話の本筋は、古代駅路です、
頼朝が、鎌倉城を作るに際して、、、古代駅路を消し去った!
消した理由は、、、
路面9mの駅路は、鎌倉に攻んだ敵の勢いを止められない! 防衛出来ない訳です。
結果は廃路ですが、通行不可にした上で、軍隊が攻め込んだ時に通れない構造が必要です。
問題は、
そんな古代の大道が「鎌倉には無い」と学術的には考えてない。
鎌倉市周辺で語られるのは、3m幅の鎌倉期の道を東海道や、武蔵路の痕跡と考えている様子です。
理由は
江戸東海道は宿場では約10mが、箱根の石畳は約1.8mの幅です。
この例から古代東海道や武蔵大路の道幅9mは、山地では狭いと考えた結果が3m幅の道です。
この道幅なら、七口の道に相当しますから、それが古代東海道や武蔵大路であると考えたようです。
古代東海道は中路幅(路面9mの巨大な道)が鎌倉を突き抜けたと考えることから一般常識と対立するのです。
更なる問題は、巨大道路遺構を鎌倉幕府が消し去った証拠を掴めずに今日に至る訳で、
結果は、
「海蔵寺裏の大堀切!」説明が付かずに、土橋のイワレも不明な謎の遺構と成っている。
どの様に考えても、鎌倉城の城壁を切り裂いて中へ入る為の掘割!それは、切通しと呼ばれるのが一般的です。「峰から進入した敵を止める為に作られた!」なんて説明も有りますが城を知らない人の戯言。
巨大道路を交通不可にした痕跡です!
巨大道路を消し去った理由は、
防衛の為、敵の侵入を防ぐ目的であり、城壁としての切岸で鎌倉の街を囲ったのです。
更に外側には、敵を排除する為の砦を作った。
他に消滅させた道路が在るのか? という話になりますが、、、
その駅路を消滅させた形跡は大道の数だけある筈です。
はて??
鎌倉を突き抜けた大道は、古代東海道だけ!
なんていう考えの方は、最初から読み直してください。
東の上道路遺構の南陵中学校から南側はどの様に成っていたか?ご確認ください。
大船駅の近く、笠間中央公園遺跡の道路遺構の行く先は?どの様でしょう?
町田の「「野津田上の原遺跡」の武蔵府中方向は、どの様に成っていたでしょう?
これらの道路遺構は断ち切られ断崖となる。道路として使用できないのです。
では、鎌倉城の周辺は、どの様な通行不可の構造を作ったのか?
その疑問の代表が「海蔵寺裏の大堀切」です。
特徴は、
一、切通にあたる部分に工作をしてある。
二、土橋がある。
三、鎌倉の内に向けては、断崖であり
四、外に向けてはナダラカな坂である。
代表が在るからには、それに似たものが他にも在ると言うことです。
それも化粧坂周辺に数箇所も在る!
しかし、その痕跡は在っても語られた形跡は「海蔵寺裏の大堀切」以外にはない。
七口の峰を回って「これは城では無い!」と言ったら、鎌倉の理解は浅すぎる。
城で有るから、大道を消し去った。
消し去った証拠は、遺構として残るが「海蔵寺裏の大堀切」を見ても謎と言う言葉で誤魔化し、トレンチをしても数メートル掘って止めている。海蔵寺裏を見れば、その底部の深さは簡単に推察出来るのですが、、、
地図は、googleアースの画像です。
南稜中学の東山道道路遺構から、府中、瀬谷の海軍道路、中の宮北遺跡、江ノ島に向けて見事に直線です。
これが、「大化の改新駅路」の東山道相模路である根拠です。
武蔵国衙の為に東山道武蔵路を造ったのが定説ですが、、道は鎌倉に向かって造られている!
武蔵国衙は、単なる通過点。
今も昔も権力者の利益の為に道は作られる。武蔵国衙にメリットは有ったか??
当時の権力者は、鎌倉の鉄に魅力を感じたと想像するのです。
カシバード画像に加筆
頼朝が、鎌倉城を作るに際して、、、古代駅路を消し去った!
消した理由は、、、
路面9mの駅路は、鎌倉に攻んだ敵の勢いを止められない! 防衛出来ない訳です。
結果は廃路ですが、通行不可にした上で、軍隊が攻め込んだ時に通れない構造が必要です。
問題は、
そんな古代の大道が「鎌倉には無い」と学術的には考えてない。
鎌倉市周辺で語られるのは、3m幅の鎌倉期の道を東海道や、武蔵路の痕跡と考えている様子です。
理由は
江戸東海道は宿場では約10mが、箱根の石畳は約1.8mの幅です。
この例から古代東海道や武蔵大路の道幅9mは、山地では狭いと考えた結果が3m幅の道です。
この道幅なら、七口の道に相当しますから、それが古代東海道や武蔵大路であると考えたようです。
古代東海道は中路幅(路面9mの巨大な道)が鎌倉を突き抜けたと考えることから一般常識と対立するのです。
更なる問題は、巨大道路遺構を鎌倉幕府が消し去った証拠を掴めずに今日に至る訳で、
結果は、
「海蔵寺裏の大堀切!」説明が付かずに、土橋のイワレも不明な謎の遺構と成っている。
どの様に考えても、鎌倉城の城壁を切り裂いて中へ入る為の掘割!それは、切通しと呼ばれるのが一般的です。「峰から進入した敵を止める為に作られた!」なんて説明も有りますが城を知らない人の戯言。
巨大道路を交通不可にした痕跡です!
巨大道路を消し去った理由は、
防衛の為、敵の侵入を防ぐ目的であり、城壁としての切岸で鎌倉の街を囲ったのです。
更に外側には、敵を排除する為の砦を作った。
他に消滅させた道路が在るのか? という話になりますが、、、
その駅路を消滅させた形跡は大道の数だけある筈です。
はて??
鎌倉を突き抜けた大道は、古代東海道だけ!
なんていう考えの方は、最初から読み直してください。
東の上道路遺構の南陵中学校から南側はどの様に成っていたか?ご確認ください。
大船駅の近く、笠間中央公園遺跡の道路遺構の行く先は?どの様でしょう?
町田の「「野津田上の原遺跡」の武蔵府中方向は、どの様に成っていたでしょう?
これらの道路遺構は断ち切られ断崖となる。道路として使用できないのです。
では、鎌倉城の周辺は、どの様な通行不可の構造を作ったのか?
その疑問の代表が「海蔵寺裏の大堀切」です。
特徴は、
一、切通にあたる部分に工作をしてある。
二、土橋がある。
三、鎌倉の内に向けては、断崖であり
四、外に向けてはナダラカな坂である。
代表が在るからには、それに似たものが他にも在ると言うことです。
それも化粧坂周辺に数箇所も在る!
しかし、その痕跡は在っても語られた形跡は「海蔵寺裏の大堀切」以外にはない。
七口の峰を回って「これは城では無い!」と言ったら、鎌倉の理解は浅すぎる。
城で有るから、大道を消し去った。
消し去った証拠は、遺構として残るが「海蔵寺裏の大堀切」を見ても謎と言う言葉で誤魔化し、トレンチをしても数メートル掘って止めている。海蔵寺裏を見れば、その底部の深さは簡単に推察出来るのですが、、、
地図は、googleアースの画像です。
南稜中学の東山道道路遺構から、府中、瀬谷の海軍道路、中の宮北遺跡、江ノ島に向けて見事に直線です。
これが、「大化の改新駅路」の東山道相模路である根拠です。
武蔵国衙の為に東山道武蔵路を造ったのが定説ですが、、道は鎌倉に向かって造られている!
武蔵国衙は、単なる通過点。
今も昔も権力者の利益の為に道は作られる。武蔵国衙にメリットは有ったか??
当時の権力者は、鎌倉の鉄に魅力を感じたと想像するのです。
カシバード画像に加筆