Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

「善く生きる」とは、人生に意味を求めないこと。

2023-12-07 15:55:28 | 考えの切れ端
「人生には意味がある」と、いつしか考えている自分がいた。

私の場合、「好奇心を持って、いろいろな知識を得て、学び、考え、どんどん積み重ねていくこと」が人生の意味にあたる。それは人生の終わりまで続いていく、揺るぎない自明の種類のものだと考えていたので、ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみるなんていうことは、試みようと思ったことすらなかった。だが、その「ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみる」瞬間が昨夜、唐突に訪れたのだ。

「あれ? ちょっと待てよ、これってもしかすると」胸がざわめき、穏やかだった心の水面に薄い波紋が漂いだし、そのうち少し不穏に波立ってくる。「老境に達した作家が、自死してしまうことがある。これっていったい、どんな理由があったからなのだろう?」

脳裏に浮かんでいるのは、文豪・川端康成の自死について。

私は、川端康成先生の自死の理由を知らない。遺書が残されていたのか、近しい人に愚痴をこぼし始めていたのか、まったくなにも知らない状態で、「彼の自死」という事実のみと思いがけず向かい合ったのだ。

自分の人生に意味がなくなったから、死のうか、と決めてしまうことはあると思う。もしも死ぬ勇気が十分に湧いてこなくて死ねなかったとしても、人生の意味の無さに強烈にとらわれてしまったならば、自暴自棄になり堕落したふるまいを重ねていくかもしれない。川端康成は、前進・進歩という「人生の意味」を考えていたのではないのだろうか(世間体とかプライドとか、他にもあるでしょうが、そういった種類のものを省いた「ごく単純な想定」であることはわかっています)。

もしかすると、昨今の研究によって、彼の死にはいくつかの有力な仮説が立っているのかもしれない。でも、私は無知で、そして調べてみようとも思わない。だが、これは何かに繋がることだと予感し、自分で仮説を立ててみることにしたのだった。

* * *

老化が始まって、目や耳が弱くなったり、あらたに物事を切り拓いていけるような考えが進んでいかなくなったりしたとき、ちゃんとそういった自分のそれからの人生を肯定できるのか、と考えてみた。文筆業だったら、年齢的にピークを過ぎれば、書く文章の勢いがなくなり書くもののレベルが下がっていくことは考えられる。

人生を、「前進」「進歩」を柱として生きていたとしたら、その柱は必ず崩れ去る。だから、進歩すること、そして積み重ねていくことに「人生の意味」を持ってしまうと、危うい。

とくに子孫を残さなかった人は、自身が老いていって、それまでできていたことができなくなっていくときに、「人生の意味がなくなった」と感じてしまいやすいのではないか。そんな下り坂にさしかかったときに、息子、娘、はたまた孫がいたなら、彼らが進歩するさまを見守ることで、自分が次の世代を残したことに意味を感じて、精神が安定するのではないか。子孫の存在は、セーフティー・ネットたりうるように思う。

人生の意味、というものを設定しないほうがいい。そもそも、人生の意味、は幻想なのだ。人生は、「やれるうちはやったらいい」、というだけではないだろうか。命を懸けて仕事をする人、しなくちゃいけない人は、「人生は厳しいんだ」とはっきり言い切るけれど、成熟した社会においては基本的に、そんなに簡単に命なんか懸けるものじゃないんだと思う。人生において無理をする場合も、「やれるうちはやったっていい」、というだけだ。

人生の送り方に正解は存在しない。だから、ここまでいろいろと論じておきながら、これから述べる結論としての一言はとてもシンプルなところに行き着いてしまっており自分でも驚いてしまうのだけど、つまりは、ルールにのっとった上で(つまり、盗みや殺人などはしないという前提で)好きにするべきなのだ。「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」なのだし、そうであるのだったら、人生は好きにするべきなのだ。

ルール無用の行為だとかグレーゾーン内のズルい行為だとかで、他者を出し抜こう、自分だけ良い目を見よう、とはしない範囲で、人生って好きにするべきなんだ、それこそが善く生きることなんじゃないのだろうか、と今のところの結論がでた。

「人生には意味がある」と、いつしか考えていた自分は危うい。これはどういうことなのか、と考えられるうちに考えておかなければ、心の水面に生じる波の大きさは次第にもっと高く激しくなり、乱れる時間も長くなっていくのかもしれない。時としてそれは、死を望むようになるほどに。

* * *

ここからはおまけとして、わずかながら付記します。上記の結論で満足した方は、読み進まなくて問題ありません(ここまで読んでくださり、ありがとうございます!)。

* * *

では補足するように、ちょっとだけ続けます。

老人を見て、「存在しているというだけで、それだけでいいものなんだ」という洞察のある人ですら、自身に関しては厳しくて狭い価値観をあてていたりなどし、自分が老人になったときには、もはや生きている意味はない、と捉えてしまったりしないだろうか。価値を生み出せないことに罪悪感を感じるのだ。私なんかの場合だと、若い頃に達成したものや残した価値すらないのだから、なおさらだ。余生、という段になって、いままで頑張って価値を創出してきたのだから、休んでもいいのだろう、とはなりにくい。

人は、歳をとってから罪悪感をもってしまうことのないように、身体が動くころには仕事をする、という意味もあるのだろうか。でも、働けないくらいの障がい者の人たちはどうなるのだ。ベッドで寝たきりで仕事を持てない人も少なくないだろう。そういった人たちの人生に意味はないのだろうか。障がい者も、子孫を残さない人も、前進・進歩に傾いている人も、みんなすべての人が人生を精神的に貧しくしないで全うできる人生観があるといい。そしてそれが、「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」、「好きにするべき人生」とはならないだろうか。
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自己肯定感の裏側。

2023-07-19 22:19:38 | 考えの切れ端
僕らが暮らしている競争社会では、「言ったもの勝ち」みたいに、俺のほうが強いんだぜ、と胸を張ったもの勝ちのところがある。ハッタリという戦法があるのもそのためでしょう。そうやって言い張れる、胸を張れるのって、どきどきしながらやっているウブなタイプの人もいるけれど、それらを得意戦術にしている人にとっては自己肯定感がその精神性の源になっていると思います。

僕が学生の頃、周囲を見ていて顕著に目を引いたものに、自分よりランクの高い大学の人たちを「頭でっかちだから」みたいにけなして、自分たちこそがまともだとするスタンスがありました。そのような、自分の属するグループこそが世界の中心あるいは中心を担うべきまっとうな存在だとする自己肯定感ってあって、たとえば競争社会でいくつものトップが乱立するのはこのメンタリティによるのではないでしょうか。もちろん、違う価値観に基づいたそれぞれのトップが乱立するっていう健全なかたちも多く混じっていると思います。

ただ今回、僕が言いたいのは、「努力」や「自分と向かい合い考えること」をあまりせずに自信過剰となり、ただ権力を持ちたいがための自己肯定感についてです。つまり、「向上心」や「内省する心」などの薄い自己肯定感だと言えるでしょう。そういう自己肯定感が、「アイツ生意気だ」みたいな抑圧的な振る舞いにつながる。こういうタイプの自己肯定感は陰湿です。他人の足を引っ張ったりという行為もそうです。

だけどこの、面倒くさいタイプの自己肯定感所持者がなぜ生まれるかというと、やっぱり競争社会で生きていかなければいかないからなんだと思われます。こういう自己肯定感はある意味で「ずる」なんですが、そういったグレーの領域で「おらおら」とやっちゃうのは、白日の下での勝負ではまったく叶わないことが十分にわかっているからでもあります。

公式戦ではまったく勝負にならなくても、でもなんとか競争に勝って生きていかねばならない、それもすぐに勝たないとっていう強迫観念に追われる。さらに、そういった強迫観念をみんなが感じているために、いつしか共有されてしまった強迫観念が真実にしか思えなくなって強迫観念に支配されてしまいがち。その枷が外せないのは、前提を疑ったり、枠組みの外に思いを馳せたりできないからです。なぜなら、そうするためには内省や向上心が必要なので、なおさら気づけないのです。

ネットばかりみていると、そういった種類の自己肯定感ってマジョリティになりつつあるように見受けられる。でも、そういった発言をしている層よりもはるかに分厚いに違いないサイレントの層はおそらくそうではないのだろうと僕は考えます。でもって、社会をなんとか良心的に保っていくのは後者、つまりサイレトの層だし、未来への希望となるのもサイレントの層のほうです。

声を出さずにいると、声の大きな人たちの勢力に席巻されてしまいますが、それでもサイレントの層は、この社会の根っこなのかもしれない。地上の茎や葉がなぎたおされたとき、また芽を出すために頑張るのが根っこです。サイレントの層って、そういった社会のレジリエンスを担っているのではないかなあ、となんとなく考えたりなどするところでした。

これだ! と何かをやると決めたら、あるレベルまでの自己肯定感を持ったほうが馬力がでそうです。だけれど、内省と向上心を持ち合わさないでやたらに自己肯定感だけ強くしていくと、そういう人がいる場が乱れていく気がするのです。

きっと、どんな性質もそうなんですが、ひとつの性質に偏って、それだけ強くすればいいなんてことはないのでしょう。内省と向上心と自己肯定感、その配分のバランスが大切なのかもしれないです。ある種の、自己の揺らぎ、そういった揺らぎの中でこそやっと、「真っ当さ」というものが宿るのではないか、なんて考えるところでした。
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性格は直らない?

2023-05-25 12:56:03 | 考えの切れ端
「あいつ、性格悪いよね」なんて言い方で、とある友人・知人、果ては芸能人や著名人のことについて否定的に言うことがあると思います。でも、「性格が悪い」という見立てはあんまり正確ではないと思うのですが、どうお思いになりますか? 正確ではないとするならば、どう捉えるか。「あの人って、世界観や人間観がちょっとおかしく感じる」。こっちのほうがほんとうに近そうじゃないでしょうか?

自身にしても他者に対しても、多くの人は「悪い性格なんて直らないよ」って思っちゃうものでしょうし、実際、性格をターゲットに自分で頑張ってみたって、他人に指摘してもらったって直らないでしょうけれど、世界観や人間観を変えるほうだったら、性格を変えるよりまだ変わる可能性を感じるのは僕だけかしらん。

世界観や人間観がよりやさしいものへ、というか、建設的にとらえられるものなんだってわかって変われば、その影響で性格は変わりますよね。たとえば認知行動療法は、そういったふうな考え方の上でやることなんでしょう。というわけで、人の性格の基盤のおおきな部分には、世界観や人間観がありそうだ、ということでした。おそまつさまです。
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基本的人権≒個人の秩序。

2023-05-20 09:55:35 | 考えの切れ端
ふと、「基本的人権」の言い換えを思いついたのでした。それはなにかと言えば、「個人の秩序」です。そうやって言い換えを想定してからまず秩序とはどういうものかを考えていき、個人と言うレベルの秩序に当てはめて考えてみる。そうすると、「基本的人権」がよりわかりやすくなると思う。秩序は、安全や安心、そしてその範囲内での効率性を担保するという良い点があります。「個人の秩序」としてみれば、自身の安心や安全、自分と言う単位でする仕事の効率性を生むものだとなります。おまけに、安心や安全ゆえなのかもしれませんが、幸福感や充実感もえられると思います。

で、他者によるものである他律性が個人秩序をつっつくと、秩序で得られる安全や安心が揺らぎます。くわえて、仕事の効率性もゆがめられる。だから、多くの人は他律性を嫌うのです。しかしながら、他律性を排す、イコール自律性を持つこととはならないんです。感覚的にこれはどうも違うと常々考えてきましたが、やっともっとよい言い方へとたどり着きました。「他律性を排す」=「個人の秩序を持ち、保つ」。

秩序はそれに沿わないものを排除したり修正・矯正を強いたりします。個人の秩序でそれをやると、他者の秩序が自分の秩序を脅かすから、その他者に他律性を発揮してしまうというケースが思い浮かびます。そうならないため、「個人の秩序」のイメージは、壁に囲まれたものとするとうまくいくかもしれない。そんな、壁に囲まれた自己を持つ個人同士にはできるだけのフェアなコミュニケーションが必要になる。現在、世の中に跋扈する「自己利益のための行動」は、それを求めるよりまずこのフェアなコミュニケーションを前提とするほうが、社会全体は生きやすい場になります。社会的な生き物として、まず社会の利益や全体的な幸福(理想を求め過ぎず、できるだけの幸福ですけども)を基本的事項としてルールのように優先することで、生きやすさの方向へと世の中の有り方は変化するんじゃないでしょうか。ただ、社会こそを優先! なんていうふうに行き過ぎてしまうのはよくないです。犠牲になってはいけない。欲望の部分に関するところでは、社会を優先するといいのかな、と思います。

というところですが、幸福感や生きやすさは、「個人の秩序」を持ち、守ることから得られるもののように考えられます。そして、それは基本的人権を含むものなのではないでしょうか。というか、ニアリーイコールなのかもしれません。

最後に。「関係性においての自律性」っていう言葉に触れたことがありますが、これについても、「関係性においての秩序」、ととらえてみると、より少人数のグループでの秩序に基づくものであると捉えることができます。介護は、介護者と被介護者との関係性の自律性が大切なんて言われていることがあります。お互いが納得して、一方的に決められるのではない、関係性においての秩序を築き上げられると好いのでしょう。
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精神疾患を地域で看るまでのその一歩は。

2023-05-03 11:32:09 | 考えの切れ端
精神疾患を地域で看る、というやり方は、精神疾患は自己責任や家庭の責任というよりも、どうやら社会の在り方が生むものだ、という気づきが、そのことについて市民が思索や議論をしてみたその果てに得られたから、というのはあるのではないかなあと思うんです。社会の在り方にはもちろん「秩序による排除作用」も含まれます。秩序って、それに沿わないものを矯正したり排除したりして保とうとする性質がありますから。

ヨーロッパでは精神疾患を地域で看るといいますし、日本の精神医療は何十年も遅れているといいますし、そのあたりの違いは、市民の間で、社会の在り方や権力、秩序に対する思索・議論がどれだけなされたか、という部分での民度がものを言っているように思います。フランスでは難しい現代思想の本が、思いのほか売れるなどし、そこがフランスという国のすごいところだ、と『現代思想入門』に書いてあったのを思い出します。20世紀の哲学者、フーコーなんかは、権力についていろいろ考えていて、それを知っているヨーロッパの人たちは市民階級にも比較的多いのかもしれない。

民度って言っても、いろんな面、いろんな軸でのものがありますよね。たとえば日本人のここの民度は世界的にもすごく高いのだけど、この部分の民度は最低だ、みたいに。国民性って言っちゃったらそれで終わってしまいそうだけれど、それで済まない種類の物事もあるんじゃないだろうか。それは権力についてがそうだろうし、落ち着いた態度で注意深くなされる洞察や思索、議論は、ゆっくりとであったとしてもなされたほうがいいでしょう。

そういった話をしても恥ずかしくない雰囲気が出来上がるまでには、けっこうな時間がかかるかもしれません。それでも、志ある人たちは、一歩一歩、やっていくんだと思います。僕もそうありたいです。
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父性と母性から始まる思索。

2023-03-21 18:43:13 | 考えの切れ端
大人になれば、父性も母性も自分の中にあるようになる。言うことを聞くなら愛するという条件付きで愛する父性、無条件で愛する母性。どちらも丁度良くそこにあれば、人の成長を促し助けます。

大人になっても母性を求めるなら幼少期に足りなかったのだろうし、父性を求めるならそれも足りなかったりいびつだったりしたのです。母性が足りなくても父性が足りなくても優劣はつけるものではないし、自らの中に母性・父性がちゃんとあってもマウント条件ではありません。必要であればなんとかしたらよいだけなのではないでしょうか。

そこに優越や、優劣の差をつける見方は、社会構造や文化状況の影響で生まれるんだと思います。つまり、「ところ変われば品変わる」の言葉通りのようなもの。普遍的なものじゃないんです。

生活していて、家族にしても外部からにしても、無条件に父性を強いられたりすることがあるのですが、およそそういったときは、思い込みと決めつけが「てこの原理」のように働いていたりするなあと感じます。父性は強くなければいけない、だとか、自分の信じる秩序にたいして保守的になるタイプの人がいる。それはそれで、安定が手に入ったりなど良い面があるでしょう。でも、「ふたつ良いことさてないものよ」で、その反面、偏見や差別といったものは、堅牢な秩序に沿わないことで生まれたりするのではないでしょうか。僕は後者のほうこそ気がかりなタイプなので、受け付けないんです。

受け付けない、といえば、「力」や「暴力」もそう。これまで、過度な「力」や「暴力」はないほうが良いという立場で生きてきました。でも、河合隼雄さんの『コンプレックス』を読むと、コンプレックスの解消には、そういった過度な「力」や「暴力」の範囲内におさまるような力が「爆発」の形を取って必要になるらしいことがわかる。では、「力」を行使しなくてもいいように、そもそもコンプレックスを持たないようにするといい、と考えてみても、コンプレックスをもたない状態はありえない。解消しきれるものでもないだろうし、それ以前にコンプレックスは自我のエネルギーでもあるのでした。また、ちょっとまどろっこしいですけども、コンプレックス解消によってコンプレックスを自我に取り込めると自我が強くなりもします。

考えちゃいますね。過度な「力」や「暴力」なんてものは、自己コントロールの範囲外だからそういった形になるのだけれども、それらを抑えつけたり生じないように心掛けたりすることって、実は理に反するのかもしれない。そう考えると、「力に抗えないというこのことが人間の業の大きな一つということか」だとか、なんだか原罪的なイメージを持ってしまう。

結局、人間って未完成でアンバランスな存在で。でも、思ったよりうまくやるし、優しかったりもするし。そういうものなんでしょうね。権力といった「力」、「暴力」を全否定するのは、偏った完璧主義なのかもしれません。難しいものです。
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憎まれる意味。

2023-03-06 21:28:04 | 考えの切れ端
自分が誰からも関心を持たれていない状態、つまり無関心にさらされた状態は、人間にとってそうとう危機的なものらしく、無関心にさらされていることを脳が察知すると被害妄想を作り上げるという話があります。そうまでして、無関心から逃れないといけないのです。(これは、イギリス在住のアメリカ人カウンセラーが書いたエッセイにでてきた話です)

この、「無関心にさらされることは人にとってかなりヤバい状況」を踏まえながらなんですが、愛と憎しみは表裏一体なんてよく言われますよね、なぜかというと愛も憎しみもその人に深い関心を持つという点が一緒だからという理解の仕方がひとつあります。

憎まれる人はどうしてそうなるのか。人にどうしても愛され得ないと感じた人が、自分の性格の中での「他者からの憎しみを買いやすいであろう部分」を強調していって、憎まれっ子的な人物になっていく、なぜなら関心を持たれたいから。というのはあるのではないでしょうか。無関心でいられるよりマシ、と。

脳が「無関心にさらされていてとてもヤバい状況」ととらえて被害妄想を作り上げるまでの前段階での予防策が、愛されるか憎まれるかという状況を作ること。それで、おそらく憎まれるほうが素早く達成できる種類のものだから、それを無意識的に選ぶ、なんていう心理があるかもしれない。理屈ではそうだし、誰彼と思い浮かぶところもあります、個人的に。

とにかく、人間って自分に関心をもって欲しいのです。じゃないと病的になってしまうから。承認欲求だって似たようなものだと思います。関心を持ってほしい、という欲求ということですよね。ということは、その承認欲求の程度によっては、それを跳ね除けることって非ケア的であり、いじめや排除であるかもしれない。

そりゃ、なんでもかんでもこっちを見て見て君だとか、肥大した承認欲求だとか、そういうのはこれまで書いたこととは他になんらかの心理的原因があると思います。それはそれで別のケアが要る。そうじゃないならば、お互いに承認し合って、お互いの盲点的危機を浄化させるのが個人としても社会としても健全でしょう。

あいさつしてあいさつを返すだとか、とくに内容の無い会話であっても言葉を交わし合うだとか、考えてみるとこれらは無関心状態の危機を招かないための手段として機能しているものなのではないのかしらん。

というところで、最後に引用を。

「話の内容というのはさして大切なものではないんです。大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」 カポーティ『草の竪琴』(ただ、まあ、『草の竪琴』には「人は、誰かが自分のことを気にかけていると思うと、怯えてしまうものじゃなくて?」というセリフもあるのですが。)
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「DV防止法改正案を閣議決定」から考える。

2023-02-26 12:07:02 | 考えの切れ端
「DV防止法改正案を閣議決定 精神的暴力でも裁判所が保護命令へ」という記事をNHKニュースで読みました。<政府は身体的な暴力だけでなく、ことばや態度による精神的な暴力でも、裁判所が被害者に近づくことなどを禁止する「保護命令」を出せるようにするDV防止法の改正案を、24日の閣議で決定しました。>とあります。

確かに必要だなと思ったのです。今までこういった精神面への暴力が身体面の暴力に比べて軽視されていたのですが、精神面へのダメージだって深刻なんですよね、という意識が具現化したものだからです。それに、実際面、そういう被害のある人が逃げるための逃げ道が細い道であっても無いよりはよっぽど良いのではないか、とちょっと単純かもしれないけれど、思うのでした。この逃げ道を補強するべく、NPOなんかが手助けしてくれるとより被害者は生きづらさから逃げ出しやすくなるでしょう。

ただ、僕が引っかかるのは、加害する側へは罰則だけだろうところです。いや、ケアもするのだろうけれど、社会的に表立って明らかにされていないように思いました。「保護命令」と同じくらいに加害側のケアも必要。正直「加害者ケア命令」も欲しい。放っておくべきじゃないのです。放っておかない社会を子どもたちが見て育つしますしね。

加害側は罰則で対応する、というのとは別方向の見方をすることが必要なのではないか。加害側がDVをするのは、加害側が精神面に大きな問題を抱えているからです。ケアをして、社会に戻す。罰則だけで社会に戻していても対症療法にすらならないのではないでしょうか。暴力衝動をケアされない人たちを是認する社会自体も問題でしょう。

ちょっと裏読みしてしまうけれど、人々の暴力性をうまく使ってやれ、利用してやれ、なんていう密かな思惑だって権力側にはあるんだろうから、そういうものが暗黙の中に無いようにする、白日の下で論じられるようにする、そういった透明性が欲しいと僕なんかは思うのです。逆に言えば暴力利用の意識が薄まらないと暴力も減っていかないのではないでしょうか。

山極寿一さんの『暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る』に書いてあったと思うのだけど、食べ物と性があるかぎり、欲望が暴力を産んで無くならないというような知見がありました。けれども、たとえそうであっても人間の「理性」はその根源的な暴力衝動を緩和させるのではないか、と僕は人間の理性とその発達に賭けたくなるのです。

理性とは、謙虚さであり客観性でもあります。そういったところをヒントにして、より生きづらさを解消できた社会になるといいのになあ、と思うのでした。
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いじめる側の人をマイノリティとしてケアすること。

2023-02-10 00:26:23 | 考えの切れ端
いじめた側よりもいじめられた側をカウンセリングしたり配置転換や転校をさせたり、働きかけるのはいつもいじめられた側だったりする。いじめた側は「ごめんなさい」とちょっとめそめそしたら「次、またやったらもっと罰があるぞ」くらいで終わる。いじめた側へのケアがないのだ。

人をいじめてもケアされずに大人になって社会に出て、という流れがずっと続いているのだと思う。大昔から連綿と。そうやって大人になった人たちが是認される仕組みの社会だから、パワハラなどのハラスメントが多発するのではないだろうか。

それは強さとはどういうものかという問いへの勘違いからきている。というか、あまりにも当たり前だから前提を疑う空隙すらなく勘違いしている。なぜって、いじめる側から大人になっていった人たちに重心が置かれた社会だから。

いじめる側のほうがマイノリティになってしまう社会のほうがまだ本当じゃないかな(とはいえ、そういう真っ当な社会ならば、時間と労力をかけていじめた側をケアして、マジョリティに復帰させるでしょう)。重心が違うんです。あべこべのようだけど、現状こそがあべこべ。ゆえに苦しむ人が多いのでは?

以前読んだ本(岩波ジュニア新書だったと思います)に、北欧の国々などでは、いじめられた側よりもいじめた側の心に問題があると判断してケアするとありました。社会を作っていくのは、人をいじめるくらいの腕っぷしの強い(そしてアクの強い)人たちじゃないといけない、みたいな精神的マッチョを基盤とするのが常識のようになって強い風潮を作り出していたりしませんか。

そうやって出来上がった社会は、言うまでもなく、人にやさしくはならないです。他者をいじめてもケアされることのなかったために、自身に大きな問題を抱えたままでいて、しかしながら自分では解決できず、そのまま生活し続けてそのために他者によくない影響を与えてしまう人たちが、おそらくマジョリティなんだと思います。

それなりに多くの人々が、社会の足元の「前提」に対してまず疑問を持って、本当だったならそうじゃないはずという自覚ができると、生きづらさは少しずつ緩まると思います。

政治の出番はそれからな気もするんですが、どうでしょうか?
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不安に蝕まれないために、孤独であっても持ちたくない孤立感。

2022-12-26 22:46:07 | 考えの切れ端
世の中全体、つまり世間一般的な多くの人たちはさまざまな不安を抱えながら生きています。その不安が強迫観念を生んだり、なんでもない他者の言動に悪意を読み取るなどの認知の歪みを生んだりします。そして不安は、個人を苦しめるばかりか、世の風潮や空気までをも強迫観念的な状態へとつくりあげているように僕には見受けられるのです。

<不安ってどこから来るのだろう?>
不安はほとんど孤立感によってもたらされる、といいます。

______

人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。  (エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』p23-24)
______

ここにさらに別方向からも、どうして孤立感は不安を生むのか、と考えてみます。思いつくのは、孤立してもなお一人でやっていける自信を持つ人なんてまずいないから、というのはあるのではないかということです。だからフロムの言っていることと合わせて考えてみても、他者と繋がり、相互に依存しつつ生きていくというのが最適解になるのだろうという一つの答えが導き出されます。

<「脱孤立感」のために。>
他者と繋がるには人を信じる力が要ります。信じられない他者とは有益な意思疎通や情報交換を望むのはなかなか難しいです。人を信じてこそ、言葉も信じられます。人を信じるには、他者がどういう人かを知る洞察力が要ります。だけど、出合い頭の洞察力だけでは洞察の精度は低い。ですからさらに、他者を知るための情報探求力が要るのです、他者の情報を多く集めてから洞察するために。
くわえて、洞察の一般的な基準となるものさしを知るために、自分が知りたい特定の他者の情報だけではなくて、世間一般の他者全般について、常識的な範囲やスタンダードな感覚を知るための情報探求も要ります。

他者と繋がること、そのために他者を信じること、さらにそれ以前に他者を知るための洞察力と探求力が要るというわけなのです。
ということは、裏返しにしてみると、洞察不良な人が他者を信じられなくなるのが論理的にわかることになります。洞察不良は認知の歪みからくるといいます。そして認知の歪みは不安からくるといわれますし、その不安は孤立感からきます。

つよい孤立感を持ってしまってもなお土俵際でねばれるように、次の一手を打ち逆転してくためには、ちょっとでも自分に自信があったほうが良いのです。孤立感に陥っても、自身に対する健全な範囲での自信を持っていれば、少しの間、その孤立感に耐えられて、孤立感を打破してくためのアクションを起こせる体力のようなものが残されているものなのではないか。

<ひとりきりで「自信を持とう」として陥る罠。>
自信がない人が自分でする処方箋が、権威を信用すること。自分での判断に自信がないので、自分が尊敬できる人に聞いただとか、ニュース番組で見ただとか、新聞や本で読んだだとかいった情報を信用して、絶対的とでもいえるような地位にそれを置き、寄り掛かるのです。
これは不健全なやり方で、ますます自分を信じられなくなる傾向を強めると思われます。つまり観念的なんです。実際に目に見えている現実よりも、他者から与えられた観念のほうが正しいとするのですから。喩えるなら、ほかほかのご飯を目の前にしても、誰かが権威的に「これは蝋細工だ」といったなら、その人は、これは蝋細工でできているから食べられない、と本気で思いそう行動してしまうような感じでしょう、極端ではありますが。

<「健全な自信」のため、コフートの自己心理学を用いる。>
では、健全に自分に自信を持つようにする、それも無理なくするにはどうしたらよいか。それには幼少時の父母からの声かけが大きな意味を持ちます。となると、大人になったら無理なのか、とお思いになるでしょうけれども、大人になっても友人などの声かけで効果が望めます。これにはコフートの自己心理学の考え方が使えるのでした。(コフートの自己心理学はフロイト学派から枝分かれしたもので、米国では主流のひとつに数えられる精神分析の手法です)

「鏡」「理想化」「双子」というのがコフートの自己心理学における考え方の三つのカギです。

「鏡」は、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。

「理想化」は、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。

「双子」は、父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。

理論上、これらを用いることによって自己愛が支えられることにより、自分自身に自信が持てるようになっていく。そうなれば、不安というものも、不健全なまでの量や深さまで抱えることも、かなり少なくなるのではないでしょうか。

<「人生って良いなー」と思うために。>
そうなれば、個人の生きやすさは向上し、つれて世の中の風潮の健全さも増すのではないか、そう僕は考えるのでした。
仕組みといいますか、道筋といいますか、そういったものは以上のように説明できます。ただ、人間は多様でいろいろな方がいるものです。様々な精神的傾向があり、医者にかかっていなくとも病の領域に足を踏み入れている方も珍しくありません。
それでも、健全さが広まっていって、世に「人にやさしい機運」が高まれば、少しずつ、生きづらさが解消されていく人は増えると思うのです。
ほんとうにちょっとずつでも、幸福感やQOL、いえ、そういう言葉を使わなくても、「人生って良いなー」って思える総時間が増えていけばいい。そう切に願いながら、本稿を書かせていただきました。
他者の役割ってものは、ほんとうに大きいですね。



参考文献:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
     亀井士郎 松永寿人『強迫症を治す』
     和田秀樹 『自分が「自分」でいられる コフート心理学入門』
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