新版を更に改訂したものを送ります。一寸長いのですが、辛抱して読み切って下さい。

(1)音読・暗記・暗唱以外に重要なこと:
私の記憶では昭和20年(1945年)4月に湘南中学で当時は未だ敵性語だった英語の授業で先ず教えられたことは「アルファベットの各文字の発音の仕方というか読み方」だった。即ち、簡単な例を挙げれば”a“は「ア」と発音し、”w”は口の端を横に伸ばして「ウ」というという具合だった。その時に既に“l”と“r”との微妙な違いも教えられてのだが、そう簡単には習得できるものではなかった生徒が多かったと記憶する。“v”は本来「ヴィー」と読むのであると教えられたが、恐らくこれを「ブイ」以外の読み方をしている日本人は極めて希だと思っている。

この英語の学習の第一歩で既に混乱が生じていたようで、多くの生徒たちは後に出会う「ローマ字」の影響をも受けて“a”は「ア」とだけ、“o”は「オ」とだけ発音する英語の発音になって行ってしまうのである。私の組の英語を担当された先生は意外にもアメリカ人との混血で、綺麗なアメリカ語の発音をしておられたので、多くの生徒たちは容易についていけなかったようだった。私はこの辺りの出発点でどういう発音をする先生に教えられたかで、将来の発音の正確さと良し悪しが大きく左右されると思っている。

実際の英語の世界に入ってみると何時かは解ることだが、アメリカ語に特に屡々見られる現象で“a”を素直に「ア」と発音しない例が多過ぎるのだ。定冠詞の“a”にしたところで、かなり多くのアメリカ人は「エイ」と言うのだ。即ち、That was a big surprise.の“a”は「エイ」となって「エイ・ビッグ・サプライズ」と聞こえるという具合だ。実は、かく申す私も「エイ」派に属することにしてある。しかし、これなどは未だお手柔らかな方で、UKのロンドンの一部の訛りやオーストラリアの英語では“a”は「アイ」となってしまうのである。

その例は私がこれまでに何度も採り上げた“I came here today.”が「アイ・カイム・ヒア・トウダイ」となってしまうのが極端な訛りだが、サッカー界の貴公子と我が国で持て囃したDavid Beckhamは自ら「ダイヴィッド・ベッカム」と名乗っている。なお、こういう“a”の発音の仕方はニュージーランドでもごく普通になっている。であるからこそ、私はnative speakerに英語を教えて貰うか、英語教師として招聘する場合には十分な注意が必要であるというのだ。そういう根拠は「アメリカに行けば南部訛りもあれば、東海岸の一部の地域ではQueen’s Englishのような発音をしている」のであるから。

話を元のアルファベットに戻せば、26字それぞれに正統的な発音の他に例外的な発音がある事もあることをもチャンと教えておくべきだということ。だが、それを小学校の児童に教えるのか、中学であらためて教えるのか、どの時点で正当なUK風(=Queen’s English)とアメリカ語と、オーストラリアやニュージーランドという国別の違いを教えるべきかという問題に撞着すると思う。その他に注意すべきはインドにはヒンドゥー語独特の抑揚があるし、東南アジアの諸国にもそれぞれのアクセントと抑揚があるのだ。

私の結論を言ってしまえば「同盟国であるアメリカ式を取るべし」なのだが、それもどの地区を標準にするかと言えば「西海岸」と主張する。

だが、最大の問題点と思うことは、教える側が「どれがどの国の発音であるか、訛りであるか」をキチンと識別できる能力を備えていなければならないという点だ。そうでもないと、折角招聘したnative speakerがアメリカの南部訛りや、「アイ・カイム・ヒア・トウダイ」系統だったらどう対処するかという問題が生じるのだ。私はこの問題以外に既にトランプ大統領の“I’m gonna ~.であるとか、”I wanna ~.“はお薦めしないと指摘してある。これは基礎を固めるのを優先すべきだということと同時に「品格」の問題にもなるのだとご承知置き願いたい。

(2)英語の学び方を語る:

音読・暗記・暗唱:
私は我が国の英語教育では「答えは一つである」というような数学の問題の解答にも似た教え方をするので、常に絶対的に正しいと思う表現なり話し方なりを選ぼうとしてしまうのだと見てきた。

この非常に厳格な縛りの中で「科学としての英語」を数学のように教えて試験の採点をして、尚且つ5段階で査定していくのが我が国の学校教育における英語の教え方であるのだから、「英語とは窮屈なものだ。解りにくいものだ」という嫌悪感が発生したのも無理はないと思っている。しかも、その行く手にはTOEIC(日本製でありながらアメリカからの輸入品を装っている)だのTOEFLなどが待っているのだから始末が悪い。

私は中学生の頃に何の理屈も理論的な裏付けなとなく、そういう勉強の仕方や教えられ方を避けて、学校で何を教えられようと関係なく自分勝手に最も楽な勉強の仕方であった「音読・暗記・暗唱」だけを続けてきた。その勝手なやり方でも何故か正しい言い方と表現を記憶できたし、表現の小引き出しが学校で教えられるやり方に真面目についていった者たちよりも増えていたという結果を生んでいたのだった。

念の為に確認しておけば、音読・暗記・暗唱の他には「単語帳も単語カードも一切作らない」、「教科書でも何でも知らない単語に出会ったらその都度辞書を引いて意味を理解しようとした」、「教科書には一切書き込みをしない」、「英文和訳をして理解しようとはしない」、「英作文というか、英語では何と言うかを、知っている限りの単語を記憶の小引き出しから取りだして書いてみる」を実践していた。

その結果としては、旧制中学から大学の教養課程までの間に、英語の試験で90点を切ったのが2回しかなかったというところに到達していたのだった。更に、高校1年の頃にはアメリカ人たちの中に入っても意思の疎通で何ら問題を感じたことがなかったほど、“I know how to express myself well enough.”(「自分が思っていることを如何にして表現するかを心得ている」であり、これはI can speak English.とは次元が違う言い方だと認識していて良いだろう)と言っても良い次元にも達していた。

勿論、その間には大学受験を控えて佐々木高政氏の名作「英文構成法」で英作文の勉強を懸命にしていたのだった。この本で学んだことの効果は絶大で、W社の東京事務所の副社長補佐だった日系人でワシントン大学のMBAであるJ氏には有り難いことに「英文を書く基本は出来ている」と認めて貰えたのだった。

私は偉そうに「音読・暗記・暗唱」を推薦し「単語カード」だの「単語帳」だの、「英文和訳」だの「英作文」等々の勉強をしなかったというが、そこには何の理論的根拠はなかったのだ。正直に言えば「そんな面倒な事をしなくても英語だけは良い点数が取れた」というだけのことで、楽な勉強法だった。言うなれば真面目に勉強していないと言われても反論出来ないかも知れない「手抜き」で「ずぼら」だったとでもなるだろう。

即ち、チャンと英語を指導要綱に従って教えておられた先生方から見れば、不真面目な生徒だったにも拘わらず、気が付けば高校の頃には「文法の達人」とも周囲にも認められるようにもなっていたのだった。そのような次元に達したのが、偶然だったのか、その「ずぼら」な勉強法が良かったのかなどは未だに不明だが、それでも当時の湘南中学(高校)に無数にいた東大に楽々と進学した秀才たちと、英語だけは何とかついていける成績を残せたのだった。

しかし、大学に入って私などは到底及ばない凄い英語力を持った同級生に出会って、恐る恐る高校までの英語の勉強法を尋ねてみれば、何と私と全く同じだったのには感動した。彼は私とは違って全科目に優れていたので、3年になった時に大学の推薦で同じイエズス会系のアメリカの大学に留学に出て行った。ではあっても、私の勉強法が必ずしも誤りではなかったことが立証されたので、大いに意を強くしたのだった。

私には彼とも他の学生とも違っていた英語の勉強法に違いがあったことは認めておかねばなるまい。それは終戦後直ぐからGHQの日系人の秘書の方に「英語だけで考える事」と「英語だけで考えて英語を話す事」を言わば強制されたことが大きな力になっていたと言える点だろう。

私は大学の卒業を目の前にして「英語で仕事をする会社にだけは行きたくない」と固く心に決めていた。それは英語と日本語との違いを知っていただけに、仕事の面で英語を使う事がどれほど余計な負担になるだろうかと考えたからだった。また、新卒で採用して頂いた会社に勤務している間には、一度たりともアメリカの会社に転進することなど考えたことなどなかった。それが偶然の積み重ねで17年もお世話になった会社を離れて39歳にして現実のことになってしまったのだった。

断言したいことは、転進は英語が出来るからではなく「紙パルプ業界における私の能力が評価されたから」と確信している。念の為に確認しておけば「アメリカの会社に入ってしまえば、英語が出来るなどということは、何ら評価の対象にはならないのである」という点だ。

(3)英語の不規則さを心得ておこう:
既に触れたが、アルファベットの“a”の読み方一つを採り上げても、我が国に生まれ育って学校教育だけで英語を教えらえた方々にとっては、その不規則さには呆れるか驚くか解らなくなってしまうかの何れだろうと思う。要するに、ローマ字式やカタカナ英語にしてしまった読み方乃至は発音は、本家本元の英語とは似ても似つかないものになっているということ。とは言ったが、ここにはUKのLondon cockneyやオーストラリアとニュージーランド独特の訛りは含まれていないと思って頂いて良いだろう。

即ち、英語という言葉は至る所に「不規則さ」があって、動詞のように規則動詞よりも不規則動詞の方が多いという現象すら生じているのだ。ここで一寸脱線するが、不規則動詞は“irregular verb”とされているのだが、これは勿論“regular”の反対語として出来たものだと思う。そこを真似たのか、我が国の野球用語には「イレギュラー・バウンド」というのがある。私に言わせれば「では、規則正しいバウンドというのがあるのか」なのだが、アメリかではぶっきらぼうに“bad hop”と言われているようだ。あちらの中継放送で「イレギュラー・バウンド」という表現があったのを聞いた記憶がない。

話を戻そう。“a”の読み方(または発音でも良いか)の不規則さの例を挙げてみよう。先ずは我が国独特の開発商品の如きローマ字読みはそのままというか、我が国で通用している読み方はされないということ。例えば、青木功という初めてアメリカのトーナメントで優勝したプロゴルファーは、勿論“Isao Aoki”と表記されていた。だが、アメリカには「エイオキ」という名字のプロゴルファーしか存在していなかった。私は寡聞にして“Isao”がどう読まれたか確認していないが、どう考えても「アイサオ」となるしかないと思っている。

“A”という字が入る人名がどう読まれるかと言えば、先ず「ア」となることは極めて希で、殆どの場合「エイ」にされてしまうのである。だから、テニス界の新女王・大坂なおみ(Naomi Osaka)さんはちゃんと「ネイオミ・オサカ」にされていた。私の名字の「前田」もこちらから「マエダ」と読んでくれと予め通告しない限り、「メイダ」か「メイエダ」なることがあった。難儀なことなのである。

英語本来の発音でも単なる「ア」となっている例よりも発音記号で aとeをくっつけたような「エア」にも似た読み方になっている例が多い。例えば“cat”を「カット」とは言わず「キャット」言うし、カタカナ語では「カジュアル」にされてしまった“casual”は「キャジュアル」に近いのが本当の発音である。一寸捻った例だが、“caterpillar”だって「カタピラー」とはなっておらずに「キャタピラー」だし、何故かカタカナ語でも「キャタピラー」となっている。

カタカナ語に「カオス」というのがあって、これは“chaos”のことだと思うが、この読み方は「ケイアス」とする方が原語に近いと思う。以前にも採り上げた「パトリオット」も先人は“patriot”という綴りを見てローマ字式に「パトリオット」にしてしまったようだが、言語は「ペイトウリアット」が近いと思う発音だ。従って「パトリオティズム」というのも、カタカナ語の分類にするしかないのだ。

私はこういう英語の不規則性を無視したのか、あるいは知らなかったのか知らないが、ローマ字読み方等でカタカナ語を作って定着させてしまったことを、学校教育の何処かの時点でハッキリと教えて、私の持論でもある「こういう読み方や発音の仕方は通用しないことがあるから要注意と認識させておく必要がある」とあらためて主張したいのである。外国人の中には察しの良い人もいて、カタカナ語でもローマ字読み方でも「多分こういうことを言いたいのだろう」と理解されることも偶にはあるが、経験的には「???」となっていた例が多かったのである。

ここまででは年来の主張である「カタカナ語排斥論」を展開していると思われそうだが、狙いはそこにはない。言いたいことは「長い年月の学校教育における至らなさがあるから、我が国独特のカタカナ語が出来てしまったのだ」という点であり、何時まで経っても一向に進歩しない英語教育に対する改革論のほんの一頁のつもりなのである。


近頃一寸面白かったこと

2019-06-23 15:50:27 | コラム
兎角この世は:

トランプ大統領の人気:

先週だったか、フジのPrime Newsに登場された某専門家が指摘しておられた事は「最も再選を望んでいないのが習近平主席で、再選されて欲しいのが金正恩委員長である。しかも習主席は来たるべき大阪のG20の間にトランプ大統領との首脳会談が設定されている。ウワーキンググループ間の準備や如何に」だった。尤も至極であるが、習主席は金正恩委員長との5度目の会談であらためてDPRKを支配下に置いたというか、結びつきを強化したので、トランプ大統領との会談でどのように出ていくかが確かに興味の一つとなるだろう。

曽野綾子さんのコラム:
23日の産経に「小さな親切、大きなお世話」で“「2000万円」も不要な老後“と題して、如何にも曾野さんらしい指摘をされていた。面白いと感じた箇所だけ抜き出してみよう。先ずは故三浦朱門氏がもし生きていたら「ボクは下着のパンツとシャツしか買わないから、100万円でも余るくらいだ。古着がいっぱいある衣装持ちだから、150歳まで生きても不自由しない」と威張って言うだろう」と言われた。

実は、正直なところ誠に曾野さんのご指摘の通りで、本日の某大学のT教授との昼食会に着ていった衣装は15年以上も前にアウトレットモールで購入したもので、86歳となった現在では、最早洋服など買う必要はなくなったのである。ここ数年で買った衣服は曾野さんが言われたように下着と靴下だけである。

曾野さんは結びには「老後に2千万円貯金がなくても、飢え死にする人はいないだろう。人間の心というものは、素晴らしい柔軟性を持っていて、そういう不運な人が見近にいれば、誰にでもおにぎり一個さしだすものなのだ。地球は人が恐れるよりはるかに長いレンジでものを見て解決する聡明さを持っている」と述べておられた。私はほとんど同感だが、金融庁の官僚やここぞとばかりに安倍内閣、就中麻生副総理を責め立てる枝野以下の野党は、曾野さんの説を何と読むだろうか。