子供のころ、仔犬がじゃれあうように遊び、中学・高校生頃まで、少年から青年の階段を一緒にのぼった仲間が死んだ。
60歳を前に、中学生と小学生の子供を残して、癌で早々に逝ってしまった。
早期退職をして、自分を振り返ったとき、「あぁ~~。俺って友達一人もいなぇ」って気づいた話は、このブログのどっかにも書いたけど、こんな自分だって、生まれてこの方、友がいなかったわけではない。
死んだやつは、今は、友達というほどの付き合いはないけれど、会えば、「よっ!」くらいの挨拶はした。
やつは、地元の子供たちをとりまとめ、郷土芸能の太鼓の伝承に意を注ぎ、街のイベントや特養の盆踊りなどにはいつも参加し、たくさんの人に満面の笑みを与えていた。
あたしは、遠くからそんな姿をみて、こころからリスペクトしていた。
”りっぱになったなぁ!”
今のあたしは、暇人。
自称”自由業”なので、葬儀に立ち合い、お別れをした。
不思議となんでこんなに早く行っちゃったんだという同情も、悲しみもなかった。
生きているときと同じやつの顔をみて、「ほんと大変だったな。こんな自分と、一時、いっしょに楽しい時間を過ごしてくれてありがとうな!」これが、その時の心情だった。
最期に、棺の蓋を閉じる、釘打ちの儀。
親族の方が、石で釘を打つ。
あたしの頭の中心に、カンカンと乾いた音がたてつづけに響いた。
ヒトは、『老い』を避けて通れない。
そして、それは、いつ急激に進むか誰もわからない。
『死』を身近な自分の問題として受け入れながら、だから、しっかり『生きよう』という感性を持たないと、精神的に、孤独死しそうだ。
やつの訃報を知ったとき、それは、言葉の世界だった。
骸の顔をみて、釘打ちの儀を済ませ、火葬場に送り出し、現実を受け入れた。
友達がいないのは、自業自得だけど、こんな仲間が消えていくのは、やっぱり寂しい!