Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

性格は直らない?

2023-05-25 12:56:03 | 考えの切れ端
「あいつ、性格悪いよね」なんて言い方で、とある友人・知人、果ては芸能人や著名人のことについて否定的に言うことがあると思います。でも、「性格が悪い」という見立てはあんまり正確ではないと思うのですが、どうお思いになりますか? 正確ではないとするならば、どう捉えるか。「あの人って、世界観や人間観がちょっとおかしく感じる」。こっちのほうがほんとうに近そうじゃないでしょうか?

自身にしても他者に対しても、多くの人は「悪い性格なんて直らないよ」って思っちゃうものでしょうし、実際、性格をターゲットに自分で頑張ってみたって、他人に指摘してもらったって直らないでしょうけれど、世界観や人間観を変えるほうだったら、性格を変えるよりまだ変わる可能性を感じるのは僕だけかしらん。

世界観や人間観がよりやさしいものへ、というか、建設的にとらえられるものなんだってわかって変われば、その影響で性格は変わりますよね。たとえば認知行動療法は、そういったふうな考え方の上でやることなんでしょう。というわけで、人の性格の基盤のおおきな部分には、世界観や人間観がありそうだ、ということでした。おそまつさまです。
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基本的人権≒個人の秩序。

2023-05-20 09:55:35 | 考えの切れ端
ふと、「基本的人権」の言い換えを思いついたのでした。それはなにかと言えば、「個人の秩序」です。そうやって言い換えを想定してからまず秩序とはどういうものかを考えていき、個人と言うレベルの秩序に当てはめて考えてみる。そうすると、「基本的人権」がよりわかりやすくなると思う。秩序は、安全や安心、そしてその範囲内での効率性を担保するという良い点があります。「個人の秩序」としてみれば、自身の安心や安全、自分と言う単位でする仕事の効率性を生むものだとなります。おまけに、安心や安全ゆえなのかもしれませんが、幸福感や充実感もえられると思います。

で、他者によるものである他律性が個人秩序をつっつくと、秩序で得られる安全や安心が揺らぎます。くわえて、仕事の効率性もゆがめられる。だから、多くの人は他律性を嫌うのです。しかしながら、他律性を排す、イコール自律性を持つこととはならないんです。感覚的にこれはどうも違うと常々考えてきましたが、やっともっとよい言い方へとたどり着きました。「他律性を排す」=「個人の秩序を持ち、保つ」。

秩序はそれに沿わないものを排除したり修正・矯正を強いたりします。個人の秩序でそれをやると、他者の秩序が自分の秩序を脅かすから、その他者に他律性を発揮してしまうというケースが思い浮かびます。そうならないため、「個人の秩序」のイメージは、壁に囲まれたものとするとうまくいくかもしれない。そんな、壁に囲まれた自己を持つ個人同士にはできるだけのフェアなコミュニケーションが必要になる。現在、世の中に跋扈する「自己利益のための行動」は、それを求めるよりまずこのフェアなコミュニケーションを前提とするほうが、社会全体は生きやすい場になります。社会的な生き物として、まず社会の利益や全体的な幸福(理想を求め過ぎず、できるだけの幸福ですけども)を基本的事項としてルールのように優先することで、生きやすさの方向へと世の中の有り方は変化するんじゃないでしょうか。ただ、社会こそを優先! なんていうふうに行き過ぎてしまうのはよくないです。犠牲になってはいけない。欲望の部分に関するところでは、社会を優先するといいのかな、と思います。

というところですが、幸福感や生きやすさは、「個人の秩序」を持ち、守ることから得られるもののように考えられます。そして、それは基本的人権を含むものなのではないでしょうか。というか、ニアリーイコールなのかもしれません。

最後に。「関係性においての自律性」っていう言葉に触れたことがありますが、これについても、「関係性においての秩序」、ととらえてみると、より少人数のグループでの秩序に基づくものであると捉えることができます。介護は、介護者と被介護者との関係性の自律性が大切なんて言われていることがあります。お互いが納得して、一方的に決められるのではない、関係性においての秩序を築き上げられると好いのでしょう。
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精神疾患を地域で看るまでのその一歩は。

2023-05-03 11:32:09 | 考えの切れ端
精神疾患を地域で看る、というやり方は、精神疾患は自己責任や家庭の責任というよりも、どうやら社会の在り方が生むものだ、という気づきが、そのことについて市民が思索や議論をしてみたその果てに得られたから、というのはあるのではないかなあと思うんです。社会の在り方にはもちろん「秩序による排除作用」も含まれます。秩序って、それに沿わないものを矯正したり排除したりして保とうとする性質がありますから。

ヨーロッパでは精神疾患を地域で看るといいますし、日本の精神医療は何十年も遅れているといいますし、そのあたりの違いは、市民の間で、社会の在り方や権力、秩序に対する思索・議論がどれだけなされたか、という部分での民度がものを言っているように思います。フランスでは難しい現代思想の本が、思いのほか売れるなどし、そこがフランスという国のすごいところだ、と『現代思想入門』に書いてあったのを思い出します。20世紀の哲学者、フーコーなんかは、権力についていろいろ考えていて、それを知っているヨーロッパの人たちは市民階級にも比較的多いのかもしれない。

民度って言っても、いろんな面、いろんな軸でのものがありますよね。たとえば日本人のここの民度は世界的にもすごく高いのだけど、この部分の民度は最低だ、みたいに。国民性って言っちゃったらそれで終わってしまいそうだけれど、それで済まない種類の物事もあるんじゃないだろうか。それは権力についてがそうだろうし、落ち着いた態度で注意深くなされる洞察や思索、議論は、ゆっくりとであったとしてもなされたほうがいいでしょう。

そういった話をしても恥ずかしくない雰囲気が出来上がるまでには、けっこうな時間がかかるかもしれません。それでも、志ある人たちは、一歩一歩、やっていくんだと思います。僕もそうありたいです。
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父性と母性から始まる思索。

2023-03-21 18:43:13 | 考えの切れ端
大人になれば、父性も母性も自分の中にあるようになる。言うことを聞くなら愛するという条件付きで愛する父性、無条件で愛する母性。どちらも丁度良くそこにあれば、人の成長を促し助けます。

大人になっても母性を求めるなら幼少期に足りなかったのだろうし、父性を求めるならそれも足りなかったりいびつだったりしたのです。母性が足りなくても父性が足りなくても優劣はつけるものではないし、自らの中に母性・父性がちゃんとあってもマウント条件ではありません。必要であればなんとかしたらよいだけなのではないでしょうか。

そこに優越や、優劣の差をつける見方は、社会構造や文化状況の影響で生まれるんだと思います。つまり、「ところ変われば品変わる」の言葉通りのようなもの。普遍的なものじゃないんです。

生活していて、家族にしても外部からにしても、無条件に父性を強いられたりすることがあるのですが、およそそういったときは、思い込みと決めつけが「てこの原理」のように働いていたりするなあと感じます。父性は強くなければいけない、だとか、自分の信じる秩序にたいして保守的になるタイプの人がいる。それはそれで、安定が手に入ったりなど良い面があるでしょう。でも、「ふたつ良いことさてないものよ」で、その反面、偏見や差別といったものは、堅牢な秩序に沿わないことで生まれたりするのではないでしょうか。僕は後者のほうこそ気がかりなタイプなので、受け付けないんです。

受け付けない、といえば、「力」や「暴力」もそう。これまで、過度な「力」や「暴力」はないほうが良いという立場で生きてきました。でも、河合隼雄さんの『コンプレックス』を読むと、コンプレックスの解消には、そういった過度な「力」や「暴力」の範囲内におさまるような力が「爆発」の形を取って必要になるらしいことがわかる。では、「力」を行使しなくてもいいように、そもそもコンプレックスを持たないようにするといい、と考えてみても、コンプレックスをもたない状態はありえない。解消しきれるものでもないだろうし、それ以前にコンプレックスは自我のエネルギーでもあるのでした。また、ちょっとまどろっこしいですけども、コンプレックス解消によってコンプレックスを自我に取り込めると自我が強くなりもします。

考えちゃいますね。過度な「力」や「暴力」なんてものは、自己コントロールの範囲外だからそういった形になるのだけれども、それらを抑えつけたり生じないように心掛けたりすることって、実は理に反するのかもしれない。そう考えると、「力に抗えないというこのことが人間の業の大きな一つということか」だとか、なんだか原罪的なイメージを持ってしまう。

結局、人間って未完成でアンバランスな存在で。でも、思ったよりうまくやるし、優しかったりもするし。そういうものなんでしょうね。権力といった「力」、「暴力」を全否定するのは、偏った完璧主義なのかもしれません。難しいものです。
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憎まれる意味。

2023-03-06 21:28:04 | 考えの切れ端
自分が誰からも関心を持たれていない状態、つまり無関心にさらされた状態は、人間にとってそうとう危機的なものらしく、無関心にさらされていることを脳が察知すると被害妄想を作り上げるという話があります。そうまでして、無関心から逃れないといけないのです。(これは、イギリス在住のアメリカ人カウンセラーが書いたエッセイにでてきた話です)

この、「無関心にさらされることは人にとってかなりヤバい状況」を踏まえながらなんですが、愛と憎しみは表裏一体なんてよく言われますよね、なぜかというと愛も憎しみもその人に深い関心を持つという点が一緒だからという理解の仕方がひとつあります。

憎まれる人はどうしてそうなるのか。人にどうしても愛され得ないと感じた人が、自分の性格の中での「他者からの憎しみを買いやすいであろう部分」を強調していって、憎まれっ子的な人物になっていく、なぜなら関心を持たれたいから。というのはあるのではないでしょうか。無関心でいられるよりマシ、と。

脳が「無関心にさらされていてとてもヤバい状況」ととらえて被害妄想を作り上げるまでの前段階での予防策が、愛されるか憎まれるかという状況を作ること。それで、おそらく憎まれるほうが素早く達成できる種類のものだから、それを無意識的に選ぶ、なんていう心理があるかもしれない。理屈ではそうだし、誰彼と思い浮かぶところもあります、個人的に。

とにかく、人間って自分に関心をもって欲しいのです。じゃないと病的になってしまうから。承認欲求だって似たようなものだと思います。関心を持ってほしい、という欲求ということですよね。ということは、その承認欲求の程度によっては、それを跳ね除けることって非ケア的であり、いじめや排除であるかもしれない。

そりゃ、なんでもかんでもこっちを見て見て君だとか、肥大した承認欲求だとか、そういうのはこれまで書いたこととは他になんらかの心理的原因があると思います。それはそれで別のケアが要る。そうじゃないならば、お互いに承認し合って、お互いの盲点的危機を浄化させるのが個人としても社会としても健全でしょう。

あいさつしてあいさつを返すだとか、とくに内容の無い会話であっても言葉を交わし合うだとか、考えてみるとこれらは無関心状態の危機を招かないための手段として機能しているものなのではないのかしらん。

というところで、最後に引用を。

「話の内容というのはさして大切なものではないんです。大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」 カポーティ『草の竪琴』(ただ、まあ、『草の竪琴』には「人は、誰かが自分のことを気にかけていると思うと、怯えてしまうものじゃなくて?」というセリフもあるのですが。)
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「DV防止法改正案を閣議決定」から考える。

2023-02-26 12:07:02 | 考えの切れ端
「DV防止法改正案を閣議決定 精神的暴力でも裁判所が保護命令へ」という記事をNHKニュースで読みました。<政府は身体的な暴力だけでなく、ことばや態度による精神的な暴力でも、裁判所が被害者に近づくことなどを禁止する「保護命令」を出せるようにするDV防止法の改正案を、24日の閣議で決定しました。>とあります。

確かに必要だなと思ったのです。今までこういった精神面への暴力が身体面の暴力に比べて軽視されていたのですが、精神面へのダメージだって深刻なんですよね、という意識が具現化したものだからです。それに、実際面、そういう被害のある人が逃げるための逃げ道が細い道であっても無いよりはよっぽど良いのではないか、とちょっと単純かもしれないけれど、思うのでした。この逃げ道を補強するべく、NPOなんかが手助けしてくれるとより被害者は生きづらさから逃げ出しやすくなるでしょう。

ただ、僕が引っかかるのは、加害する側へは罰則だけだろうところです。いや、ケアもするのだろうけれど、社会的に表立って明らかにされていないように思いました。「保護命令」と同じくらいに加害側のケアも必要。正直「加害者ケア命令」も欲しい。放っておくべきじゃないのです。放っておかない社会を子どもたちが見て育つしますしね。

加害側は罰則で対応する、というのとは別方向の見方をすることが必要なのではないか。加害側がDVをするのは、加害側が精神面に大きな問題を抱えているからです。ケアをして、社会に戻す。罰則だけで社会に戻していても対症療法にすらならないのではないでしょうか。暴力衝動をケアされない人たちを是認する社会自体も問題でしょう。

ちょっと裏読みしてしまうけれど、人々の暴力性をうまく使ってやれ、利用してやれ、なんていう密かな思惑だって権力側にはあるんだろうから、そういうものが暗黙の中に無いようにする、白日の下で論じられるようにする、そういった透明性が欲しいと僕なんかは思うのです。逆に言えば暴力利用の意識が薄まらないと暴力も減っていかないのではないでしょうか。

山極寿一さんの『暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る』に書いてあったと思うのだけど、食べ物と性があるかぎり、欲望が暴力を産んで無くならないというような知見がありました。けれども、たとえそうであっても人間の「理性」はその根源的な暴力衝動を緩和させるのではないか、と僕は人間の理性とその発達に賭けたくなるのです。

理性とは、謙虚さであり客観性でもあります。そういったところをヒントにして、より生きづらさを解消できた社会になるといいのになあ、と思うのでした。
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いじめる側の人をマイノリティとしてケアすること。

2023-02-10 00:26:23 | 考えの切れ端
いじめた側よりもいじめられた側をカウンセリングしたり配置転換や転校をさせたり、働きかけるのはいつもいじめられた側だったりする。いじめた側は「ごめんなさい」とちょっとめそめそしたら「次、またやったらもっと罰があるぞ」くらいで終わる。いじめた側へのケアがないのだ。

人をいじめてもケアされずに大人になって社会に出て、という流れがずっと続いているのだと思う。大昔から連綿と。そうやって大人になった人たちが是認される仕組みの社会だから、パワハラなどのハラスメントが多発するのではないだろうか。

それは強さとはどういうものかという問いへの勘違いからきている。というか、あまりにも当たり前だから前提を疑う空隙すらなく勘違いしている。なぜって、いじめる側から大人になっていった人たちに重心が置かれた社会だから。

いじめる側のほうがマイノリティになってしまう社会のほうがまだ本当じゃないかな(とはいえ、そういう真っ当な社会ならば、時間と労力をかけていじめた側をケアして、マジョリティに復帰させるでしょう)。重心が違うんです。あべこべのようだけど、現状こそがあべこべ。ゆえに苦しむ人が多いのでは?

以前読んだ本(岩波ジュニア新書だったと思います)に、北欧の国々などでは、いじめられた側よりもいじめた側の心に問題があると判断してケアするとありました。社会を作っていくのは、人をいじめるくらいの腕っぷしの強い(そしてアクの強い)人たちじゃないといけない、みたいな精神的マッチョを基盤とするのが常識のようになって強い風潮を作り出していたりしませんか。

そうやって出来上がった社会は、言うまでもなく、人にやさしくはならないです。他者をいじめてもケアされることのなかったために、自身に大きな問題を抱えたままでいて、しかしながら自分では解決できず、そのまま生活し続けてそのために他者によくない影響を与えてしまう人たちが、おそらくマジョリティなんだと思います。

それなりに多くの人々が、社会の足元の「前提」に対してまず疑問を持って、本当だったならそうじゃないはずという自覚ができると、生きづらさは少しずつ緩まると思います。

政治の出番はそれからな気もするんですが、どうでしょうか?
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不安に蝕まれないために、孤独であっても持ちたくない孤立感。

2022-12-26 22:46:07 | 考えの切れ端
世の中全体、つまり世間一般的な多くの人たちはさまざまな不安を抱えながら生きています。その不安が強迫観念を生んだり、なんでもない他者の言動に悪意を読み取るなどの認知の歪みを生んだりします。そして不安は、個人を苦しめるばかりか、世の風潮や空気までをも強迫観念的な状態へとつくりあげているように僕には見受けられるのです。

<不安ってどこから来るのだろう?>
不安はほとんど孤立感によってもたらされる、といいます。

______

人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。  (エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』p23-24)
______

ここにさらに別方向からも、どうして孤立感は不安を生むのか、と考えてみます。思いつくのは、孤立してもなお一人でやっていける自信を持つ人なんてまずいないから、というのはあるのではないかということです。だからフロムの言っていることと合わせて考えてみても、他者と繋がり、相互に依存しつつ生きていくというのが最適解になるのだろうという一つの答えが導き出されます。

<「脱孤立感」のために。>
他者と繋がるには人を信じる力が要ります。信じられない他者とは有益な意思疎通や情報交換を望むのはなかなか難しいです。人を信じてこそ、言葉も信じられます。人を信じるには、他者がどういう人かを知る洞察力が要ります。だけど、出合い頭の洞察力だけでは洞察の精度は低い。ですからさらに、他者を知るための情報探求力が要るのです、他者の情報を多く集めてから洞察するために。
くわえて、洞察の一般的な基準となるものさしを知るために、自分が知りたい特定の他者の情報だけではなくて、世間一般の他者全般について、常識的な範囲やスタンダードな感覚を知るための情報探求も要ります。

他者と繋がること、そのために他者を信じること、さらにそれ以前に他者を知るための洞察力と探求力が要るというわけなのです。
ということは、裏返しにしてみると、洞察不良な人が他者を信じられなくなるのが論理的にわかることになります。洞察不良は認知の歪みからくるといいます。そして認知の歪みは不安からくるといわれますし、その不安は孤立感からきます。

つよい孤立感を持ってしまってもなお土俵際でねばれるように、次の一手を打ち逆転してくためには、ちょっとでも自分に自信があったほうが良いのです。孤立感に陥っても、自身に対する健全な範囲での自信を持っていれば、少しの間、その孤立感に耐えられて、孤立感を打破してくためのアクションを起こせる体力のようなものが残されているものなのではないか。

<ひとりきりで「自信を持とう」として陥る罠。>
自信がない人が自分でする処方箋が、権威を信用すること。自分での判断に自信がないので、自分が尊敬できる人に聞いただとか、ニュース番組で見ただとか、新聞や本で読んだだとかいった情報を信用して、絶対的とでもいえるような地位にそれを置き、寄り掛かるのです。
これは不健全なやり方で、ますます自分を信じられなくなる傾向を強めると思われます。つまり観念的なんです。実際に目に見えている現実よりも、他者から与えられた観念のほうが正しいとするのですから。喩えるなら、ほかほかのご飯を目の前にしても、誰かが権威的に「これは蝋細工だ」といったなら、その人は、これは蝋細工でできているから食べられない、と本気で思いそう行動してしまうような感じでしょう、極端ではありますが。

<「健全な自信」のため、コフートの自己心理学を用いる。>
では、健全に自分に自信を持つようにする、それも無理なくするにはどうしたらよいか。それには幼少時の父母からの声かけが大きな意味を持ちます。となると、大人になったら無理なのか、とお思いになるでしょうけれども、大人になっても友人などの声かけで効果が望めます。これにはコフートの自己心理学の考え方が使えるのでした。(コフートの自己心理学はフロイト学派から枝分かれしたもので、米国では主流のひとつに数えられる精神分析の手法です)

「鏡」「理想化」「双子」というのがコフートの自己心理学における考え方の三つのカギです。

「鏡」は、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。

「理想化」は、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。

「双子」は、父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。

理論上、これらを用いることによって自己愛が支えられることにより、自分自身に自信が持てるようになっていく。そうなれば、不安というものも、不健全なまでの量や深さまで抱えることも、かなり少なくなるのではないでしょうか。

<「人生って良いなー」と思うために。>
そうなれば、個人の生きやすさは向上し、つれて世の中の風潮の健全さも増すのではないか、そう僕は考えるのでした。
仕組みといいますか、道筋といいますか、そういったものは以上のように説明できます。ただ、人間は多様でいろいろな方がいるものです。様々な精神的傾向があり、医者にかかっていなくとも病の領域に足を踏み入れている方も珍しくありません。
それでも、健全さが広まっていって、世に「人にやさしい機運」が高まれば、少しずつ、生きづらさが解消されていく人は増えると思うのです。
ほんとうにちょっとずつでも、幸福感やQOL、いえ、そういう言葉を使わなくても、「人生って良いなー」って思える総時間が増えていけばいい。そう切に願いながら、本稿を書かせていただきました。
他者の役割ってものは、ほんとうに大きいですね。



参考文献:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
     亀井士郎 松永寿人『強迫症を治す』
     和田秀樹 『自分が「自分」でいられる コフート心理学入門』
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何故、知恵や知識はかんたんにもっとシェアされないのか?

2022-08-14 22:32:04 | 考えの切れ端
これまで受けてきた学校教育によって、無料で得たという心積もりでたくさんの知識を蓄えて知的興奮を味わう経験してきますよね、勉強するのが好きな人たちというか、知的好奇心が強い人たちは。そしてそういった人たちが大人に近づき、世の中にはもっとたくさんの知識や理論、世知にいたるまでが広く存在しているだろうことを知る。人生の先輩たちは自分よりうまい方法を知っていて、どうやら得の仕方も知っているのを知ります。

それらの方法や知恵を無料で分け与えてくれないだなんて、世の中を発展させ、よりよくしていくんだっていうピュアな論理からすればおかしいじゃないか、教えてくれれば自分はうまく人生を成功させて、そのお返しだって他者へできるだけする、という考えを持つ人は珍しくないと思います。若いころには僕もそうだった。

義務教育や高等教育の延長戦、社会は次世代の人々を育てるべきものに決まってるんだ、という世界観。それはそれで、なぜ学校へいかないといけないのか、と考えれば出てくる視点で、いたってノーマルな答えだと僕は思う。知識や知恵、考える力を育む理由は世の中を先へ先へと進めていくためで、そのためにはもっと最先端の知恵や知識までをもシェアしてほしくもなるものでしょう。

人生の先輩たちはもうわかってる知恵や知識なのに、私たちへと学校のように教えてくれないなんてケチだ、と。出そろってる知識は隠さずに囲わずにシェアして当たり前じゃないか、じゃないと教育で教わるまでの範囲でぶちっときられてしまうみたいで、中途半端な教育を受けてきただけのように感じられる。実践へ足を踏みいれるにしては、手持ちのアイテムを少なく感じる。

知恵や知識をみんなシェアしてもらえたら、それらを土台にして社会を劇的にあたらしく拡張していくべきミッションにつくことができるし、全力でそのミッションにあたれる。それだけの道具・アイテムをケチらずにくれよ、という主張だ。これには、ピュアな善、なんて言いたくなります。

これはある意味で真っ当だし、ある意味で図々しい。なぜ図々しいかと言えば、資本主義の競争社会の仕組みに照らせば、自分だけの勝利を他者に飲ませるとも見られるから。つまり資本主義社会はクリーンじゃないからこそ、富の競争が成立しています(とはいえ、ルールはありますが)。

あと、知識や知恵をどんどん手に入れたいという欲求はまともでも、かんたんに手に入れてしまうと弊害があります。ある種の身体性のともなっていない知識や知恵は、害なんです。あたまでっかち、なんていうのはその一例です。

あたまでっかちくらいで済めばいいですが、身体性の薄い知恵や知識は砂上の楼閣で、それこそすぐに失敗せず、ある程度までうまく組み立てて行けたとしても最後には崩れてしまう。それも、失敗が遅ければ遅いほど被害が大きい。

というわけで、どうしても時間がかかるもの、時間をかけないといけないものはあるし、競争社会という世の中の仕組みに合わないからフリーでは得られにくい知識はあるということでした。若いうちにはみんなで繋がれば素晴らしい発展があるという理想を持つことがあり、知恵のシェアもその一つだと思う。みんなの力を合わせれば、すごいことをやれるのに! という思想ってありますよね。

まあ、そこに、もっといえば、人間心理ってまっさらなくらいに健全ではないし、健全じゃない度合いの相当に高い人だっているし、みんなが集まれば千差万別で多様な色合いを含んだ集団になる。力の合わせ方にも工夫が必要にもなる。少人数のグループなら、うまく稼働できるかもしれませんが、それだと、そのグループがあたまひとつ抜けるような成長をしたとき、そのグループによる寡占が起こったりする。それはそれで、初期衝動を生じさせた思想とは相いれない結果なのではないでしょうか。そうなったとき、「まあ、いいか」で済んでしまったりするんですけどね。

身体性と、そしてしたたかさ、これがどうやら世の中の発展の鍵なんじゃないかなあ、と僕は考えるところでした。
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雇用の流動化を考えるときに。

2022-07-24 10:47:22 | 考えの切れ端
雇用の流動化。かいつまむと、転職しやすい社会のこと。人材が流動化すると、産業が発展しやすくなるのではないかと言われていたと思います。しかし、今って雇用の流動化は盛んではないですね?

雇用の流動化が起こりにくいのは、新たな仕事に対する不安のためというよりも、新たな職場で再び自分の立ち位置を構築しなければならないことへのプレッシャーや不安のため、というほうが大きいのではないか。

現場では、つまりひとつの職場の話ではですが、「陣取り合戦」のような、駆け引きや威圧やコミュニケーションなどを含む人間関係のあれやこれやを全力で駆使してその職場での自分の立ち位置を長い時間をかけて確保することが多いように見えます。いわゆる、権力闘争が激しくてつらいというような。

立ち位置が確保できれば、比較的安穏な気持ちで仕事ができる。でもそれまでが大変で、それを職場が変わるたびに、つまり二度も三度も、くり返すのが人々にとって実に重荷だから、他人を蹴落としてでも一つの職場にい続けたいのではないかと思った。

仕事の内容よりも、そういった、職場で自分の立ち位置を確保できるか否かのほうが多くの人々にとっての死活問題で、雇用の流動化を進めたいならば、この問題を緩和なり解決なりしないとならないのではないか。さて、どうしたら……??
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