Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『リトル・バイ・リトル』

2020-11-23 01:29:51 | 読書。
読書。
『リトル・バイ・リトル』 島本理生
を読んだ。

高校を卒業したばかりのふみという女の子の主人公と、彼女の母、そして父親の違う小学二年生の妹の三人家族を中心としながら、その家族の内にばかりいたふみが、少しずつ、外の世界に触れていく物語。

ふみは、ぴょんと障害物を飛び越えるようにではなく、すうっと自然なかんじで外の世界に足を踏み入れていく。その何気ない感じが、ふみの無意識から発せられるベクトルに静かにゆっくりと従ったかのようでもあります。「いつもは思慮深い」なんて母親に評されている場面がありますが、無理をせずに自分の歩幅の範囲内で外の世界に足を踏み入れてみるということをしている。これが、ふみが外の世界を知りその空気を吸っては吐いてを繰り返すという行為につながり、すなわちそのことによって少しずつオトナへの成長を促されていくことになります。と同時に、ふみの場合、自分ではうまく気づくことができずにこころに抱えているちいさな歪みがあり、それを結果的に外の世界の方から整えてもらうということが起きています。こっちも少しずつ(つまり「リトル・バイ・リトル」ですね)、といった風でした。ふみの無意識はそのあたりをちゃんとわかっているかのようで、そのために外へと向かうベクトルが発生しているようにも見えるし、また、運気というか運命というか、そういうものの好い面がふみの人生を少しずつ好転させていく時期でもあって、二つがちょうど重なって作用しているように僕には読み受けられました。

ボーイフレンドの周は、怖さを感じながらそれを誰にも言わずに抱えているふみに、「言わなきゃずっと分からないままですよ」と他人に話をすることをすすめます。そして、僕に話して、とやさしく促します。こういう関係はとても好いものですよね。上手に話を聞いてあげること、そんな姿勢を自然なかたちで相手に対して持てること。こういった人間関係が構築できることはすばらしいことです。周はまだ高校生ですが、ちゃんとわかっているし、こころの面でいえば相当な優等生。ナイス・ボーイなのでした。

本作品で繰り広げられるあれこれは、ほとんどが瑣事といってしまってもあまり差し支えはないだろうものばかりです。でも、その一つひとつが日常の基本的なところの隙間を埋めたり土台を補強するようなものであって、読み手のこころをもポンポンと少しずつ地固めしてくれるようなところがあります。そして、描写のテンポのよさや描写するものへのフォーカスの仕方のうまさ、書かないでいいものはまったく省くことなどで、全体を通して風通しのよい文章の流れになっていると思いました。だから瑣事と言ってしまえる場面であったとしても、読ませるし、読みやすいのです。

ふみが周と話をしたいとはじめて電話する場面では、そのとき周はバイトに行く時間で、「バイトの後なら平気ですよ、だいぶ遅くなっちゃうけど」と応えます。すると、ふみは何時でも構わないから連絡を待っている、と告げます。こういう、お互い無理をせず、過度に近づきすぎない距離感でのやり取りが成立する関係ってとてもいいものだと僕なんかは思うのです。ましてや、彼らは十代ですから、急ぎ、慌て、行けるところまで行きたがるような傾向がどちらかといえば強く出やすいと思われる年代。電話したいと思ったら無理を言ってまで「今すぐ」と要求し、要求される側もそれに無理をしてでも応える、なんていう行為になるのではないかと思い浮かびがちでもあると思うのです。それを踏まえながら二人のやり取りを振り返ると、ふみと周のあり方は、ある種の理想の提示のようでもある。さらには、ストレスや緊張の回避の仕方という別な視点からも考えてみると、自分や相手の居心地の良さあるいは呼吸のしやすさがわかってる二人だと見ることだってできます。相性もきっと良いだろう二人だと認めることもできるでしょう。

中編といったくらいの分量なのですぐ読めてしまうでしょうけれども、柔らかな小説であるいっぽうで、やっぱり清冽な若さを感じさせる風だって色濃く吹いていました。読み終えると、知らず知らずに構えていたガードがこれまた知らず知らずのうちに解かれているような感覚です。引っ込み思案なはずの「こころ」が、自分から読みたがってでてくる、そんな感じで読んでしまう作品かもしれません。


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