Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

小説は永遠につづく。

2022-07-02 22:59:32 | 考えの切れ端
文芸作品の売り上げが、ここ10年で1/4まで落ちたというニュースを受けて書きます。

文芸作品はセーフティーネットでもあると僕は思うのでした。多様と分散のこの時代に、前時代よりもシェアが減るのは当然なのかもしれない。でも、最初に書いたように、セーフティーネットたりえるものです。でもって、文芸作品を求めるひとって一定数はずっとい続けるものなんじゃないかな。

虚構があるからこそ、現実や人間を理解しやすくなる。虚構は思考実験であり、「それ」があるからこそ説明しやすくなる種類の複雑な問題があるというその「それ」である虚数のようであると言えるのかもしれない。

その虚構が、映画や漫画でいいじゃないか、というのもひとつの在り方だ。かといって、小説がそれらに劣るメディアではないことは知っておいたほうがよいことだし、そこをわかるくらいの知的修練はあったほうがいい。話はまずそれから、としたいけど、それだと門戸が狭いんですよね。

だけど、門戸が狭いことで人を選別しもする。誰でも入ってこられる部屋ではないから、ある人々にとってのセーフティーネットという位置付けになるのかもしれない。

こういった観点をふまえて読む『はてしない物語』は味わい深そうだ。バスチアン少年の居場所(安全地帯)としての文芸作品があり、彼はそれを楽しんで読んだ。それでいて、いいことばかりじゃないんだぞ、ということまで教えてくれる作品でしたね。

文芸の文化はとにかく残していくものであって、そりゃあ資本主義上での金儲け(錬金術)とは相性が悪いのかもしれないし、昨今のコスパ・タイパの風潮のなかではとくに分が悪い。でも、その芯はしなやかで強靭で、さらにいえばずっと未来の奥まで続いていっているのではないか。

文芸の出版はNPOがやる、なんて段階に将来なったとしても書き手は出てくるし読み手はい続けると思うな。まあ、そのうち大ブレイクするなんていう分野ではないだろうし、「伏龍」だなんて言い方は違うでしょうが、それでも雌伏の時代に入っているのかもしれませんね。

それでも、僕は言う。「小説は永遠につづく」と。
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「たら」「れば」「もしも」との付き合い。

2022-06-19 10:58:57 | 考えの切れ端
僕はどちらかというと、「たら」「れば」を言うタイプではない。それは生きていく上でのある種の強みではあります。だけれど、そういった「たら」「れば」「もしも」は創作や工夫の種なんです。もっというと、後ろ向きの「たら」「れば」「もしも」こそが物語を生んだりもする。人の、切っても切れない「弱さ」だからなのかなあ。

会話の中で「~~だったらよかったね」「そうだねえ」なんて言いあうとき、表面上は同調しても本気の部分ではそうは思わないで割り切っているタイプです。十代の頃に後悔と格闘したひとつの結論としてのものなのかもしれません。「決定」するということについて、じっくり考えたんだと思います。生半可に決定するものじゃない、というように。

それでも、割り切っているようでいて、他者に「~~だったらよかったのに」なんて言われると腹が立ったり。後悔させたいのかな、とか、他人の「後悔案件」への対処から学びたいのかな、とか、他人の後悔を知って自分だけじゃないと安心したいのかな、とか思っちゃう。

いろいろと経験してきた後悔の気持ちは、他者の気持ちをわかること(シンパシーやエンパシー)と繋がるだろうし、ある程度はそのマイナスを引き受けながら共感する能力を育むなどのプラスを生む意味合いで後悔をとらえるのがいいのでしょうか。難しいものですねえ。

それと、「後悔」に苦しむ人は、「反省」だけすると良いことも言い添えておきます。「反省」は、あれを今度こう直せばいいはずだ、などという修正案とともにやって、悔いたりしなくていいものです。「後悔」が重い人はドライな「反省」だけでいい。若いうちは特にそうでしょう。

そのときそのときの心の余裕を考えながらその度合いを決めて、極端に針を振らずに「後悔」とも付き合っていけるようになると、人としての厚みは増しそう。でも無理するべからず。ほどほどに、時間をかけて、だと思うのですがいかがでしょうか。

____

近況としてですが、ただいま原稿を書いている真っ最中です。80~90枚くらいで終えられそうで、現在65枚でクライマックスに片足を突っ込んだ状態です。青写真はできていますから、とん挫はしないと思います。
また、4時間のパート勤務を始めたんです。時間の都合がよく、介護や家事や家の問題、そして原稿と向き合いながら働けるのではないかと思い、就くと決めた販売店の仕事です。
ちょっと更新の頻度が低くなりそうなのですが、どうぞ今後ともおつきあいよろしくお願いいたします。
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「干渉」が跋扈する世の中。

2021-12-27 11:11:21 | 考えの切れ端
たとえば僕は、「干渉」されるのが好きではありません。親からの過干渉、友人からの干渉、そして仕事上での干渉ですら受け入れられないときがあります。今回はそんな「干渉」を見ていきます。

世の中ってものは「干渉」だらけであることが改めて理解できると思います。そして、意識の底あるいは無意識に密着した「干渉」をうまく対象化できたならば(できるだけ、ということですが)、自制や自律が利いた、より生きやすい世の中に変わるではないかな、と考えます。

そうなんです、「干渉」がまるで秘密裏に市民権を得て人中であぐらをかいている今の世の中は、息苦しかったり生きずらかったりしませんか。より生きやすく、ベターな居心地の世の中になればいいのにと思っての論考です。

「干渉」にはさまざまな形のものがあるのですが、「干渉」というものに分別がないのが今の社会でしょう。まずよくあるのが、親からの「干渉」です。こうしなさい、ああしなさい、などの指示や命令によって他律性を押しつけられる形の「干渉」。いわゆる「お仕着せ」です。重松清さんの小説に、父親(祖父だったかもしれません)からの「過干渉」によって小さな子どもにチック症状が起こるものがありましたが、「干渉」によって自律性を損なわせることは精神的な危機に直結するのだと思います。これがひどいことになると、難癖をつけたりでっちあげたり屁理屈を使ったりしてまで理由をこしらえて「干渉」するタイプの人もいます。これは家庭のなかに限らず、クレーマーやモンスターと呼ばれるタイプの人が似た精神構造をしていると考えています。支配欲があったりします。もっといえば、支配したり自分の思うままに他人を動かさないと自分が不安になるタイプなのではないか。また、こういうケースもあります。不安に長くさらされながらその不安に正面から対峙して解決しようとせず逃げていると「認知の歪み」が生じると言われます。認知が歪むと、なんでもないようなことなのに、その事柄に対して自動的に、これは悪いことだ、と捉えるようになるそうです。そうなると、その悪いことが葛藤になるので(認知的不協和)それを解決するために他人に干渉を始めるものもあるでしょう。

次に仕事上での「干渉」を。上司から、「それじゃダメだ、やりなおしてくれ!」と言われることは珍しくないことでしょうけれども、そういった上下関係による命令・指示は「干渉」の仲間です。仕事によくないところがあったのだから悪いのは「干渉」されるほうだ、と考えるのも珍しくありません。しかし、よりお仕着せ的な「干渉」を行いやすくする下地として、そういった命令・指示は機能しているのでは、と考えられます。まあ、仕事がうまくいかない人に、こうやれ、ああやれ、と口を出し始めればそれはもう正真正銘の「干渉」です。そして、そういう場面はとても多いです。

続いてネット世界などでの「干渉」を見ていきます。ネット掲示板でのコメント欄がにぎやかであれば、多くの人がその件あるいはそのニュースの当事者たちに「干渉」を行っていると見ることができます。炎上もしかりです。赤の他人なのに、やんややんやといろいろな言葉を浴びせる。これ、「干渉」です。同様に誹謗中傷の書き込みが怒涛のように押し寄せられるのも、すべて「干渉」です。さらに考えれば、ツイッターなんかでのエアリプですら「干渉」の性質の強い行動だったりします。

さらに見ていきましょう。TVショウの司会者やゲストの人たち、コメンテーターの人たちが政治や社会現象・社会問題に対してあれこれ発言します。これも良い発言や共感を呼ぶ発言だったとしてもやっぱり「干渉」なんです。社会に積極的にコミットしていく、という多くの場合には「社会参加」よりも「干渉」になっているきらいがあるのではないでしょうか。

まだまだあるでしょうけれども、最後にしますが、広告も「干渉」です。この商品はいかがですか、などと尋ねてもいないのに商品の説明を聞かされたり読まされたりする。また、ケータイに広告メールが入って個人の時間に侵入を受ける。これらは、広告による「干渉」です。

現代は「干渉社会」なのです。では、みんなそんなに「干渉」が気にならなかったりするのでしょうか。いやいや、そうじゃないから息苦しく生きている人が多いのです。ただ、「干渉」には人と繋がりたい欲求がこじれて発現してもいます。つい声をかけてしまう、お節介を焼いてしまう、そういったことは人と繋がりたい気持ちの現れで、「干渉」にならないようにもっとうまくやろうすると、難しくてどんな行動を取ればいいのかわからなくなるでしょう。つまり、受け入れた方がよい「干渉」もあれば、断固拒否するべき「干渉」もあるのだ、と。「干渉」についてわかってきたから全部はねのけよう、ではなく、いいよ全部受け入れよう、でもない、ケースバイケースであたっていくべきです。1か0ではないです。またはもっとグラデーションで考える。パーセンテージですね。これはこれだけ良くない「干渉」の性質が含まれているけど、でも行動するべき「干渉」だと思う、と各々が判断する。そのためには認知の歪みをできるだけ少なくし、自己省察をやってみることが大事になります。自分を省みるのは、自分の向上のためだけではなく、社会のなかでいろいろと良い反射を生む行動なのではないでしょうか。相互に影響を受け合うものですからね、社会は。

というように、まるで集団的無意識のように、みんなの心の中にしれっと潜みこんでいる干渉行動。干渉への疑問が低かったり、もともと無かったりします。そのあたりにメスを入れてみませんか。知るだけでも大きな一歩です。そのちょっとした補佐になれますように、という記事でした。おそまつ。
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「ダーク」というデフォを回避するには。

2021-11-17 14:38:33 | 考えの切れ端
今回は、この世界に住まい世間に属する僕らの態度のなかでも、「素直に言ってしまえばダークサイドだよね」といえる地点からはじめます。

せせこましくて、陰湿で、歪んでいて、汚くてっていう悪い姿勢でいたほうが足をすくわれにくいのってみんなわかってるじゃないですか? グループ内だとかの閉じた世界では特にそうだし、開かれた世界でも匿名を使ってそうしがちですよね。より狭い範囲でしか通用しない善、または自分だけの善(つまり利己かつ悪)に忠実にというふうに。

人が自然とそうなってしまう世界観や人間観は、たぶん代々しぜんと継承されていく、あるいは形作られていっています。少なくともここ三代世代くらいの時代感覚で考えるとそう言えそうな気がします。そこに逡巡を経験する時期はあったとしても、とりまく社会環境に抗わずに適応するようになるからだと思います。大人になって以後をも含めた人の成長過程が抑圧や影響を受ける社会環境に、結局は取り込まれるからじゃないでしょうか。

そこにはまず、社会環境を自然環境のようにみるというように、もっと言えばたとえば神様が創り上げたものだというように「社会環境だって偉大な力で創られた確固として揺るぎない、まるで真理かのような仕組みなんだ」という意識からはじまって、それが抜けないからなのではないでしょうか?

大きく見てみれば、知識量の少ないこども時分のまま、大人になってもそれほど知識量が変わっていないことにひとつ、その大きな要因があると見てとれるところがあります。というか、それまでの「揺るぎない基盤である社会環境」という前提を疑えるほどの知識量を蓄えないまでもふつうに生活できてしまうから知識量が増えないんです。知識量を増やさずいても、とりあえず一生をそれほどの苦難無しで送ることができる人が多い(ただ、そういう人たちが他者にしわ寄せを与えているケースは山ほどあるでしょう)。

社会環境って完全ではないし、完璧でもない。また、最悪ではないかもしれないけれど最善とは程遠い。そういったものを無批判で受け入れて、「社会環境の手のひら」の上で暴れまわるのが、せせこましくて、陰湿で、歪んでいて、汚くてっていう姿勢を生むんじゃないでしょうか。手持ちの札が少ない分、無理をしたりルール違反をしたりしがちになってしまいます。そういう手合いが増えれば、数の論理で、ルール無用が暗黙のうちに認められるあるいは流されてしまうようになってしまいます。

「社会環境の手のひら」っていうように擬人化して書きましたが、そのまま擬人化を続けながら僕の意見を書くと、手のひらも含めた「人間存在」を僕たちが創りだしたり育てたりする発想で「社会環境」を見つめ直したらどうなんだろうということです。

そのほうが健全だし、生きやすいんじゃないかなぁと思えるんですよね。現状のままだと、以下に書くような「○○○○」的姿勢に自動的になってしまいがちです。

→「本当はあいつが一番悪いから一言いってやりたいんだけど、やり返されること必至だしそれだとまるで敵わなくて被害は甚大に。かたや、こいつは悪いわけではないが俺よりいい生活をしているのが癪。でも言い返してもこないしやり返してもこないから被害の心配はいらない。だからこいつで鬱憤発散」的。

こういう「すれっからし化」は、知識量を増やすことによって回避できるようになるきっかけのひとつになり得るなあという話でした。あと、知識量によって前提を疑えることが大切です。がっちり先入観になっているものって多いですからね。
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「安心」が失われているからこそ。

2021-10-05 21:48:26 | 考えの切れ端
ホントに「考えの切れ端」だという印象が、きっと強いだろう、今回の記事です。

不安を避け続けると認知が歪んでいくといいます。認知が歪むと、本来なんでもないものに対してこれは悪いものだ、と考えるようになるのだといいます。世の中、不安に思えるものが多く、不安に思いやすい人も多いでしょう? とすると、皆が不安と真正面から対峙してひとつずつ解消する姿勢でいれば、社会環境は悪化しない? なぜって、世の中の混迷の源には、それこそ全員が持つそれぞれの認知の歪みがあるのではないかという気がすごくするからです(コロナ禍はまた大きな不安ですし、ここではコロナ禍のことを言っているのではないのですが)。

失敗すると恥ずかしいものだし周囲からバカにされないとも限らないし、ずっと「あのときこんな失敗をしたな」言われ続けることもある。でも不安との対峙に対してだけは、そこで下手な失敗の仕方をしても周囲から笑われないというように「不安の心理」の理解が進むと、もつれた糸のような乱れ方をした社会環境はそれ以上もつれないのではないでしょうか。

息のしやすさや風通しの良さ。そう形容されるような社会で生きられるようになるためには、「認知の歪み」が蔓延しないことが大切なような気がします。まったく「認知の歪み」がないっていう状態には誰にもなれないと思うのですが、軽い重いはあるんじゃないでしょうか。不安なために他人にお仕着せるくらい重い、みたいに。

不安がおおかた解消される社会は「安心社会」でしょう。でもそれは無理な話で、と考えて作り上げるのが「信頼社会」や「契約社会」かもしれない。不安を解消できなくても、避け続けないでいる姿勢は「信頼社会」に近いだろうか。また、不安を敵視するまでいかなくても、不安を対象として皆で連帯する社会などはあるかなぁ。

「失われた何十年」だとかと言われたものだけれど、本質的に何が失われたかって「安心」が失われて、それが元に戻らない不可逆的な変化だからこそ次にどうするかを考えなくてはならないのではないかな。立て直しが効かないのは不安への対処がままならないからではないか、と考えるのですが、どうですか?

つきまとう不安。その原因を探って解決して安心を得よう、というのは第一の策かもしれない。でも、山のように不安はあって、さらに時代の進捗とともに新たにたくさん不安となるものが生まれてくる。そうなると、もう日常のメンタリティーじゃないかと思えてくるわけです。あるいはゲーム理論の分野にある「メカニズム・デザイン論」が希望でしょうか。社会の混迷って、不安への対処の仕方のわからなさが実は原因なのかも? 
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怒りと被害者意識。

2021-08-16 14:50:04 | 考えの切れ端
このあいだ読んだ『負けない技術』で気付かされたことですが、人が怒るとき、その大半には源に被害者意識があると思います。ほんとうに被害をうけて怒るときの被害者意識もあれば、これは自分への加害であると決めつけての被害者意識もあります。今回はこのことについて、すこし考えてみます。

生きているとどんどん被害者意識って育っていくものでしょう。毎日、いろいろと、他者から被害を受けて生きています。ただその被害の内容の内訳は、他者にとっては悪意のない加害がほとんどです。東京の山手線で朝の満員電車に乗ったときのことを思い出します。これは容易に足を踏まれかねないし、踏んでしまいかねない、と注意する気持ちになったと思います。たとえば横に立つサラリーマンに足を踏まれてしまう。意図的ではありません、事故です。それでも、踏まれた側はしばらく踏まれたことを覚えているでしょう。それは1日いっぱいかもしれないし、3日間かもしれない。痛かったなあという記憶と共に振り返るでしょう。でも、踏んだほうはどうでしょうか。電車を降りる頃にはたぶん他人の足を踏んだことなど忘れているのではないでしょうか?

このように、被害には肉体的だったり心理的だったりする痛みを伴うことが多いので、ずっと覚えていがちです。でも、加害のほうには自分に痛みがないぶん、すぐに忘れてしまいがち。また、加害したっていうことに対する心の痛みを感じる場合を考えてみると、自分が受けた被害の痛みを客観的にとらえられてこそ、自分が為したことへの心の痛みって少しずつ持てるものなのではないか。

これらのことから考えると、被害者意識ってどんどん溜まっていきやすいものなのに対して、加害者意識はあまり溜まっていかないものだということです。生きていれば、被害も加害も同じくらい高い頻度で経験するものだろうに、意識上には大きな差があるのではないでしょうか。

しかしながら、被害者意識が大きくなると心理的に均衡がとれないのでやり返して心理的負債を返し、フラットにしようとする。とうとう堪忍袋の緒が切れるという状態です。それに、もしも自らの被害者意識ばかりに気を取られるようになり被害者意識ばかりで生きていると、他者へ怒りをぶつけやすくなるだろうこともわかってきます。被害者意識ばかりに目がいくと、日常の些細なことでもなんでも被害を受けたと感じて怒りっぽくなる。なぜ私だけがこういう目に?? という意識がつよくなる。人は被害ばかり受けて生きているわけではないのだけど、自分に対する損なことなどネガティブな事柄ばかりが心に残りがちなものです。さきほどの、足を踏まれた時のように、被害に痛みが伴ってそれが印象的だからかもしれません。

また、私は正しい、私は悪くない、など頑なに自己正当化するのも、被害者意識が強すぎるためということは珍しくないです。「だって、わたしは被害者で、向こうは加害者なんだから私は正しいほうの人間だ!」という論理です。こうなると、被害者意識とほとんど一体化してしまった、と言えそうです。そして、小さくでも大きくでも、プリプリと怒りっぽくなるでしょう。

被害者意識を育てる行為のひとつには、おそらく「愚痴」があります。愚痴自体は、自分の内に溜まったうっぷんを吐きだして(そして他者に知ってもらって)すっきりする行為でもあるのですが、愚痴っている最中に自分の被害を再確認することになり、それに驚きや憤慨を持ちつつ心の中でその被害意識が肥大することもあると思います。愚痴ることで良からぬことになるケースは、それによって自分への被害ばかりに目がいくようになり、それに溺れることです。「自分はなんてかわいそうなんだ!」という気分に誘われて、気持ちのほうもそこから抜け出せなくなる。

こうなりやすい人は、生き方に軸のようなものが弱い場合や、思想や理念がない場合が多いでしょう。こういう泥沼におちいってさらにヒドくなったときには、サイコパス的な行為におよぶこともあると思います。たとえば、AとBの選択肢があって、誰かがAの選択をすると「Aじゃない、Bだ」と文句を言い、Bを選択すると「Bじゃない、Aだ」と怒るというように。もともとその人がAかBかをはっきり考えていたなら、そういうことも少ないでしょうけれども、突発的に選択肢がでてくると被害者思考なので、AでもBでもネガティブに考えてしまい、さらに被害者意識が強いので怒りに繋がる、といったわけです。

では、これらとどう付き合えばいいのか。そこが問題なのですが、こういった、被害者意識に偏るアンバランスさが怒りなどを呼んで心を乱すのですから、自らが加害者になっている事柄を無視せず加害者意識を忘れないことで、自分の怒りへの疑いや他者への許しの気持ちが生まれたりするだろうと考えられます。

仮に、一日生活すると被害者意識100に対して加害者意識を10持つようになるものだとします。人生を送っていくうちに被害も加害もどんどん増えていくのはおわかりだと思います。それで、たとえば加害者意識が50を超えたらすこし気を使うようになっていくものだとすれば、人生を送っていけばそのうち人は丸くなっていくのがわかります。偏りの少ない意識で生活していたらそうなるでしょう。でもそれを無理やりやるかのように、加害者意識を無視するような生き方をしていたら、いつまでたってもオトナになれない(丸くなれない)。そればかりか、どんどん積み重なっていく被害者意識に飲みこまれてその奴隷のようになってしまう。そうならないために、加害者意識は、被害者意識ばかりの自分への躊躇となります。

自分はどういうふうに生きていくかだとか、ある程度の覚悟をしておくこと。そして、加害者でもある自分という意識を持つこと。それらが、自分だけではなく周囲にとっても、怒りによるダメージから遠ざかることができることなのではないでしょうか。
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時間を節約する!と躍起にならないこと。

2021-07-24 12:07:44 | 考えの切れ端
僕らは他者との関わりで生きている。そのなかでいろいろとストレスはあってどこかで休憩したくなるもの。でも一日の中で、「一分でも節約して休憩に充てるぞ」と躍起になっても、たぶんそうやって溜めた時間ではよい休憩にはならない。時間の節約にエネルギーを使い過ぎているっていうのがあるし、休憩に入るときの自分の状態が穏やかでなさすぎてうまく心身が休憩に入れないだろうからです。休憩のために一分節約したばかりに、二分なければ休息できない疲労をためてしまうことになってしまいがち。反対に、時間の節約にぴりぴりせずにいたほうが、幾分短めの休憩でも休める。量ということでもないんです。つまり、普段どういう質の時間の使い方や過ごし方をするかなのだと思う。

でも実際、急ぐときは急がなきゃだから、過度にならないように適度にバランスを取りながらになります。過ぎたるは及ばざるがごとし、ですから。そして、時間の量と質についての意識をつねにどこかでもっておくことが大切になります。

休息時間によい休憩が取れるかは、活動しているときの「時間の使い方の質」によるでしょう。ぴりぴりし通しだったり焦ってばかりだと、回復するために休憩時間がたくさんいるようにもなる。そのためにもっと時間の節約をし始め、そのためにさらにぴりぴりして、それを癒すためにさらに休憩時間が欲しくなって……と、節約がエスカレートしていく。悪循環にはまってしまいます。

こういうのはひとりだけで気をつけられるところもありますけれども、他者と相互で影響を与えたり受けたりしあうものでもあるので、みんなができるだけ落ちつけるといいですよねえ。好循環のためには、こういったことを各々が考えておくことが必要なのでした。

おそまつ。
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在宅介護の現状への意見

2021-07-06 14:14:53 | 考えの切れ端
母を、父とともに在宅介護している者としてひとこと意見を書こうと思います。


介護は、要支援・要介護などを受ける人たちに主眼をおくのはもっともです。だけれど、実は介護をするほうの負担がとても大きい。だって、ぶっちゃければ、僕らみんな人間的にちゃんとしてない人たちでしょう? そんな人たちが人間的に成熟しないままいきなり介護の現場に放りこまれるんです。

DV(ドメスティック・バイオレンス)だってたぶん、在宅介護の現場では少なくないと思います。だから介護者がそこまで追い込まれないように、介護者のほうも支援・ケアする仕組みは大切なのでちゃんと作ってほしいのです。認知症の人を介護しているんだったら、ユマニチュードを教えてもらえる仕組みがあれば違います。ユマニチュードは認知症の人たちとのよりよい関係性を考えて、認知症の人をちゃんと一人の人間として尊重する姿勢を前提とします。そういった前提から生まれた「認知症の人との接し方」などの技術があります。介護者がそれらを学んで実践することは、同時に、普通の人とのあいだのコミュニケーションの仕方の学びや実践にも応用が利くでしょう。コミュニケーションでいえば、相手も自分も活かすというような「アサーション」という技術もそうですから、それも介護者は知ったり学んだりできたらいい。

また、介護者のこころがぴかぴかに健全だという前提、あるいは介護者のこころの状態を鑑みられていない在宅介護はおかしい。介護者が闇を抱えていたり、医者にかかっていないだけで病気だということもある。そういう状態で介護をしてもそれこそ暴力に繋がったりするのでケアが必要なのです。認知行動療法やカウンセリングが必要になる。だから、介護者は心理療法のカウンセリングを保険適用でだとか格安で受けられるようになるだとか、同様に認知行動療法も心理的バリアの低い状態で、つまり訪問診療や訪問介護のように介護者が自宅で受けられたりするとうまくいきやすいと思うのです。介護自体がポジティブにできるようになりますから。

介護者に対するケアが十分であれば介護自体がうまくいきだすんです。国の政策によって施設や病院でのケアから在宅ケアへと方向転換されてきているのだから、そうであるならば介護者を支援・ケアするのは理にかなっていると思うのです。

また、精神医療が必要な人が要介護認定されている場合、オープンダイアローグが役立つと思います。この技術を学んでいる専門家の介入があってもいい。オープンダイアローグも、ユマニチュードやアサーションと並んで、ふつうのコミュニケーションに対する考え方を養う部分がある技術。要するに、介護者の人間生育にも応用が利く。介護をすることはある種の学びを得ることや修養をすることにも繋がるものです。うまく支援やケアを受けながら介護をすれば、介護者は人間的にも深くなれると思う。現状の仕組みで在宅介護をしていれば、消耗ばかりの人生になりますから、そこを転換する仕組みが欲しいのですよ。

介護に正解があるわけじゃない。わけがわからないなかで自己流かつ孤立無援で奮闘しても、たいていは心がすさんでいってしまう。そこに政治は着目して欲しい。

世界の先端を行く、超高齢社会の国なんだから、なおさらなんじゃないかなあ。どうでしょうか?
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マウント考察→分解→破壊

2021-05-02 11:31:40 | 考えの切れ端
録画していたNHKの「マウンティング会話講座」がおもしろかった。「うわ!」とか「なにやってんの!」とか、見てるだけでも離脱したくなる、捨ておきたくなるドラマ仕立てのマウンティング例が秀逸といった感じでした。以下はそこから触発されてのマウンティング考察です。

僕の場合だったら、知り合った人が本を読む人か知りたくなって探りたくなるんだけど、そうやって、本好きなんだなって知った人に自分の小説の意見が欲しくて「読んでもらいたいんですけど」と原稿を渡せばマウントととられるんでしょうね。というかか、本が好きなんだなぁって知った相手に「実は僕、小説書いてます」と言っただけでもマウントだととられるんですよ(めんどくさ)。

マウンティングって、世の中が勝ちか負けかしかないとの前提からきますよね。これって強迫観念ぽいです。なんでもマウントと解釈するのはやめてくれーと思う。勝ち負けを競いたいならもっとでっかいことでやったらどうかと思ったりもします。それこそ、徒競走からはじまって、商品開発競争でもいいし、F1レースでもいいし。だから、小さなことからコツコツとマウンティングやらんでください、と苦笑いしちゃいます。

「うちの主人なんかね」「うちの子ときたら」の愚痴に忍ばせたマウントって、僕が子どもの頃だったらマンガやドラマでの滑稽なシーンの常套技術みたいな感じだったんですけど、似たようなのをみんなやるようになっちゃいました。そういう場面の後、主人公と仲間は「なにが言いたいんだろ、あのおばさん」とか「嫌味ったらしかったね」と初めはひそひそ、それからげらげらと笑いあうってなります。そういった主人公たちの見ていた世界観、住んでいた世界はどこにいったんだろうか。いや、彼らは「どんな世界に住んでいたか」ですよ。

「どんな世界に住んでいたか」。たいてい、この手のシーンが出てくる作品の主人公たちは、ちょっと貧しかったり、勉強が不得意だったり、親が一人だったりなんていうふうに世間一般からちょっとマイナスに見える要素を持っている人だったりもした。そういう人はマウントしなかったんです。物質的に恵まれて、学力も平均的にあがって、親が一人なのも珍しくなくなって(?)、マウントが一般化しちゃったのではないか。時代がすすむにつれて獲得したものとトレードオフで、「マウントしないこと」を失っちゃったのかもしれないですね。まあいまや、したくなくても巻き込まれますが。

あと、年収が多いとか海外へ留学したとか、高いブランドの紙袋もってきたとかありますが、頑張った分がストレートに結果となる世の中だったら、そんなのは今のようなマウントにはならないです。当り前でってことになりますから、プラスもマイナスもとても単純。でも、世の中は不透明で不公平だからマウントをしたりそう取られたりってなるところはあるんじゃないですか。これはマウントとしてやってる、と自覚してマウントばかりする人は、精神的にとてもマッチョな人かでかい穴をかかえている人か、そういう種類の人だと思う(思うだけだけど)。

自分の頑張りの結果やラッキーだったことをただ知って欲しくて発言してもそれは相手を組み伏せる「マウントの文脈」に回収されてしまいます。もともとこっそり忍ばせているという意味の「ステルスマウント」だって、それとなく自分のことを知って欲しい気持ちから生まれているのではないか。そういった自己開示的な言動や行為も、「マウントの文脈」に回収されがちです。

ご承知の上だと思いながら確認しますが、マウントを取られるということは相手にマウンティング、つまり組み伏せられたことを意味し、要するに負けたという意味になります。それが度重なると相手に優位性がでてくるので、相手の意向が通されやすくなる。だからマウントされることに神経質になる(そこには他律性を嫌う性分が顔を見せている)。

同調圧力はマウントを許さないんです。もっと細かく考えたら、同調圧力はマウントの文脈に回収できるものを許さない。出る杭は打ちましょう、という論理です。そして、マウントの現場にある同調圧力は、みんな公平で平準で、っていう価値観による同調圧力です。そんなのは実際無理であって、いわば理想と現実のあいだに真面目な面持ちで板ばさみになっているのが先述の「マウンティング講座」での再現ドラマに代表されるものなんです。

それとですね、今言ったことを別角度で見てみると次のような発見があるんです。同調圧力がさまざまな出る杭をマウントの文脈に回収しているのかもしれない、というのがそれです。コロナ下の「自粛警察」のように、同調圧力が浸透した価値観が、どんなものであってもマウントととれるんだったらとるというような「マウント警察」という働きがありそうです。

こういうのは、もう一歩、視界を俯瞰させることでその枠組みがみえてくると変わってくるんですが、マウントや同調圧力は、まるで空気のようにふつうに存在している大前提みたいにとらえられているきらいがあり、疑いが挟まることって少ないのでしょう。

自分の優位性を捨てられるならば、マウントのないコミュニケーションってできますよね。そういうのは楽しいです。素直に自己開示できて、素直に他人を認めることができて、他人を褒めることができて、自分が支配的にふるまわないし支配的にふるまわれるもしない。同調圧力などの前提が変わればできるんですけども。そういう僕は、支配的か被支配的かの心理テストで、どちらでもない傾向の高い一匹オオカミ型とでたことがあります。どちらかというとマウント人間ではない。だから、こう思うんですよ、支配や被支配にみんながウンザリしてくれたとしたら、僕は一匹オオカミじゃなくてよくなるな、と。なんていうか、……他力本願!! というところで、終わっときます。
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自律と他律と資本論。

2021-03-19 13:03:02 | 考えの切れ端
先日、録画していた1月のEテレ100分de名著・資本論のシリーズを見ていました。

資本論は言わずと知れたカール・マルクスの名著で、経済学で扱われますし、社会主義や共産主義へひとびとを動かしていった力があった本です。だからかえって「社会主義か~」「共産主義か~」と斜に構えてしまってこの録画を再生したのですが、資本論への距離間や読み解いていくための立ち位置が上手で、おもしろく視聴しました。

そんななか、ハッとする考え方が出てきました。資本主義は、仕事を「企画や計画をたてる側」と「実際に身体を動かして製作したりなど遂行する仕事の側」とのふたつに分けたとあった。昔だったら、たとえば家を建てるにしても、設計から大工作業まで同じ人たちが全般を通して働いたことが多かったはずです。まあ、家を建てる場合はちょっとおおがかりなので、とりあえず、仕事を最初から最後までひととおり通してやりぬくのが、昔ながらのやり方だったと踏まえていてください。

資本主義の勢いが強くなっていくにつれて、仕事上の計画に立つ側と実行に立つ側の分割がよりはっきりしていきます。この場合、実行側は、計画側に言われたとおりに仕事をこなすだけのような役割を担わされる。僕はこの構図を他律性の視点でながめました。僕は何度か書いてきましたが、大雑把にいえば、他律性にさらされたひとは幸福感を感じにくく自律性で動くほうが幸福感を感じやすい、というのがそれでした。何かの翻訳本、それも別々の二冊の本に載っていた同じ実験結果の話もこの説を後押しします。それは、アメリカのコントロール心理学という分野で老人ホームを実験観察したときの話。自分で裁量をもたせられて自律的に生活できたグループと、他者からの命令や指図つまり他律性のなかで生活したグループとを比較すると、前者のほうが寿命が長くなった、あるいは後者の寿命が短くなった、という結果が得られたのだそう。僕の、「他律性は幸福感を感じにくくする」という考えと近接しているように思いました。幸福感はきっと長生きにつながると思いますから。幸福感の有無は、人体によくはないストレスの多寡が関係していそうに思えます。

さて。
マルクスは、この分割された仕事を再統合することが大切なのではないか、と考えていたそうです。経済的にも、精神的にも、そのほうがより良くなることをマルクスはマルクスなりに考えていました。100分de名著でわかりやすく解説されていましたが、ちょっと今回はそのあたりの説明はしません。
だんだん見えてきたと思います。そうなんですよね、資本主義によって分離された仕事を「統合」するということは、僕が考える「自律」とかなり似たようなものなのでした。僕のイメージではそうだったんです。ひととおりの仕事をすべて自分でやってみることが幸せにつながることは、すなわち「自律性でやる仕事」だと言えるのではないでしょうか。反対に、他律性に視点を持っていくとするとこう考えられます、「資本主義って仕事に他律性を増してしまったんだ」と。他律性が幸福感を得にくくする論理がもしも実証されるなら(もしくは、されていたとするなら)、資本主義による分業のありかたは幸福感を得にくくさせるということが疑いようのない事実だとはっきりと認められることになります。

かといって、資本主義をきっぱりやめられるかというとそうではないし、資本主義のよいところや楽なところはたくさんあるでしょう。自律性には、「関係性の自律」という考え方もあります。これは他律と自律のあいだですりあわせをするような在り方です。同じように、資本主義の分業システムも人間の幸福視点から見直していいのではないか。まずは分業のすり合わせだとか、任せられる仕事はあえて分業しないだとか、やっていけたら楽しくなるのですけども。それでいて生産性が落ちなければ、完璧に移行できますよね。

という考えの切れ端でした。おそまつさまです。
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