Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『パッシブ・ノベル』 最終話

2022-11-18 06:00:01 | 自作小説13
 智鶴さんに、白井と会って話をしてみる、ときっぱり言えたのにはちょっとした根拠があった。実際、見栄だけではなかったのだ。それを今、目の前の白井にぶつけてみるところだ。僕は白井の部屋に来ていた。公園でのあの夜から二日経った夜だった。
 白井は僕の来訪を喜んだ。わずかではあるけれど確かに持ち上がった口角が白井らしい喜び方だった。白井は濃灰色の薄手のスウェットにカーキのパンツ姿でマスクをつけていなかった。部屋に上がったばかりの僕にソファを勧めるとすぐさまキッチンへ立ち、沸かした湯でドリップしてコーヒーを淹れてくれた。コーヒーは絵柄のない真っ白なマグカップで出された。白井はテーブルを挟んだ向こうのデスクチェアに、自身のやはり真っ白なマグカップを持って腰掛けた。部屋はやや薄暗く、ひんやりとしていた。
 僕は小説の原稿の入った封筒をテーブルに置いて、読んだよ、と白井の顔を見ずに言った。
「ありがとうございます。それで、どのような感想をお持ちになったか、聞かせて頂けるのですよね?」
 うつむいたままでも白井の視線の熱が感じられた。
「その前に。智鶴さんと僕の間をとりもつと言った約束は忘れていないよね?」
 顔を上げると、今度は白井がうつむき加減で両手の指を組んでいた。そのまま、もちろんです、とはっきり言うのを聞いた。
「うん。確認しておきたかったんだ。その返事を聞けて安心した。今度三人で会うときには僕と智鶴さんの会話が弾むように仕向けてくれよ。」
これでもっとも大事な点はクリアした。現実的にそこが重要だったのだ。あとはなるようになる話だ。片付くようにできている話だ。
「それじゃ、白井さん、君の小説についての率直な感想を言おう。まずは、驚いたよ。失礼ながら、あんなに真っ向勝負してるとは思っていなかった。読み始めたら話の流れに引っ張られ続けてね、気づいたら終わりだった。それも、ぞくぞくする終わりかただったね。あれはやっぱり父親なんだろう。でも、父親がなぜ失踪していて、あのような存在として生きているのかが謎に満ちているし、その明かされない謎のシルエットがカーテン越しにうっすらとだけ見える感覚なんだもの、怖かったよ。」
「ありがとうございます。はじめはもっとじめじめと小さな隙間に入り込むような小説を書こうと思っていたんですが、そこはうまくいきませんでした。どうしても、ああいった短い文章で積み重ねていく文体が自分のスタイルなんですよね。」
「文体はね、しょうがないのかもしれない。あの乾いた感じ。でも、内容は実にじめじめとしていたな。」
 マスクを外し、カップに口をつける。苦みが強めの味わいだった。白井も同じタイミングでコーヒーを啜っていた。
「もっとよくしたいんですよ。あの小説を、もっと研磨したい。なにかアドバイスを頂きたいのですが。」
 眼鏡の奥から投げかけられる視線が真っすぐだった。どこか、哀切さを発するかのような真っすぐさだった。ひざまずいて乞いたい気持ちをぎりぎり押さえつけているのかもしれなかった。僕は切り出す。
「アドバイスとしてはひとつ大切なことがあるよ。あの小説を読むことで怪現象を起こさないことだ。僕も智鶴さんもまいってしまったんだ。これはわかっていたことなの?」
 眼鏡の奥の哀切さが消えた。なにをくだらないことを、とでも言いたげな怪訝な目つきになっていた。口角は下がり、一文字の線状の唇だ。僕は続けた。
「小説とシンクロニシティが起こったんだ。ポルターガイスト現象としてね。僕の部屋では鏡が割れ、智鶴さんの部屋ではやかんがひとりでにひっくり返った。二人に共通した出来事はブレーカーが落ちたことだ。もっと言えば、僕も智鶴さんも熱を出した。」
 眼鏡を左手の中指で持ち上げながら、白井はフン、と鼻を鳴らす。僕はさらに続けた。
「アメリカでのポルターガイストの例だけどね、まあ、家の中で皿が飛んだりカップが動いたりするんだ。そういうの知ってるだろ? そこでカウンセラーがその家に介入して、家の子どもにカウンセリングを施すとポルターガイスト現象は収まるそうなんだ。つまり、人間のこころがあんな物理現象を起こすってことになる。君の小説も、僕らのこころがポルターガイストを起こすようになんらかのやり方でつっついたんだと思う。いや。というか、だ。あの一人称の主人公に感情移入して、情動や思考を想像したりなぞったりすることで、読み手である僕らのこころの中に怪現象を起こす何かが生じたのかもしれないと思うんだ。」
 白井は口角を上げた。ただそれは喜んでいるときの上げ方ではなく、向かって右の口角だけをアンバランスに持ち上げる形だった。ほおを引きつらせるようにして。
「それで。」とだけ言った白井の声がやけに響いた。
「あれは、意識的にだったのか。意識的にだったら、ものすごい技法だよ。なんてね、無理だよな。偶然の産物だよな。」
 話はこれで収束に向かう。えらいもの作り上げたな、と一度大笑いして、それから白井の過去の話のヒヤリング。あの小説は書き直しだ。葬ってしまうにはもったいない気がするから、怪現象が起こらないように気を付けながら直すんだ。
 白井には過去の鬱憤なり哀惜なりを吐き出してもらう。そうやって魔力のような超自然的な力を鎮めるのだ。だが、白井の次の一言に耳を疑った。
「意識的に書き上げたんですよ。」
「なんだって?」
「一念発起してね、原稿に僕の魂を乗り移らせるようにして書き上げたんだ。」
「一念発起か。僕の昔のバイト仲間に川村先輩という人がいてね、ふだんは管を巻いてばかりで行動しない人だったのに、あるとき意を決してインドに出かけていったな。なんだか思い出すよ……。」
 デスクチェアで足を組む白井のその存在をなぜか大きく感じた。平静ではあるけれど、確かな圧力を発している。
「紫色の炎を手のひらにともすようにしてね。書いたんですよ。」
「それはどういう意味かな。」
「言葉通りです。集中力のバランスの取り方という意味でね。それで柔軟な鋼鉄として書いていく。」
 意味がよくつかめない。薄暗い部屋がもう一段暗くなったような気がした。デスクチェアの背もたれに寄りかかって遠のいた白井の顔の表情がよく見えない。
「なんていうのか。君はちょっと精神的なデトックスが必要なのではないかな。あの小説では父親が重要な立ち位置にあるけれども、君の人生にとっての父親の存在が強く影響したのではないだろうか。僕はそう考えている。それにさ、でもやっぱり偶然に出来上がったんだろ? 偶然じゃないというなら、君も読んでみてポルターガイストが起こったのかい?」
 背中に汗のしずくが転がり落ちていくのを感じた。白井が上半身を起こし、ぐっと前かがみの姿勢を取った。
「あれは無色の虹。パッシブ・ノベルなんだ。」
 白井の声の重みがさっきからやけに腹に響いてくる。
「パッシブ・ノベルなんて初めて聞く単語だな。パッシブは受動的って意味だったよな。書き手に対してパッシブだなんてのは案外ふつうじゃないか。なかでも私小説はパッシブ・ノベルそのものだよな。」
 よくわからないまま、頭を働かせていた。鼻の下にも汗が浮かんできているのがわかる。
「小説という器が、可塑的に造形されるんだ。」
 白井の口調や語気のほうも変化してきていた。気にはなるのだが、まずはそれどころではないような気分だった。
「やっぱり私小説ってことじゃないか。珍しいものじゃない。」
 白井は再び背もたれに深く腰かける。いくらか遠ざかった白井の表情がこちらから見えにくくなることで、僕は安堵を感じるようになっていた。
「そうじゃない。主導権は読み手にある。」
「それはさ、読み手がどう読むかは読み手の自由なんだって話だろう? 小説ってそういうものだろう。」
「違う。小説が読み手と世界を媒介するんだ。読み手の考え方や性向、感性や世界観、それらを引き受けて現実に作用するものなんだ。」
「現実に作用するって、ブレーカーが落ちたり、鏡が割れたりだろ。それが僕の性格が世界に物理的ダメージをもたらしたということなのかい。小説からの力ではなく。」
 やはりポルターガイスト現象が起こるきっかけになるような心理状態に読者が陥るような作用なのだろう。先ほど白井は、意識的に書き上げた、と言った。詳しいメカニズムはわからない。白井だってきちんと理解してはいないだろう、科学者ではないのだから。とはいえ、僕の理解したポルターガイスト現象、つまり人間の内なる心理が物理的パワーを獲得し、発揮してしまうことは現実に起こったことだ。解釈の仕方が僕と白井とでいくらか異なるだけなのだ。しかし、白井はこう言った。
「あれは合図なんだ。ヨーイドン、なんだ。」
 自然と頭が回転しだす。だが、めまぐるしい空回りに違いなかった。えっ、と素っ頓狂な声が出たのみで、白井の言わんとしていることの先がまったく読めない。
「安達さん、あの小説を読んだ後、こうして僕に会ってみてどうですか、僕が違う人間のように感じませんか。」
 なんだって? 何を言いだしているのだ。いつの間にやら左手で自分の頬やら顎をやらをさすり続けているのに気づいた。
「……人が変わったようには感じているよ。さっきからね。済まないけど。」
 口調や態度がいつもよりもくだけているのは、白井の自室に二人きりでいることで近まった距離感だと考えることはできる。であっても訝しさは澱の様にしっかり彼の印象の中に残っていた。たとえば頬を引きつらせながら片側の口角を上げた微笑み、それが白井という人間が鎧を脱ぎ捨て、軽装あるいは生身に近づいたときに見せる一面なのか、それともこの状況で新たに生まれてしまった一面なのか。それは付き合いが浅いため、よくわからなかった。そしてそれよりもよくわからないのが、あれは合図なんだ、という言葉だった。
「安達さんの目の前にいるのは、僕、白井でありながら、僕の短編を読む前の白井ではないんです。あなたの世界は変化した。パッシブ・ノベルがあなたという人間を写し取るように読み込んだのです。それからパッシブ・ノベルが読み込んだものを世界に作用させた。あなたの生きる世界は違ったものになった。」
「世界を改変しただって?」
「いいえ、そうではなく。細かいようですが、改変とは違うんですよ。」
「じゃあ、君は白井さんであって白井さんではないのか。智鶴さんも智鶴さんであって智鶴さんではなかったのか。」
「単純にいえば、分岐したんですよ。ほんのちょっとだけ、メインロードから逸れた。ここはそういった世界だ。僕は白井だし、智鶴さんも智鶴さんだけど、あなたの影響を受けた世界の住人として僕たちも変化した存在なんです。」
「待て。僕が短編を読む前に智鶴さんが短編を読んでいるけれど、そのときの智鶴さんはどうなってるんだ。」
「あの智鶴さんも別のかたちでメインロードからちょっぴり逸れていっていますよ。」
「じゃあ、僕の部屋に来た智鶴さんと短編を読んだ後の智鶴さんは別の智鶴さんなのか?」
「短編を読んだときから、その智鶴さんはここの智鶴さんとは別の道を歩いているんですよ。ここではないところで生きているんです。もちろんそこにはこの僕ではない僕がいて、目の前の安達さんではない安達さんがいる。」
「いったいなんのためにそんな小説を作ったんだ?」
 ふふふふ、と鼻からの息遣いで笑ってから白井はコーヒーを飲みだした。僕は白井を無言で見つめ続ける。白井はこの自分が話す順番をパスしたがっていたのかもしれなかった。だが、白井を見据えながら僕は待ち続けた。すると、彼はため息をついたあと、再び口を開きだした。
「僕という無能な人間にできることはとても少ない。他人の役に立てる才能なんてものはまるでない。愚鈍で、軟弱だし、なにかの小さな行動すら起こせもしない。そんな取るに足らない一人の男がね、やっとのことで出来たことがこれなんだ。死ねば誰の記憶にも残らないような僕がですよ、いや、生きているときですら僕という人間を理解する者など誰もいない、そんな河底の石ころ同然のこの僕がね、パッシブ・ノベルなんていうおもしろい装置を作ることができたんですよ。これはね、ごく穏当に言ったって奇跡なんですよ。この装置は人を殺すわけじゃない。ちょっとした混沌を生みはするとしても、概して言えば無害だ。いいじゃないですか、そのくらいのひっかき傷を僕が与えたって。」
 白井の言う、メインロードから逸れた道にいる白井に聞いたところで、その理由は歪んだものになっているのかもしれなかった。
「つまり愉快犯か。それにしたって、よくもまあパッシブ・ノベルなんて品に行き着いたな。」
 そう言いつつ、信じきっているわけじゃない。
「意識的に作ったのは本当ですよ。でもその前段階で、なんていうか、破綻みたいなものがあったんです。行き詰って、それはそれは大きな危機でね、あやうく死んでいた可能性も低くはなかったと思えるくらいの危機だった。その危機、漆黒の暗闇の先に偶然、パッシブ・ノベルというはじけ方が出口としてあったんですよ。設計図なのか、取り扱い説明書なのかが頭に降ってきたんだ。それでも実現するまでには三作品費やしましたよ。」
「その危機というのは、おそらく父親なんだろう。」
「そこはね、今や関係のないことでね。」それから一呼吸おいて、白井は続けた。「安達さん。パッシブ・ノベルはそういったものなんです。特に害悪というほどのことはない。あなたはこのあなた自身が作用した世界であなた自身の作用が及んだ智鶴さんとうまくやっていくといいんです。二人を仲介する協力は惜しみませんから。この約束は守りますよ。」
 そう言うと、白井は両方の口角を上げた。ふだんの、喜んでいるときの白井だった。
「パッシブ・ノベルを読んでくれてありがとうございました。とても感謝しています。」
 強い脱力感を感じながら、僕は席を立ちあがる。そのまま、何も言わずに部屋の外に出た。
夜空にはほとんど雲はなく、たくさんの星と大きな満月が光を放っていた。めまいなのか、それとも別の作用なのか、ぐにゃりと道がたわんだような感覚があり、転びそうになった。夜だというのに、なにかを言い淀んでいるかのようなくぐもった鳥の鳴き声が短く二度、続けてした。乾いた風が弱く吹いていても、空気は肺の内に吸い込まれるのを嫌っているかのようで、その息苦しさにあえいでしまった。
 世界の有り様にどことなく違和感があり、それとともによそよそしさを感じる。僕は乗ってきた車へと小走りに向かい、おぼつかない手で運転席のドアを難儀しながら開けると、借り物のように感じる身体をそこに押し込むみたいにして乗り込んだ。
 車を走らせると同時にAM放送のラジオのスイッチをつけた。だけど話の内容がまったく頭に入ってこない。パーソナリティのしゃべる軽快な声のリズムだけが空回りして聞こえて、落ち着かない気分が余計に増した。スイッチを切る。
 エンジンと車の挙動の音だけの中で運転をし続けた。ゆるやかなカーブ道の脇のガードレール、そのすぐ外を、夜の闇や音を貪欲に吸い取るためにたくさんの葉を茂らせたかのような多くの広葉樹が立ち並んでいる。
 その影から一匹のキタキツネが道路に飛び出そうとする。牙をのぞかせた怒りの形相を一瞬こちらへ向けてから翻り、闇に消えていくまでの瞬間をヘッドライトが照らし出していた。
 その間、僕は反射的に運転速度を落としてキタキツネに見入っていた。そんなキタキツネとのわずかな邂逅を経て、どうしてなのか、ようやく呼吸が楽になってくる。するとガラス越しの夜の景色も車のダッシュボードの存在感もハンドルを握った感覚やあれこれも、いつものそれに戻ってきた。
 やっとのことで、僕は逃れることができた気分になっていた。

 あの別れの日、川村先輩はこう言ったものだ。
「世話になったなぁ。この二年弱の間、ほんとにありがとうな。って、え? 俺の態度が今日は気持ち悪いって? まあ、そう言うなよ、訳があってな。今日が最後なんだから、まけておいてくれ。その訳として、最後のついでに言うことがあるんだ。って、え? それでこそ俺らしいって? いや、聞いたら俺らしくない話に聞こえると思うんだ。でも聞いてくれるか。うん。知っての通り、俺は来週からインドへ一人旅に行く。正直にいって、そんなの俺のキャラじゃない。俺はあれこれ口では言うが、実際、口だけだったんだ。アクティブさとは正反対の位置にいる人間だった。それはわかってただろうよ。いいよ、フォローしなくたって。でもな、今回はさ、行くことにしたんだ。俺の伝えたいことは今の安達には伝わらないかもしれない。でも覚えていてほしいんだ。そのうち、お前の背中を好い意味で押してあげられることになるかもしれないから。肩を貸してあげられるかもしれないから。俺さ、カレー屋になるから。本格カレーはもちろん、明治や昭和初期の頃のカレーのレシピも調べて、アップデート明治カレーやアップデート昭和カレーにして甦らせるんだ。で、看板メニューにしてみせるから。俺はやるよ。自分のためにやるんだ。生きていくためにね。だけど、それと同時に他人をハッピーにしたい。とことんハッピーに。カレーはエンターテイメントで、他人をハッピーにできる食べ物だと気づいたんだ。ここが俺らしくなくて笑いを誘うところなんだろうなぁ。でも、いいんだ、それで。笑ってくれ。安達が笑っても、俺はインドへ行く。ゆるぎないよ。だって決意したんだ。それに生きるってこういうことなんじゃないかって、全身に力がみなぎるような感じがしているところなんだ。もしかすると、こんな俺を見てついにバカになったかと安達は思っているかもしれない。実はゼミで一緒の連中に大笑いされたんだ。おまえ、なに熱くなってんの、ガラにもなく、ってさ。でも、いいんだ。俺は決めたから。決意した俺から離れていく人はそれでいいんだ。これまでの俺の生き方がまずかったせいだからだ。なぁ、安達。安達はさ、今まで俺の他愛のない哲学をよく聞いてくれたよ。思い出しても冷ややかな話の数々だったよな。ありがとうな。俺さ、抜群のカレーを作るから。きっとそれなりに知名度のあるカレー屋になるから。だからいつか、食べに来てくれよ。一杯目は無料で食べてもらうよ。そしたら絶対リピートしたくなるだろうさ。そういうカレーを作るから。」
 川村先輩はどこぞの店でおいしいカレーに出会って、自分もやってやるんだ、と決心したわけではないそうだ。インドのミュージカル映画がとてもおもしろくて、そこからカレー屋になると決めたそうだ。脈絡としてはちょっと跳んでいるし、重大な決心をするにしては軽薄なエピソードに感じられはする。だけど現実味というものは大概そういう種類のスパイスが効いているものだったりするのではないだろうか。
 その後、連絡をもらったわけではないのだけれど、川村先輩が有言実行を果たし札幌でカレー屋を開いているのを知っていた。個性的でおいしいカレーを出す店だ、と会社の同僚に教えてもらい、お店のサイトを開いてみたらあの頃よりもちょっと精悍な顔つきになった川村先輩の画像が載っていて、店主として挨拶文を書いていた。川村先輩はやり遂げたのだし、やり遂げたその高みでずっとやり続けていた。
 なぜ川村先輩との別れの日を思い出したのかというと、あのときの川村先輩が今の僕の背中をぐぐぐぐっと押してくれたからだ。僕にもあの時の川村先輩のような、節目とでもいうような瞬間がやってきた。熱くなって生きるかどうか、という選択肢が僕の目前にまで迫っているのがわかり、僕は肯定的な選択をし、その中へと突入することにした。その決心の際に、過去の川村先輩の言葉が勇気づけてくれたのだ。
 智鶴さんにはなんと言えばいいだろう。僕が白井との話し合いで敗れたことを。軽く考えすぎていたことによる恥ずかしさを噛みしめながら智鶴さんに説明しなくてはいけない。白井が言うところだと、その智鶴さんはパッシブ・ノベルによって僕の影響を受けた世界の住人としての智鶴さんだ。
 智鶴さんに力を借りようと思う。すべてを話し、僕はとりかかるんだ。なににとりかかるって、小説の執筆に、だ。
 この漂泊を終わりにするため。荒れた海を乗り越えて接岸し、錨を降ろすために、僕は書く。白井の書いた小説と対をなすように、いや、アンサーソングのように。自分の甘い部分に駆逐されないよう気をつけつつ、挑んでいくつもりだ。パッシブ・ノベルに押しのけられないくらいの力を持った小説を書き上げるためには、甘さは禁物だろう。
 僕は漂泊した白井を、繋ぎとめる気でいる。この現実に。そうしなくてはいけない、と判断したのだ。
 これは真剣にやることだ。混じりけのない本気として。そのために計算をしていく。
 やり遂げることができたならば、そのあとに三人で川村先輩のカレー屋を訪れようと思う。おそらく期待値を超えてくる、川村先輩らしい饒舌な味わいの素晴らしいカレーを食べさせてくれるだろう。川村先輩が全力を傾けたそのカレーが、ある種の必然だったのかもしれない僕ら三人の間に渦巻いたその混沌に、ほんとうに最後のピリオドを打ってくれるに違いないのだから。

 智鶴さんと十全なほどに話し合いを重ねた幾日か後に僕は執筆を始めた。
 その矢先だった。ノートパソコンのキーを叩き出すと、買い直したばかりの卓上鏡がひとりでに、洋服ダンスの上でぱたと後ろへ倒れたのだ。背中で聞いたその音に振り返り、いけるぞ、と僕は意を強くした。

【了】



参考文献
『「超常現象」を本気で科学する』石川幹人・新潮社
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