鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 隠された切通し編 2

2013年02月19日 | 切通し
話の本筋は、古代駅路です、
頼朝が、鎌倉城を作るに際して、、、古代駅路を消し去った!

 消した理由は、、、
路面9mの駅路は、鎌倉に攻んだ敵の勢いを止められない! 防衛出来ない訳です。
結果は廃路ですが、通行不可にした上で、軍隊が攻め込んだ時に通れない構造が必要です。

問題は、
そんな古代の大道が「鎌倉には無い」と学術的には考えてない。
鎌倉市周辺で語られるのは、3m幅の鎌倉期の道を東海道や、武蔵路の痕跡と考えている様子です。
理由は
江戸東海道は宿場では約10mが、箱根の石畳は約1.8mの幅です。
この例から古代東海道や武蔵大路の道幅9mは、山地では狭いと考えた結果が3m幅の道です。
この道幅なら、七口の道に相当しますから、それが古代東海道や武蔵大路であると考えたようです。
古代東海道は中路幅(路面9mの巨大な道)が鎌倉を突き抜けたと考えることから一般常識と対立するのです。

更なる問題は、巨大道路遺構を鎌倉幕府が消し去った証拠を掴めずに今日に至る訳で、
結果は、
「海蔵寺裏の大堀切!」説明が付かずに、土橋のイワレも不明な謎の遺構と成っている。

どの様に考えても、鎌倉城の城壁を切り裂いて中へ入る為の掘割!それは、切通しと呼ばれるのが一般的です。「峰から進入した敵を止める為に作られた!」なんて説明も有りますが城を知らない人の戯言。
巨大道路を交通不可にした痕跡です!
巨大道路を消し去った理由は、
防衛の為、敵の侵入を防ぐ目的であり、城壁としての切岸で鎌倉の街を囲ったのです。
更に外側には、敵を排除する為の砦を作った。

 他に消滅させた道路が在るのか? という話になりますが、、、
その駅路を消滅させた形跡は大道の数だけある筈です。
はて??
鎌倉を突き抜けた大道は、古代東海道だけ!
なんていう考えの方は、最初から読み直してください。

東の上道路遺構の南陵中学校から南側はどの様に成っていたか?ご確認ください。
大船駅の近く、笠間中央公園遺跡の道路遺構の行く先は?どの様でしょう?
町田の「「野津田上の原遺跡」の武蔵府中方向は、どの様に成っていたでしょう?
これらの道路遺構は断ち切られ断崖となる。道路として使用できないのです。

では、鎌倉城の周辺は、どの様な通行不可の構造を作ったのか?
その疑問の代表が「海蔵寺裏の大堀切」です。
特徴は、
一、切通にあたる部分に工作をしてある。
二、土橋がある。
三、鎌倉の内に向けては、断崖であり
四、外に向けてはナダラカな坂である。
代表が在るからには、それに似たものが他にも在ると言うことです。

それも化粧坂周辺に数箇所も在る!
しかし、その痕跡は在っても語られた形跡は「海蔵寺裏の大堀切」以外にはない。

七口の峰を回って「これは城では無い!」と言ったら、鎌倉の理解は浅すぎる。
城で有るから、大道を消し去った。
消し去った証拠は、遺構として残るが「海蔵寺裏の大堀切」を見ても謎と言う言葉で誤魔化し、トレンチをしても数メートル掘って止めている。海蔵寺裏を見れば、その底部の深さは簡単に推察出来るのですが、、、

地図は、googleアースの画像です。
南稜中学の東山道道路遺構から、府中、瀬谷の海軍道路、中の宮北遺跡、江ノ島に向けて見事に直線です。
これが、「大化の改新駅路」の東山道相模路である根拠です。
武蔵国衙の為に東山道武蔵路を造ったのが定説ですが、、道は鎌倉に向かって造られている!
武蔵国衙は、単なる通過点。
今も昔も権力者の利益の為に道は作られる。武蔵国衙にメリットは有ったか??
当時の権力者は、鎌倉の鉄に魅力を感じたと想像するのです。


カシバード画像に加筆
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大鎌倉城 隠された大切通し編 1

2012年12月18日 | 切通し
「隠された大切通し」を語る前に古代東海道と古代東山道武蔵路(相模路)の存在について、語る必要があるのです。
そんな訳で、隠した大道を暴露する為の前振りがこの鎌倉城です。

 城である根拠は、外部より攻め込む敵を阻止する切岸の配置から必然的に導かれる結論で、証拠は現地をご覧ください。
文献の資料は無いので、現地を確認をしないと理解できません。
 空中写真を立体視できれば、終戦直後の鎌倉が確認できます。

文献から導けば、
新田軍は、州崎の鎌倉軍を一昼夜で打破った。しかし化粧坂の鎌倉軍は州崎(六万余騎)の半分の兵力(三万余騎)で化粧坂を守れた。これは、鎌倉城としての構造が堅固で在った証拠と言えますが、、
 その事実を無視して「鎌倉に城は無かった!」と唱える方がいます。
「無い」と唱えると、現世利益が湧く方なのでしょう。合理的な議論を精神論で横車を押す様子が見えます。
鎌倉の切通しを結んだ距離は14kmで、鎌倉城の実際の戦う砦の遺構は、鎌倉の切通しの外に在る峰であり、凡その囲んだ距離は24Kmの概略のラインですが、実際は、入り組んだ峰と谷戸に延々と切岸があります。その峰の上と峰の下にある切岸を調べたら、概略ラインの3倍の距離(74km)以上の距離を調べる必要があります。
実地に足で調べるとは、この様な事です。
実地に個人的には調べず組織的にも調査せず、机上の理論で「鎌倉に城は無かった!」との結論なら情けない研究ですね、、、
鎌倉で遊んで60年以上ですが、その1割も私は見て無い。でも素晴らしい城遺構と認識出来るのです。
七口の峰を回って「これは城では無い!」と言ったら、鎌倉の理解は観光客レベルの表面的興味と言う訳です。
「コメント欄」が有りますから、反論があれば書き込みをお願いします。匿名歓迎!
その城構造が色濃く残っているのが、台峰とその谷の倉久保谷戸ですが、近年開発計画が動き始めた様で、、、、、
問題は、この倉久保の谷戸が武蔵大路の痕跡であろうと、考えられるのです。

「鎌倉城は無い」の根拠に、当時の人の考え方や常識から結論を導く論法を使っている方がいます。
仏法の考え方や、当時の武士の常識的な考えを古文献から導き出した様子ですが、、
その文献は沢山在る文献の平均的な考えでは無く、引用は貴族や宗教の偏った文献です。
研究資料に偏りがあり、更に 鎌倉の切岸も一切書かれて無い、、、
    研究者でなく、視野の狭過ぎる 御方の机の上で書かれた本!
具体的に書けば「偏ったアイディアで重大な要素知らずに、結論を出した間違えです。」
源氏は無頼の徒(無法者)ですが、、理由は
壇ノ浦の戦いで三種の神器を持つ安徳天皇に弓を引いた無頼の源氏です。

下剋上という言葉は、
室町中期、戦国時代より権威を否定し、力で権力を奪う社会風潮。 それが源氏のやった事です。
更に、幕府を開き貴族を政治の下に置き、反感を受け新田義貞に討たれた歴史を知らない??
鎌倉城説を適用したら、、距離は24Kmの概略のライン内を開発できず、開発業者は非常に迷惑だと思いますが、、、城遺構をマネーゲームで土地開発するのは勿体無い、とはゲームに参加できない庶民のヒガミでしょうか?
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大鎌倉城 化粧坂編 3

2012年09月20日 | 切通し
化粧坂は何処に?
道幅からして、鎌倉以前より存在した道と考えられ、鎌倉期に道幅を狭めた。
その道は、太平記、梅松論の記述から「化粧坂」の実態が浮かんできます。

新田義貞が、鎌倉攻めで最重要視したのが化粧坂でその人数から重要度が理解できる。

太平記より、攻防する兵の数は、
新田勢六十万七千余騎
 十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける
 十万余騎、巨福呂坂へ指向らる
 五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける
鎌倉勢二十四万騎
 三万余騎にて粧坂を堅め
 五万余騎、極楽寺の切通を堅め
 六万余騎にて、州崎の敵に被向
 十万騎を 予備軍として鎌倉中に待機。

新田軍の本隊五十万七千余騎(大半)は化粧坂を攻撃した。
本隊が最初に戦うのは、州崎で待ち構える鎌倉軍六万余騎であり、五月十八日に攻撃が始まった。
「晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。」と言う結果で、鎌倉勢六万余騎は、10倍の新田勢に一日で敗れ、新田軍は山内(山崎)に入った。
山内荘園の南端が山崎で、この山崎が攻撃に重要な武蔵大路の場所となる。
化粧坂から伸びた峰が「台峰」と呼ばれ、鎌倉城の大手道であり、北に降り口が有り堰水橋があり、ここも山内でこの谷は円覚寺、建長寺、巨福呂坂続く。
台峰の南は山内の南端で天神山があり、梅松論より武蔵大路の赤橋氏が守った場所で、更に奥は倉久保ノ谷戸で化粧坂がある。
別な見方をすれば、
新田軍は鎌倉の大手道のある台峰を北の巨福呂坂軍と南の粧坂軍で挟み撃ちに出来る陣取りです。

梅松論「武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しける」
山崎は天神山の麓であり、武蔵路の守りに赤橋が天神山に陣を構えたと梅松論に書かれた場所です。
桐生六郎が報奨目当てに主人の首を持ち鎌倉に着いたが市内に入れず、武蔵路より深澤を経て、腰越に向かい、挙句の果ては、腰越で首をはねられた。
鎌倉外の武蔵路の場所を示す根拠になる文章です。
新田軍は州崎より武蔵路を守る天神山(山崎)へ=桐生六郎は深沢(州崎)より武蔵路(天神山麓山崎)へ
新田軍の逆コースを桐生六郎が歩いた訳です。

以上の文からキーワードを探し、話を展開するのです。

■新田義貞の認識は「化粧坂を、山内(山崎)から攻め込める」と考え州崎を攻撃した。
■鎌倉勢の考えは天神山に陣を置く事で武蔵路を守れる。っと考えている。
■新田勢は軍を3手に別け、18日にこの3軍が別行動したと考えれば、巨福呂坂軍(十万余騎)は、州崎ではなく、台峰の北側(現在の小袋谷)を巨福呂坂に向け別行動をしたと考えられる。
深読みをせず、言葉通りに解釈しています。(文献の書き手で言葉の意味は違う)
よって、太平記の巨福呂坂は、台峯の北側の通り、山内は天神山の麓辺りの台峯の南側山崎を考えています。
 新田軍本隊が化粧坂を攻め、敵を引き寄せている間に、極楽寺軍と巨福呂坂軍は
鎌倉軍の裏を攻める計画と考えられます。巨福呂坂軍は北鎌倉駅前(これも山内)を通り亀ヶ谷と巨福呂坂へ進軍ですが、その途中は堰水橋橋、瓜ヶ谷等の、台峰の北が在ります。

この文の真意は、新田軍は化粧坂をドノ様に考えて攻めたのか?同様に鎌倉軍の考えは?
そこから導き出されるのは、それ以前に在ったであろう、、古代の巨大道路であり、、其処が新田軍の考えた鎌倉城の攻略法と考えるのです。
実際に起きた事は、その場所には鎌倉軍が待ち構えて攻め崩すことが出来なかった。

写真は、
新田義貞が鎌倉に向け攻撃を開始した柏尾川西岸にある兜岩(神戸製鋼敷地内、同敷地内より、鎌倉攻撃の際作られたと思われる橋脚遺構が見つかる)
ココから川を越え州崎を攻める。
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大鎌倉城 化粧坂編 2

2012年09月18日 | 切通し
wikipediaより=化粧坂
> その外側の道も不明であり、明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000
> 地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿
> いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根
> 道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。

上記には、化粧坂を登った処から次の方面に行く道が書かれています。
■梶原方面
■洲埼方面
■北条常盤亭方面
■北鎌倉方面

(北鎌倉方面)
山ノ内配水池の脇から、北鎌女子グランドの土橋、水堰橋へ向かう道が明治の地図に在り桃色破線で記しました。
北鎌女子グランド周辺で掘り返すと3m余の道が現れたそうです。
水堰橋⇒北鎌女子グランド⇒化粧坂を結ぶ最短距離の道です。化粧坂に対応した道であり、伝承にも有る水堰橋から鎌倉市内に入る化粧坂に対応した道幅で、鎌倉城の大手道、中の道などと呼ばれた道と考えるのです。

 その他の道は無いか?
尾根上は総てに道が在り、兵を配置する為に使ったと考えています。
それらの路は水色で記しました。
(洲埼方面)
山ノ内配水池の脇から、梶原や山崎に向かう尾根道は団地となり消滅したが「かまくら子供風土記」鎌倉市教育研究所発行 によると、この道幅は1~1m半であると書かれている。道幅は狭く街道とは考えられない。兵を配置する為の道と考えています。
(大船方面)
北鎌女子グランドから、台峰を西の天神山方面へ道が在るが、道幅は狭く屈曲とアップダウンがあり、兵を送る道と考えられ山崎切通し(魯山人の愛した臥龍峡)にて断ち切られている。(現在は峰から下りる道は有ります。)
大仏に向かう道はハイキングコースでもあり赤い破線で記しました(北条常盤亭方面)。街道としての道の格はなく、峰通しの兵の移動に使う道ですね、、、
(梶原方面)
唯一梶原方面の道は尾根道ではなく谷の道であり、平安若しくは奈良時代の駅路を想定できる路ですが、、、
その様な路は鎌倉時代に意識して消し去った訳です。
目立たぬ様に消し去った訳ですから、その痕跡を目の前に見せても巨大すぎて道跡とは思わない処が凄いところです。
問題はどの様に消滅させたか??
それを考察する為に大鎌倉城の構造を知る必要に迫られた。

地図は、明治15年迅速図に桃色の線で化粧坂から、中の路と考えられる路を水堰橋まで、加筆した。
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大鎌倉城 化粧坂編 1

2012年09月10日 | 切通し
化粧坂は何処に?
誰でも知っている海蔵寺脇から源氏山へ登る化粧坂ですが、、
峠から外へ出る道は何処に在るのでしょうか?
化粧坂だけ、鎌倉の外に出る道が無い!
鎌倉で最も重要な大手の道と思われる化粧坂なんですが、、、

化粧坂の話の前に予備知識を、、、
化粧坂の道幅は広いですね!
4~5mは在るでしょうか?
鎌倉の山道では、朝比奈と同等な幅でそれ以外の山道で広い道は在っても、近世の物でしょう。
化粧坂上の頼朝像周辺の道は、舗装の上広かったのを思い出しました。
化粧坂は、頼朝以前から在る道と私は考え、平安時代の管路に相当する道と思います。
この道は鎌倉時代に整備し直し3m程の幅に修正したのがこの岩の削った痕跡とされています。
それなら、外部に対応する道幅の道は在ります。

基本的鎌倉の山中は砦であり、守る兵は峰の上で登ってくる敵を攻撃する。
その様な訳で、総ての峰に兵を配置する為の道は存在する訳です。
道が峰の数だけ在って、どれが街道か不明と言うのは、あまりにも現物を見な過ぎです。
その様な戦略の道と街道筋(七口から出る一般人が使う道)を区別する目が必要です。
その違いは道幅に大きく現れる。
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源氏山より寿福寺前に!その3

2008年03月08日 | 切通し
頼朝像より、源氏山西と南の斜面からの道を考えるのですが、、、
西斜面は、十分以上の広さが確保できるトイレの有る広場を通ります。
しかし、源氏山南の青色にマークした斜面はとても切り立った斜面で、現状では道は通せない。
その昔は、、、、
「道が有ったかも知れない。」っと考えた時に
南の斜面の異常さに気が付くわけです。
前回も書きましたが、等高線に問題があります。
自然な山なら、フモトに行く程傾斜はナダラカになりますが、、、
奇妙な事に、フモト程、傾斜は急な状態をお分かりでしょう。
人為的な山腹と考えるのです。
しかし、
鎌倉の、山すそに多々見られる防衛目的の垂直な断崖とも違います。

鎌倉駅から寿福寺へ向かう途中の山に刃稲荷(ヤイバいなり)がある。
この周囲から大量にカナクソが出るそうです。
鎌倉駅から、刃稲荷に行く中程に正宗工芸美術製作所と「相槌稲荷」があります。
正宗工芸美術製作から、600m西には正宗井戸と正宗屋敷がある。
そんな刀匠の痕跡の中心に、この源氏山南斜面の谷が有るのです。
この谷で、、、何が起きたのか??

状況的には、、、砂鉄を採取して、古代道まで取り崩した痕跡なんて想像しますが、、
確証は何も無い状況証拠です。


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源氏山より寿福寺前に!その2

2008年02月28日 | 切通し
とても、気になる場所!
古代東海道として、、最適な痕跡が有ります。
それが、赤くマークした場所です。

何が最適か?
①真っ直ぐ行けば、寿福寺の門前に出る。
寿福時の境内からこれを眺めると、、、
②傾斜が一定な峰、、、そんな特異な峰は鎌倉中でも此処にしか無いのです。
とても人工的に作られた様に見える道に最適な一定勾配の傾斜です。
この、峰の上を探して、舗装面を見つけたら、証明に成るのでしょうが、、、
残念ながら、私は、見つけて無い。

問題は、道幅が狭い!
地図から見れる様に、峰の脇は崖に成っています。
峰の脇の地主が、本来の幅のある道路としての峰を廃道になったのを良いことに、削り取りこの狭い峰に成った!
なんていうのは、根拠の無いぼ輔の憶測です。
そして、
この峰を登った先は、源氏山の南斜面で崖に成っており、先に進めません!
でも、
等高線に注意してください。
自然な山なら、フモトに行く程傾斜はナダラカになりますが、、、
奇妙な事に、フモト程、傾斜は急な状態をお分かりでしょう。
これも、人為的な山腹である事が考えられます。

三品さんもご存知の寿福寺境内より源氏山に登る入り口は、
この峰の中程に有る訳です。
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源氏山より寿福寺前に! その1

2008年02月25日 | 切通し
この件に関し、
明確な根拠らしきものはなく、、、
すべては、状況証拠なのです。
とりあえず、
源氏山から寿福寺の地図ですが、、、
貴方ならどの様なルートを考えるのでしょうか?
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六浦道 9

2007年07月15日 | 切通し
そんな訳で、寿福寺の境内を本堂に向けて道があり、その両脇に並木がある。
それを素直にソイルマークと思うと、、、その先は、三方が崖の状態になります。
それでは、、、古代東海道の痕跡は????
見つからない時は、
消去法というのが有ります。
色々な可能性の中から、否定できるモノを消去し、残ったモノが本物!
ソンナやり方で、、説得できるか???
ぼ輔の手法は、常識的ではないですがね!
見せ場は、、これから!
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六浦道 8

2007年07月14日 | 切通し
前回のブログの写真と同じですが、、、
もう少し判りやすくする為、
横須賀線の踏み切りに相当する場所に青マークをしました。
八幡様から巌小路を通り、寿福寺前に行く時に渡る横須賀線の踏切です。
本文はありません。  っと書くつもりでしたが、

補足します。
青マークの踏み切りから、、、寿福寺に向かい、、更にラインが続いていますが、、、
これは、
寿福寺の境内にある並木です。
そこまで、、、「ソイルマークだ!」っと言う気はありません。
境内に向かう本当の道の並木です。
否定する材料もありませんが、、汗
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六浦道 7

2007年07月05日 | 切通し
古代道を探すのは、、、
無理やり頭で考えるより、現状を良く観察する方が優先で、答えはその後ですね!
では、寿福寺門前に何が有るのでしょうか?
「窟小路」の横須賀線踏み切り際の太い道(扇川の暗渠部分を含んでおり、古代東海道の痕跡とも考えられる)。
武蔵大路跡と考えられる道。
「窟小路」の上に街道が通っていた!(三品@横浜)さん記
他に何があるでしょうか?  それは、、もう少し先の話です。

今回の写真は、昭和52年の国土地理院C16B(5)より引用です。
ソイルマークに相当するラインは、見つかったでしょうか?
S58年やS63年の写真より、ラインを見つけ易い写真ですが、、、、
ラインと「窟小路」の太い道の関連を理解できると思います。
個々の残痕は あいまいでも、関連が符合すれば、確証になります。
これが、引用できる一番古い写真です。

自分で見つけて初めて楽しいものです。
人に言われたら、半信半疑で、「そう言われれば、そう見える!」
なんて言う声が予想できる。  心霊写真の様な世界ですね、、、
洗脳する気は無いので、、、判り易くラインを引いた図は掲載はしません。
見つけられない方は、、、、メールを頂ければ、こちらでラインを引いた図をお送りします。
次は、化粧坂の再考です。
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六浦道 6

2007年07月05日 | 切通し
一般的な見解は、ウィキペディア(Wikipedia)にて「横大路  鎌倉市」を検索引用すると、
>『鶴岡八幡宮造営以前は、朝比奈方面から鎌倉中心部に向かう金沢街道は、筋替
>橋で南に折れることなく、現在の境内地内を貫いてそのまま寿福寺門前まで直行
>していたと考えられる。今も残る「窟小路」は、その名残と考えられ、地図上で
>見ると金沢街道と窟小路は一直線上にあることが見て取れる。
>このため、横大路は、旧「窟小路」の付替えにより建設された大路とも考えられ
>る。』

 以上が
一般的な六浦道、横大路、「窟小路」に対する見解です。
 このブログは 常識的な考えは無く、固定概念、先入観、権威を廃し、自分の見た実感や考え合理性を大事にします。
「六浦道」と「窟小路」は一見直線に思えますが、性質の違う道である事を、問題点として前ブログに書きました。
寿福寺門前に向かって直線道路が有った事には、同じ意見ですが、「続六浦道」に
書いた赤い点線道は寿福寺門前とズレますね!
このブログの記述に矛盾がある?

その答えの一つが、岩屋不動がある巨大な崖です。
奈良時代にこの崖は無く、「続、六浦道」地図の点線の際まで山が押し寄せていたのでは、、、
っと これも「岩屋不動がある巨大な崖」を根拠にした推測です。

青い道は、曲がる理由が不明です。障害物が無いときは、直線に作るのが古代東海道のセオリーです。
赤点ラインの道は、寿福寺門前に行きたくても、山が邪魔して、カーブを描いた!
その山を鎌倉時代に取り除いた痕跡が岩屋不動がある巨大な崖であろうと私は推測しました。
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六浦道 5

2007年06月29日 | 切通し
青ラインの道のD点ですが、寿福寺門前に相当します。
青いラインの「窟小路」の載った地図の脇にD点周囲の詳細な地図を載せました。
岩屋不動のあるのが、不動茶屋の場所で、、、「窟小路」のイワレだと考えるのですが、
この場所の崖が、、注目に値する場所ですが、話題は別で、
問題は、赤い線で挟んだ場所ですが、変に思いませんか?
道幅がほかの部分より太い!
昭和58年の写真には、道がはっきりと明るく写し出されています。
おまけに、途中で太い道を断ち切った様な形をしていますね!
私は、「窟小路」の作られた経緯と、 この場所は歴史が違うのではないか?
 と推測をするのです。

この様な謎に誰が解答を出来るでしょうか?
自分で考え 謎解きをするのが、このブログの「古代道を探すゲーム」ですから、、、
せっかくの楽しみを、本探しをして 調べて等 、、 という発想はありません。
っというか、、、それに答えてくれる本も無いのでは??
そんな事よりも、自分で推理する楽しさ!
これが、古代道を探す醍醐味ですね!ですから、モット事情通の方が本を出しているかも知れません!
コンピューターゲームの様に作者が必ず通り道を作ってありクリアーできるバーチャルな世界では有りません。
現実の世界の 考える人次第で何が起きるか判らないお遊びですね!

道は始点から終点まで一貫して作るものですが、、、
一貫していない場所は道を作る時、前時代の束縛と歴史的経緯があると考えます。
「窟小路」と言われる道も、赤い線で挟んだ場所は、他の青いラインの場所とは異質の道と考えられる。
その異質の意味と歴史を、、あなたの目で確認して欲しいのです!
空中写真から、何か探し出せましたか?
ラインが見つかった人は、、、、
D点の太い道の意味が理解できた、、、デショ?
理屈抜きで理解して貰えるのです。

ラインが見つかから無い人は、、更に古い写真を載せます。
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六浦道 4

2007年06月24日 | 切通し
ソイルマークと言うのがあります。
例えば、
学校建設の為、建設用地を整地したところ、雨が降ると黒いシミができる現象がおきた。黒いシミの形が遺跡の形であった!このシミが群馬県入野遺跡の発見になりました。
この地面のシミをソイルマークと言います。
群馬県新田町の大東遺跡の道路遺構も、畑の中に道路の溝と思われるシミが2本(ソイルマーク)現れた事がきっかけです。

さて、問題は、鎌倉の古代道路遺構ですが、これだけ家が立ち並んだ状態の空中写真で、地表のシミなど写る訳がない。
 航空写真を見るときに私はソイルマークに相当する何かが写真に現れるかも、、、
そんな想定で写真を見ます。

この鎌倉の写真でも、家を通してソイルマークに相当するラインが見えるのです。
「木を見て 森を見ず!」そんな諺がありますが、
細かい処を見ても判りません。 写っているのは、現代鎌倉の街並みです。
全体をシッカリ見る事と 先入観を持たずに見る事で、、、
感じて欲しいのです。
ヒントは赤い点線の矢印です。

感じて欲しいのは、その奥に在る古代の道のラインです。
見えたラインに対して、細かく分析すれば、ラインの部分が暗く見えたり、緑が多かったり、家の並びに法則性が有ったり! 周囲と何かが違うのです。
色々な現象が重なり合った物ですから、、、
頭で考えて見れば、色々な現象の一部しか見ず、結局判らない!
必要なのは、全体を見て感じて欲しいのです。

写真は国土地理院空中写真C18B(49)より引用。
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六浦道 3

2007年06月18日 | 切通し
何故、赤い点線の道は消え、青い道があるのでしょうか?
そんな資料は無いので、、、憶測するのですが、
憶測とするのは、言い過ぎで、多少の根拠を踏まえて考えるのですから推測ですね。
頼朝以前は、古代東海道として、赤い点線まで直線道が有ったとして、
八幡宮造営に伴い一の鳥居に平行に立派な道を作った!(段カズラに直角な道)
横大路と呼ばれ、東端は、寶戒寺前、西は「鉄の井」があります。
そうなれば、無駄に広い古代東海道は必要なく、家を建てたか農地へ転用。
筋違い橋C点から、D点には、立派に作った横大路を使わせ、
「鉄の井」の先からは、利用価値の低い山側に道を移し化粧坂へ向かわせた!
お陰で、、、取って付けた様な窟小路と呼ばれる青ラインの道が出来上がった!
そんな推測をしたのでした。
推測が正しければ、青いラインの窟小路は、鎌倉時代に作られた歴史のある古い道!

赤い点線の道の行方は??
この写真の赤矢印から入る想定ですが!
貴方には、、、目で追えますか????
写真:国土地理院空中写真C13(22)昭和63年より引用
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