Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『黙って喋って』

2024-12-03 22:47:45 | 読書。
読書。
『黙って喋って』 ヒコロヒー
を読んだ。

本を読むことで旅をする。行ったことのない土地、異国、ファンタジーの世界、未来そして過去の世界。ひととき、日常を忘れ、本の世界に浸る。そうやって、本を読む人たちはリフレッシュしたりする。知らなかった世界を知るばかりか、考え方を教えられるというよりも発見するに近い経験をしたりもする。と、まあ、ここまで書いたことも、読書のほんの一面に過ぎないとは思います。

ピン芸人・ヒコロヒーさんによる全18編の短編集『黙って喋って』はどんな世界へ読者を連れて行ってくれるのか。簡単にいうとそれは、若い年代の女性がしっかりと地面を踏みしめながら歩いていく日常の世界へだと思う。そこには恋愛がもれなくくっついていて、テーマとしてはそっちがメインにはなっている。ただ、「薄い」ともいえず、「浅い」ともいえないくらいの日常のあれやこれやの場面の記録が虚構世界に刻まれていることで、虚構世界が現実世界の匂いをしっかりと帯びている。だから、生まれた土地を離れて住み着いた地方都市なんかで希薄な人間関係にある人や、引っ込み思案で引きこもりがちな人、つまり、メインストリートは華やかすぎるから棲み分けを選んだような人が、選ばなかった世界を覗くこと、つまり生々しいifの現実を虚構世界で体感することが本作品集からはできそうな気がするのでした。でも、不用意にページをめくると咽てしまうかもしれません。

もちろん、メインストリートまたはメインストリートの端っこを歩く人たちが本書のページを繰ってもおもしろいと思うと思います。誰それの体験談を読むみたいな感覚になるかもしれない。

さて、すべてに唸りながらも僕が「これいいじゃないですか」とあげたくなったのは二編です。まずは「覚えてないならいいんだよ」です。学生時代に仲の良かった女子の心理が隠されての再会。主人公の男子は、彼女との「生きるスピード感」が違う。そのため、最後になる会う時間に対する覚悟も、その時間の味わい方も、期待していたりしてなかったりすることも食い違っているのだけど男子はよくわかっていない。ラストまで淡々と流れていきますが、うっすらと後悔のまじった軽いため息に似た苦味のような気持ちが生まれる余韻を味わうことになりました。僕にとってそれは悪くないものでした。二人が住んでいた同じ世界が、ある時点から分岐してしまって、別々の世界を生きることになってしまったような切ない感じすらありました。

次に挙げるのは「問題なかったように思いますと」。舞台はどこかの企業。本社から出向してきた女性社員が、なあなあでなし崩し的に横行するハラスメントが満ちる職場でひとり戦う。その姿を見る主人公の別の女性社員が、処世術を優先した生き方に圧倒されながら、それと相反するまっすぐな生き方との間で揺れるんです。
それでは引用をまじえながら。


__________

 社会で生きるということ、その上で自分を楽にさせてくれるものとは諦めることであると、悲観的な意味合いではなく現実的に、いつからかそう心得ることができていた私にとって、凛子さんの芯を剥き出しにするような部分は解せないものがあった。恋人の有無を聞かれても、ある女性社員の容姿を嘲るような冗談めいた会話を振られても、たとえ自分自身にその矢が向いてきたとしても、その場を凌いで笑顔で対応していれば決して波風が立つことはない。そのくらいのことならやればいいのに、なぜ頑としてやらないのか、何の意地なのだろうか、もっとしなやかに生きればいいのにと、何度も彼女に対して、そう思っていた。
 笑いたくないジョークにも適当に笑い、苦痛だと感じる質問にも態度に出さず愛嬌で逃げる、傷つくようなことを言われても傷ついていないふりをしていれば彼らにとっての「やりやすい」を創造することができ、それこそがこの社会で生きる「術」なのだと理解して、諦めて、迎合していくことは、単純に自分自身が楽に生きていくための知恵であり、要領だった。(「問題なかったように思いますと」p226-227)
__________

→悪い慣習が連綿と続いていくのはこういった保守的な姿勢があるからですが、それって自分が生き抜くためのものですから、糾弾するみたいにはいかないものでもあるとは思います。
また、以下の箇所もおもしろいので引用します。


__________

「いいえ、私の部署内でのハラスメントを感じたことは特にありません」
 癖づいたように笑みを浮かべて言えば、男性社員は納得いかない様子で顔を歪めた。内密になんてされるわけがないことくらい、ここで話したことはすぐにどこかに漏れ伝わることくらい、そうすればこの組織で居心地が悪くなってしまうことくらい、簡単に分かる程度には私も社歴を重ねていた。(「問題なかったように思いますと」p230)
__________

→これは人事部からの調査の場面ですが、実際、社内に労働組合がある場合もこうだったりしますよね。


本書の総合的な感想をいえば、食い違いやわかりあえていない部分を抱えながら一緒にいる男女の女性側の気持ち、それはたぶん淡い孤独感で、日常生活の背後にひっそり佇んでいたりするものだったりすると思うのだけど、そういう場面を言語化しています。書くことをしているなあって思います。

また、本書をカウンセリングをする誘い水みたいな位置づけでの感想を言うと、誤解を恐れずに言うことにはなるんですけど、「言葉で説明のつくものって、小さいし浅くないだろうか」というのがどろっと出てきます。また、対話において、自分は何でも善だと表現したくなったりするのって、相手によっては僕はあります。ちょっとでも良くなかったら相手にそれはだめだと目くじら立てられちゃったりするから、それに反論するにはまだ言語化は無理な段階だし、自分の内側からもそのモノ・コトをさらえていないので、かえって偽ったりします。それがまた後の災いになることもあるんですが。これは相手によります。


というところで、最後にまた引用を。
__________

「春香、お母さんの言うこと聞きな。あっち行くよ」
夫が割り込んできてそう告げると、春香はいやだあと言って、また身体を左右に振った。まだ幼いのに、なのか、幼いから、なのか、子どもは自分の判断を疑うことを知らない。すると唐突に、できるだけ、何にも惑わされず、そのままでいてほしいと、なぜだか強くそう思った。今のまま、自分が良いと思ったことを信じることをやめずに、そうして、すきな靴を履いて出かけて、いろいろな人と出会い、たとえそれが悲しくてつらい気持ちを与えるものだったとしても、きっとそれがいつかあなたを支えるものになるのだろうと、きらきらとした無垢な表情でこの小さな靴を見つめる彼女に、なぜだか、急にそう思わされたのだった。(「春香、それで良いのね」p218)
__________

ヒコロヒーさんから、さまざまな考え方や思想がキャラクターとともにあふれ出ています。それと、一文の長さが長い文章をわかりやすく巧みに使う技術がある書き手だと思いました。

惜しまれるのは、書き手が芸能人の分だけ損をしているところ。その人の経歴や芸風や声音、話し方、外向きの性格などの個人情報が知られすぎていてとても損だと思うんですよ。小説作品にまるで関係のない作者のイメージを読み手はどうしても引きずってしまって、意図せずに作品の言葉づかいなどに挿し込んだり重ねたりしてしまいがちになるものです。そういった読者心理の働きがマイナスになってしまう。そのぶんを考えて、作品自体にプラス0.5点を加点して、☆5点満点とさせていただきます。でも、もしももしも作家がエゴサをして5点満点を見つけてしまったときに慢心されてしまうと不本意なので、こうして書き残しておく次第です。また小説を書かれるかもしれないですからねー。


朝日新聞出版
発売日 : 2024-01-31


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする