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新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカの事情の考察

2021-09-24 09:08:15 | コラム
飽くまでも一般論ですが:

年俸の話:
何もビジネスの世界だけに限られた現象ではないが、彼らアメリカの経営者は「年俸に見合わない結果しか出せない者に対しては、それなりに厳格な基準で処分する」のである。即ち、最善の成績であれば大幅な昇級であり、それ以下であれば微増に止まり、平均点であれば据え置きであり、平均点以下では減俸となり、最悪の場合は解雇となるのが社会通念という世界である。「解雇」は我が国にはない仕打ちなので如何にも厳しいかのように受け止められるようだが「自分で要求した年俸に相応しい成果が挙がらなかったのだから当然だ」となるのが彼らの思考体系である。

ここで注意せねばならないことは「かの国では大学の新卒者を一斉に採用する考えはなく、必要に応じて即戦力となる者を中途採用する仕掛け。採用するときには雇用者側から年俸の提示もあるし、勧誘された者も求職者も共に自分から要求をして話し合いの結果で決まる」のである。1年間勤務してその実績が年俸に相応しくなければ、上記のように最悪は解雇まである世界だ。見方を変えれば「分不相応か出来そうもない事まで並べて、高額な年俸を取ることは危険である」となるのだ。勿論「市況が悪かったので」などという言い訳が通用する世界ではない、念の為。

私が友人知己に教えられたことは「21世紀の現在では、このような大手企業の世界では今や有名私立大学のMBAという資格を持っていない事には、生存競争を勝ち抜けない」という時代になってきたのだそうだ。ということは、男女を問わずに30歳前でも能力も資格もあって実績を挙げれば、15~20万ドル(=1,500~2,000万円)という年俸を取れるようになったのだそうだ。「何だ多くても20万ドルか」などと言うことなかれ。

この辺りまで来れば、年俸以外に獲得できた権限は我が国では考えられないほど広大なのだ。勿論、そこには大いなる責任と失職の危険を伴うのだが。強調しておく必要があるかも知れないことは、高額な年俸は何も大手法律事務所で新人弁護士に与えられるものではないという事。「年俸が高ければそれに伴って仕事の量は物凄いものになるし、実績を挙げられなくては・・・」ということは何も事改めて報じるべき事でもない、我が国との文化の相違点であるだけだ。

ヴィザについて:
アメリカでの就労ヴィザを貰える難しさ、というか厳格さも忘れてはなるまい。私は就労ヴィザの圏外にある日本の駐在マネージャだったから、B-1,B-2というヴィザでアメリカに入っていた。このヴィザでは90日間しか滞在できないのだが、そんなに長期間のアメリカ出張などあり得ないので問題などなかった。だが、記憶ではこのヴィザの手続きは旅行社任せだったので、取得の方法は知らない。だが、商社の駐在員から聞いた20世紀の話では、就労ヴィザの取得は非常に難しく、1人の新人に与えられると、駐在員を誰か1人を帰国させねばならなかったそうだった。

それほど当時はアメリカの雇用事情が悪化していたので、外国人を増やしてアメリカ人の雇用の機会を失いたくないようだと、解説して貰った。我が事業部には香港から転勤してきたニュージーランド人のマネージャーがいた。この夫妻とは良く会食していた。奥方はウットリするほど美しいQueen’s Englishを話すオーストラリア人だった。この奥方が興奮気味に語ったことは「アメリカは不公平である。我々外国人の家族には1人しか就労ヴィザを与えない。故に私は家に籠もるだけで、息子は銀行に就職したが香港の支店に出て行くしかなかった」だった。

トランプ前大統領は常に“job”(これは何度でも言うが断じて「雇用」のことではない。報道機関の無知が招いた誤訳である)を飛躍的に増やされたが、外国人の流入を制限されたので、ヴィザの交付を変更されたかなどは知らないし、今では関心がない。言えることは、外国人が物価が高いと報道機関がしたり顔で言うニューヨークなどでは、駐在員か現地で職を得た者が「夫婦共働き」は不可能のように思える。

私は在職中に業務上では余り関係がないNYには2回しか行ったことがないので、何か語る資格もないが「非常に富有であれば、暮らしやすい街のようだ」と認識している。ここに言う富有層とは15~20万ドル程度の年収がある人たちの意味ではないのは、言うまでもない事。以上は某氏が来週早々には一時帰国されるされるとの報道があって、思いついた事柄である。


カタカナ語は面白おかしくて哀しい

2021-09-23 08:43:45 | コラム
英語教育従事者はおかしなカタカナ語は気にならないのだろうか:

私は長らく「カタカナ語排斥論者」を自称してきたし、カタカナ語の批判も展開してきた。だが、薬石効なくではなかった努力の甲斐もなく、おかしなカタカナ語の普及と濫用は止まるところを知らない。その勢いを見せつけられては虚しさを痛感していたが、正直なことを言えば最早諦めの心境に達して「面白い現象だ」とすら思うようになってきた。

そこで、不思議に感じている点を挙げてみよう。それは「我が国では文部科学省はいうに及ばず、政治家や学者先生たちまでが挙って英語教育の充実を叫び、国際人を養成する為に小学校から英語を教えようなどと困ったことを言い募っているにも拘わらず、まともな英語を学んだ人々は未だに少ないようで、英語を基にした誤った使い方や意味を為さないカタカナ語が粗製濫造されている現象」を言うのだ。英語教師の方々には「あのような珍妙な言葉が報道機関等で濫用されていることを何と思うのか。責任は感じないのか」と問いかけたいのだ。

昨日も何処かの週刊誌にチャンとした方が「キャプテンシー」というカタカナ語を使った一文を寄稿しておられた。言いたかった事は「キャプテンシップという主将としての統率力か指導力」のようだった。キャプテンシーでは「主将としての地位」の意味なのだが、誰だったかサッカーの解説者が気取って使った為に、この間違った言葉が定着してしまった。英語教師からその誤りを指摘したという話はついぞ聞いたことがない。リーダーシップという英語を基にしたカタカナ語もあるが「リーダーシー」はないのは何故だろう。

この解説者は他にも「スリッピー」という言葉を創造して「滑りやすい」を表現して見せた。罪あるテレビ局も他の解説者も追随して「スリッピー」を普及させた。実は、正しい英語はslipperyなのである。キャプテンシーと同様に「悪貨は良貨を駆逐する」のだ。

ここまでは、言ってみれば枝葉末節な言葉の誤用で、現在老若男女どころではなく政治家も有識者も専門家も学者も誰でもが国を挙げて使っているおかしなカタカナ語がある。この場合は今や取り返しが付かない次元に達しているので、私如きが批判する効果も意味もないのでただ黙って見ているだけだ。だが、私は如何なる事があっても「コロナ」だけは使うまいと固く心に誓っている。それは、「コロナ」がこれほど普及したのは、仮令間違っていようと何だろうと最早日本語として定着してしまったので、無駄な抵抗はしないことにしたということだ。

言うまでもない事で「コロナ」は「新型コロナウイルス」の良くある短縮形だ。類似品に「インフル」がある。だが、困ったことに新型コロナウイルスだと頭の部分を採れば「新型」になってしまうのだ。それで知恵者(なのかな?)がおられて「コロナに」と決められたのだろう。何度でも同じ事を言うが、新聞等の見出しに「新型コロナウイルス」とすれば文字数が多すぎるので省略形が必要になるのは理解できる。だが、テレビでアナウンサーでも誰でもが新型コロナウイルスと全部言って秒数を食って、CMの時間に食い込むことはないと思うのだ。無意味な省略だ。

面白いのはそれだけではない。“corona”とは広辞苑に「太陽大気の外層。皆既日食の際、太陽の縁から四方にぼやけて見える真珠色の淡光(以下略)」とある。英和辞典には「光冠;(太陽・月の)光環」とあることくらいは、多くの方はご承知だと思う。何処にも「ウイルス」の意味などない。このウイルスが光環のようになるからそう呼んだだけだと思う。私が初めてテレビで「コロナ」と言ったのを聞いたのは石原良純だった。面白い言葉の使い方をするなと感じたが、それ以来「コロナ」が新型コロナウイルスの代名詞となってしまった。

私はどんなカタカナ語を誰が使おうと、批判する活力も勇気も最早減退してしまったが、英語教師を始めとして誰もこの言葉の使用を窘めないのは凄い現象だと思っている。まさか、だれも「コロナ」の本当の意味を知らないとは思えないが、知っていて使っているのであればその無神経振りは異常だし、沈黙している英語教育従事者は何をやっているのかなと思いたくなってしまう。もしかすると、この辺りが日本語の融通無碍な点なのかも知れないが、私には言葉についての報道機関の図抜けた無神経振りには呆れる前に感心している。

一寸捻った見方をしてみよう。ここまででも十分に捻ってあるかも知れないがね。例えば「私の関心事の一つにコロナのリバウンドがある」という文章を英訳してみなさいと、外国人に依頼してみよう。もしかして“One of my concerns is the rebound of the corona.”となってしまうかも知れない。これでは意味を為さないと思う。屁理屈を続ければreboundには「ウイルス感染の再拡大」という意味はないのだが、既に「リバウンド」はそれを意味するカタカナ語として戸籍を得ているのだ。

私は遺憾ながら誤ったカタカナ語の普及を面白い現象だなど感じ始めた今日この頃だ。言葉は正確に使おうなどと吠えても虚しさを感じるだけだ。英語教育従事者の方々のご意見を伺いたいものだ。


9月22日 その2 我が国のデジタル化

2021-09-22 14:20:31 | コラム
デジタル化って具体的にどういう事?:

昨日、国立国際医療研究センター病院の地下のセブンイレブンで、何年振りかで週刊現代を買ってみた。その訳は「その時刻から実際に外来で呼ばれるまでに、少なくとも1時間は待つ見込みだったから」だ。価格が¥530と言うのにも驚かされたが、レジスターではもう一寸驚かされた。係員はUPC(バーコードのこと)を読み取るだけで、後は「機械にお札と硬貨を入れてディスプレーのOKに触れなさい」と指示するだけだった。「凄いな。我が国最大のコンビニエンスストアだけあって、デジタル化が進んでいるな」と感心させられた。

今年の初めの、未だCOVID-19の感染の勢いが恐怖だった頃に止むを得ぬ用事で、覚悟を決めて人流が盛んな新宿駅西口に出掛けた。その際に用事を済ませた後で、折角ここまで来たのだからとユニクロで下着の在庫積み増しを図った。品物を選んでから支払いへと向かった。

会計機の所には女性が一人張り番をしていて、訳が解っていない高齢者に支払い方法を指導していた。そこでは機械に商品を置くと全てを読み取って「袋が要るか」と尋ねてくる。それを「ノー」にして指示された現金を置けば、決済完了でレシートが出てくる仕組みだった。勿論「何とかペイ」は受け付けて下さるようだった。「流石に世界のユニクロである。デジタル化をここまで進化させていたのか、長生きはするもので自分は世の中から取り残されている」と痛感させられた貴重な経験だった。

次なるデジタル化の経験はテレビのCMに誘われて、くら寿司とスシローに出掛けたときのことだった。デジタル化が進んでいて、席選びから支払いまで全て流れが出来ていたし、注文はタブレットでとなっていた。家内は「この儘にデジタル化が進めば、遠からぬ将来に単独では外食は出来なくなりそうだ」と恐怖感を露わにした。先日も紹介した新大久保駅前の中国人経営の四川料理店は流石に華為のタブレットで注文するようになっていた。

上記の一連のデジタル化(なのかな?)は、私には人件費の節約と注文を間違えた場合にはお客の責任に持って行けるような安全策としか見えなかった。スシローでは支払い方法を教えてくれた若い女性も「実は、初めて来ました。便利のようで面倒なのですが、その便利さは店側にとってのことと感じました」と、帰りのエレベーターの中で聞かせてくれた。

このように菅首相の優先度が極めて高いデジタル化政策は末端にまで浸透しているようだと、一向に感じてはいない。デジタル化先進国の韓国では「役所に引っ越しの申請をスマートフォンででもすれば、それに伴う全ての手続き(例えば電気やガスや水道の切り替え等々)は一瞬にして完了するシステムが構築されていて、引っ越しと同時に全てが運転開始」という記事を読んだ気がする。世界的な基準では、どうやらデジタル化とはこういうことを指しているようだと感じた。

そこで、我が国のデジタル庁である。私は先ずdigitalという英語を「デジタル」と表記してしまったことから「如何なものか」と思っている。如何なる辞書を見ても、発音記号通りにすれば「デイジトウル」がかなり近いのだ。故に、私はこれまで「デイジタル」と表記してきた。誰が最初に「デジタル」にしようと発議したのか知らないが、不正確だと感じている。似たような例に「マイケル」がある。Michaelの発音記号は「マイクル」なのだ。

President誌の10月15日号で大前研一誌がかなり手厳しくデジタル庁等を批判している。曰く“「トップのデジタル監には結局一橋大学名誉教授(経営学)石倉洋子氏が就任した。発足式で石倉氏は「私はデジタルの専門家でもエンジニアでもない。Pythonにもチャレンジしたが、今のところ挫折している状況だ」と発言し話題になった。デジタル庁のトップがデジタルについて理解していないのも問題だが、それ以上に問題なのは自分の役割を理解していないことだ”と指摘された。

大前氏は平井大臣についてもかなりきついことを言われていた。だが、私が気になった点は「大学の工学部でプログラミング教育を受けても(中略)米中印のようなスーパースターのような構想力を持ったエンジニアはなれず、日本独特の年功序列制度の端末に入ることになる」と批判されている点だった。こういう仕組みは徐々に改善され中途入社が増えてきたとは見えるが、アメリカ、インド、中国、台湾、韓国に後れている事実を見ると、年功序列制の弊害はあると思う。平井大臣、石倉デジタル監はこの辺りから改革される構想があるのだろうか。あって当然だろう。


カタカナ語物語

2021-09-22 09:11:48 | コラム
排斥でも批判でもないカタカナ語物語:

昨21日に暫く振りにテレビでその語りを拝聴した小池東京都知事は「感染がぶり返さないように不要不急の外出を控えて下さい」と要請しておられた。意外だった。と言うのは、これまでの小池さんの語りであれば「感染がリバウンドしないように」と来るはずだったものが「ぶり返す」という、言わば古典的な日本語を使われた点だった。まさか、当方の批判が聞こえた訳ではあるまいが、「どちらかと言えばreboundは面倒な使い方をされるで」と学習されたのかも知れない。

この単語は普通には「リバウンド」という発音なのだが、名詞となると「リーバウンド」と「リー」にアクセントを置いて「会社でも団体でもイメージを変えて再出発する」という意味があると、Oxfordには出ている。それほど小うるさい単語なのだ。だから「リバウンド」を回避されたのかと勝手に考えている。

私は「事ほど左様に面倒な英語の単語や表現を、何でもかんでもカタカナ語にしてしまうのは宜しくないのでは」と思っているので、今回はそういう疑問に感じた例を取り上げてみようと思うのだ。

*省略型:
「ヘリ」から行こう。一昨日だったか山中にヘリコプターが墜落したとの報道があった。新聞記事では何時も見出しは「ヘリ」だが、本文はヘリコプターとなっているのは解る。見出しでは字数に限度があるからだ。しかし、テレビのニュースで「ヘリ」という英語の世界にはない省略の形で語るのはおかしいと思う。全部「ヘリコプター」と言ったって時間を1秒も食わないだろう。私には不正確な言葉遣いだとしか思えない。アメリカの俗語にはchopperとなっているので、helicopterよりも3文字少ないだけだが、報道機関は「chopper」は使わないよ。

「アフガン」は以前にも指摘したが省略型であって、しかも言葉の誤用と念が入っている。英語のAfghanは「アフガニスタン人」か「アフガニスタンの言語」の意味でしかない。何方だったかネットで指摘しておられた事は「アフガニスタン」の「スタン」は国を表しているので、省略するのだったら「アフガニだろう」と。ここでも新聞でも雑誌ででも見出しは「アフガン」でも本文は「アフガニスタン」とフルネームだ。有識者の方々は無知なのか、あるいは報道機関に迎合されたかの何れかではないのか。

「インフル」は何度も揶揄した。正式には「インフルエンザ」であり、嘗ては「流行性感冒」であって「流感」に短縮されていたのだった。それが、カタカナ好きの報道機関の仕業かお医者様がそちらを望まれたのか、何とも珍妙な「インフル」にしてしまった。私は「これではinfluenceさんが『俺をどうしてくれるのか』とお怒りだ」と指摘した。マスコミの軽佻浮薄振りの表れではないのか。

「バスケ」と「バレー」にも疑問を感じる。嘗ては「籠球」と「排球」としていた。ところがであるbaseballは「野球」なのだが、マスコミはついぞ「ベースボール」でもなく「ベース」のような省略もしないのだ。私はマスコミが何も運動部の連中の真似をして「バスケ」などという表現に走ることはないと思う。「バレー」もまた奇妙なのだ。「バレー」と表記されているballetはフランス語の通りなので、私は時々何れのことを言っているのかと迷わせられる。短縮せずにvolleyballと言えば良いじゃないかなのだが、細かいことを言えばヴァリーボールなのだ。

ここで面白いのがvolleyなのだ。テニスなどで球が地面に落ちる前に打ってしまうことを「ボレー」と呼んでいるし、サッカーにも「ボレーシュート」なんて言うのがある。ところがである、volleyの発音記号を見れば「ヴァリー」となっているのだ。何の事はないローマ字読みしていたのだった。似たような例にAppleのSteve Jobsがある。あれは「ジョブズさん」ではなくて「ジャブズ」なのだ。先頃、生前のジャブズ氏と親交があった某大手メーカーの元副社長と語り合っているときに、彼が「ジャブズ」と言われたので初めて気が付いた。

この範疇に入るのはbodyの表記がある。「ボディーチェック」もある。即ち「バデイーチェック」であるべきだし、「ボデーブロー」もある。ずっと昔に職業野球と言われていた頃だったか「新人選手」(=rookieまたはrooky)を「ルーキー」としてしまった。「ルキー」だったのだ。これもbookと書いて「ブーク」と言うかであり、lookを「ルーク」と発音するかという問題だ。「パトリオット・ミサイル」というのがあるがpatriot missileを前者はローマ字読みし、後者は誤表記した。あれは普通は「ミスル」であり、誰かが「ミスった」のだ。

*表記の誤り:
私は英語の国には「クライアント」はいないが「クライエント」(=client)はいると思う。また、海上輸送に使う箱のcontainerは「コンテナ」か「コンテナー」ではないと思う。どういう根拠があって原語を無視した表記にしたのだろう。私が初めてラジオに出させて頂いた1996年に何気なく「キャジュアル」と言ったらキャスターさんに「カジュアルではありませんか」と怪訝な顔をされて、初めてカタカナの表記を知ったのだった。私はcatと書いて「カット」とは読まない気がする。

「アワード」も困ったものだと密かに怒っている。報道機関は平気で「何とか賞をアワードされました」とか「何とかアワード」と言っている。解りやすく言えばwarという単語を見て「ワー」と発音するかという問題だ。「アルミニューム」や「シンポジューム」も如何なものかという例だ。aluminumは「アルミナム」でありsymposiumはうるさいことを言えば「シンポウジアム」なのだ。ここまで来ると報道機関を責めるよりも、先人たちのローマ字読みに頼らねばならなかったご苦労を認めねばならないような気もする。

未だ未だ幾らでもあるが、今回はここまでにしおこうと思う。


本21日は

2021-09-21 16:08:13 | コラム
各位

本21日は休載の止むなきに至りました。理由はと言えば、早朝から国立国際医療研究センター病院循環器内科での2ヶ月毎の定期検査と診断に次いで、調剤薬局で薬を受け取って先ほど帰宅できたからです。この朝食を抜くことから始まった目まぐるしい日程では、何らの構想を纏める余裕を生じなかったのでした。

結果として不甲斐なく残念決め次第です。何卒宜しくご理解のほどを。
真一文字拝