鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

六浦道 2

2007年06月11日 | 切通し
この青マークの道は、
「とても古くから有る道です。」  っとされています。
具体的にどの程度古いのか?
きっとそれに答えるとすれば、
「明治の地図に載っています」 っと言う事になるでしょう。
明治の初期に作られた地図ですから、江戸時代にも使われていた筈です。
それ以前は?
鎌倉時代に使われたかも? でも、資料は、、、
平安時代は???
平安時代の鎌倉に関して資料は限られる。まして、奈良時代の道の資料は無い。
そんな曖昧な話になるでしょうね。

頼朝以前に赤と青のマークの道は繋がっていたと考えられています。
が、、、しかし、
赤と青の道は性質が違います。
青の道はユルヤカに曲がっている事を根拠に、古代東海道の痕跡と考えるのは否定されるべきでしょう。
もう一つの否定する根拠は、地図の赤い点線ですが、六浦道の延長直線は、青いマークの道から外れる。
AとB の道の目的点がDであったとすれば、、、青ラインのC点は北に寄り過ぎる。
極端な障害物の無い限り、古代道は直線的に作るのがセオリーです。
江戸モシクハ鎌倉時代の六浦道延長とすれば、青い道も肯定される話でしょうね。

何故、赤い点線の道は消え、青い道になのでしょうか?
そんな資料は無いので、、、憶測で考える訳です。

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六浦道 1

2007年06月06日 | 切通し
明治の地図に赤マークを付けたA~Bの道は、六浦道と呼た特に直線的な場所です。
それに対応する西側の道は、青でマークしたC~Dです。
さて、、
この道の直線性は八幡宮に分断されていますね!
赤マークを付けた道のBには、筋違い橋という名があります。
道筋を違えたと言う訳でしょうね。
何時道筋を変えたのか?
鎌倉に最初に建てた鎌倉八幡宮は材木座海岸よりにあり、今は元八幡と呼ばれます。
頼朝が存命中に、現在の八幡宮へ移したのですが、
その時にこの直線的な六浦道は、分断された。 っと考えられています。
一般的には、頼朝以前は、赤と青のマークの道は繋がっていたと考えられています。
モットモな話に、、、思えます????

私も、、、この話で納得していたのですが、
この道が古代東海道の痕跡と考えた時「この青いマークの道は変だ!」と考えるのです。
駅路、官路にふさわしくない!!
その理由は、、、
次回は、青マークの道がテーマ!

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鎌倉最大の切通し 8

2006年12月17日 | 切通し

   謎の大堀切の巻 終り
瓜ヶ谷の広さが不自然に広い!
写真の畑の奥にある森に土橋がある。
これでは、攻めて来た敵が、体制を整えて「土橋のバリケードを攻めて下さい!」
っと言わんばかりの攻める敵には、、好都合!
土橋を攻める敵が陣形を整え 数で攻める事ができトテモ強気で攻撃できる。
集団心理の極致です。
土橋のバリケードで応戦していた幕府軍が土橋から撤退したら、
攻撃して功をハヤル兵士は、集団心理の強気で勢い込んで、土橋を越えて鎌倉市内へ、、、、
そこには、海蔵寺の断崖が有るのです。
夕暮れ時でしたら、、、効果は絶大でしょう。

これにて、武蔵大路のお話は落着。
この次のテーマは、、、「箱根越えの古代道」です。

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鎌倉最大の切通し 7

2006年12月08日 | 切通し

雑草が生い茂り、、、
巧く切通しと土橋の傾斜を表現した写真できませませんが、、、
この草の為に、土砂が流れ出ないで、800年保てた!

この写真を撮る最中に学生が土橋に下りる勢いが余り、この坂に転落!
何の事は無い、坂の途中5m程度で止まりました。
そんな程度の緩い傾斜です。
海蔵寺側に転落したら、滑落は止まらない。

生死に関わる事故になる。
ワイワイ気分でそんな危機感など無いのでしょうが、、、
山は低山でも危険な罠がある。特に鎌倉の山は戦いの場です、故意に切岸を作って有り、不用意に足を滑らせると滑落は止まらない構造です。観光客の危機感の欠如は怖い。

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鎌倉最大の切通し 5

2006年11月27日 | 切通し
この土橋の海蔵寺側をカメラで捉えたくても、雑木が邪魔をし、
上手く写す事が出来ません。

切通しの岩肌自体が垂直に切り立っているのは理解できるでしょう。
土橋の壁自体も同様に如何に切り立った崖であるか!(鎌倉最大の切通し1) の写真と合わせて想像してもらい、現地を見て実感してください。
しかし、海蔵寺側の土橋の崖は、知らなければ「向こう側に行けるかも?」等と思わせる微妙な角度が付いているのです。
土橋の高さは測らなくても、(鎌倉最大の切通し1)の写真から、切通し幅の2倍以上の高さを推測できます。25m以上は有ると推測しています。
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鎌倉最大の切通し 4

2006年11月25日 | 切通し
土橋上部の長さは、、、12,5mあります。
朝比奈の切通しの例を見ても、ほぼ下の道幅と同じですから、、
少なく見積もっても、下の道の幅は9m有ると考えます。
道幅9mは鎌倉最大の切通しです。
この様な鎌倉時代の土橋?遺構と、奈良時代の切通し遺構が組み合わさり、良い状態で残されている事にぼ助は、驚異に感じます。
土橋状のバリケードは800年、武蔵大路の切通しとして1200年の歴史が地上に見える形で残っている。
もっとも、以前は道幅がもっと狭く、上を通るのが怖いくらいでした。
これも、微妙に観光破壊が始まっている。

写真は土橋上部を葛原ヶ岡神社側から、北向きに撮ったものです。
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鎌倉最大の切通し 3

2006年11月24日 | 切通し
敵の攻撃を阻止する為に造られたバリケード!
貴方がバリケードを作るとなれば、、、外部の敵を阻止する構造を考えると思います。
処が、、、このバリケードは、外部から攻めて来た時、人がよじ登れる角度をしている。
逆に、鎌倉市内からバリケードへは、絶壁で登れない!
バリケードを造る目的は、人を通さない為に作る。
それが、、、人が通れる構造をしているとなれば、、、
ソコには、相手の動きを誘導する作為を感じるのです。

図は土橋の断面です。

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鎌倉最大の切通し 2

2006年11月15日 | 切通し
海蔵寺切通し!
鎌倉城と称する七口がある城壁の山には、、、
朝比奈より規模の大きな鎌倉最大の切通しが存在した!!
いや、、存在する!!
道幅が広すぎて、守るに困難な武蔵路に幕府はバリケードを造った!
それを称して、今は「土橋」と呼ばれている。

問題の有るのは、この土橋の形状です!!!

写真は土橋です。北東から南西に向けて写しています。
道の右は瓜ヶ谷、左は海蔵寺です。
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鎌倉最大の切通し 1

2006年11月04日 | 切通し
「海蔵寺切通し」は東山道相模路の道路遺構です。この切通しに鎌倉外部より入るには、北鎌倉より、瓜ヶ谷に入ります。
水道道から、クランクの谷、立石、関谷、玉縄城、北鎌倉、瓜ヶ谷、海蔵寺。
これで東山道相模路の鎌倉入りとななりましたが、、、
この経路なら、亀ガ谷の辻に武蔵大路があり、寿福寺前に武蔵大路が有っても、現御成小学校の校庭で発掘された郡ガ跡に行く経路として、矛盾が無い。

やっと、、鎌倉入りとなりました。
この辺りでコーヒーでも一杯如何でしょうか?
鎌倉らしい、喫茶店と言うことで、お勧めは、、、、
「花墨」なんて御勧めです。(残念ながら、店主が高齢の為閉店しました。)
★http://www.hanazumi.com/shop.htm★

写真は海蔵寺裏より写したモノ。
ステレオ写真の見方が判らない時は、コメントしてください。
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鎌倉「謎の大堀切」

2006年11月01日 | 切通し
鎌倉に大堀切があると言われています。
攻めて来た敵を阻止する為に堀をつくります。
人工的に堀を作る事を指して、堀切と言います。
攻めて来る敵を妨害するのが堀切で、石垣の有る城は水を引いて堀にします。

処が、この大堀切は、
鎌倉市内と市外を分ける城壁の山に対し、城壁の山を断ち切る様に掘り切られている!!
それも、幅10mは有ると思われる幅です。

考えて欲しい理屈は、
頼朝は都を造るとき守りに強固な、三方山に囲まれた鎌倉を選んだ。
山は城壁に例えられ、七口は、城門に例えられる。
その城壁に10mもある穴を故意に開けたら、、、
喜ぶのは鎌倉を攻める敵です。
大堀切はその様な構造をしているのです。

通常の敵の進入を妨害する堀とは目的が違うというより、堀の役目を果たしていない。
よって、堀切とは呼ぶのは間違えと言えます。

それじゃ何かと尋ねたら、、、
この土地に、鎌倉以前が存在しないなんて、、考えたら鎌倉を世界遺産にしよう「武士の都鎌倉」で考える理屈と同じです。
鎌倉時代以前の古代東海道や、東山道武蔵路の延長「東山道相模路」の遺構である「切通し」と推察するのです!
この切通しの幅や、鎌倉に入り込む方向から想定すれば、武蔵国府、座間、海老名、想定伝路水道道、立石、関谷、玉縄城脇を経由した、、武蔵大路の痕跡です。(この時点では、笠間中央公園道路遺構や、ゆめが丘脇の中の宮北遺跡の存在を知らない状態でした。2014年加筆)
なんと、、、幅は、朝比奈峠より広いのです。
場所は、海蔵寺の裏にあります。

写真は海蔵寺より、裏山の切通し跡を写したモノです。
赤矢印の処が切通し跡!
鎌倉幕府の手で土橋が作られたと考えられているが、、、
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続 東山道相模路 序章

2006年10月07日 | 切通し
 鎌倉幕府の仕組んだ水道道路(武蔵大路)消滅工作で、痕跡はズタズタ!
鎌倉の北西の玉縄城周囲から大路が入り込んでいる状態を模索中に古道ファンより「もしかしたら、鎌倉の西に大きな入り口が、在った可能性が在るのでは?」っと言うメールが入った。
私が「それは武蔵大路の痕跡です。」と答えた処、明快な反論は無く現在に至っています。
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朝比奈峠から六浦へ!

2006年07月29日 | 切通し
東山道の前に、書き忘れです。
「朝比奈から六浦の港へ古代東海道は通っていた!」
これが、前記のブログに述べた根拠を総合した 私の考えた結論です。
横須賀の走水から 千葉に渡った大和武尊根拠は、
文献に偏り過ぎた机上論で現実を見て無いと思います。
古代東海道は六浦から上総の国衙が有ると思われる市原の近くの港へ海上を
直行すると考えます。
ですから、古代東海道は、市原から常陸に向けて存在はしても、
市原から安房方面に向けての古代東海道遺構は無いと推測します。
もし有るとすれば、上総国衙と安房国衙の間を6m若しくは3m程度の官路が有ったであろうと想像します。
何を言っても、、、所詮素人の憶測です。責任は取りません!!
各自、、、自分の目で確かめて考えを深めて欲しいと願っています。

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朝比奈峠10

2006年07月24日 | 切通し
朝比奈峠東の小切通しと言えども、、、
8m程切り落としたこの小切通しは大きく見える。
この様な切通しを誰が造ったか?
鎌倉幕府以降は、戦禍で荒れた寒村で、市内に入るに困難な切通しのバリケードを江戸時代に雑に改修したぐらいですから、、、鎌倉以降とは考えられない。
こんなキッチリした造りは、資力が十分にある鎌倉時代の他に無いと考えます。
鎌倉時代以前は、道幅7m以上の古代東海道が有り、この小切通しは道幅を狭めた上に、防衛の為に道路を上から攻撃する目的で造られた構造と考えています。

それが証拠に、一定傾斜の古代道の痕跡と比較すると、この小切通しの部分が一番深くエグラレて道が作られており、確信的に切通しを高く造った状況が観察できます。
小切通しと大切通しの防衛機能が有効であった証拠は、新田義貞が西の方面からモッパラ攻め込んだ事から想像できます。
(元寇が六浦の港におしよせたた時に絶大な効果を発揮したでしょう!)

それにしても、他の七口より道が広く立派な理由は、、、
古代東海道の機能が維持されており、六浦港から資材搬入が有った為と想像します。

写真は朝比奈峠六浦側に残る平場にあるヤグラ。
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朝比奈峠9

2006年07月23日 | 切通し
この切通しの怪とは、
大切通しは、7mの道幅ですが、小切通しは 3から4m幅です。
大切通しと小切通しは、造った背景が違う! っという事が言えると思います。
では、7m幅の道は何処へ?
写真は小切通しのヤグラのある反対側にある崖上から撮った写真です。
何のことは無い、、、ヤグラの造られた時期の道は、、、、反対側の平場に
有ると言う訳です。
手前の平場の草むらとヤグラの間に高さ8m程はあるかと言う切通しが有ります。
そんな溝の存在を感じさせない程自然な写真です。

大仏切通しに有ったバリケード! そんな危機感からすれば、写真の様な
太い道は攻め込まれた時に簡単に突破されてしまう!
それに対応する防衛施設として、、、この様な細工を施したと考えるのです。
古代東海道を 平場として本格的戦闘用に造り変えた訳です。
この平場と比べれば、峠から市内に向けた平場と称する場所は、戦闘に通用
しない事が理解できるできると思うのですが、、、、
御自分の目で見て、実感して判断して下さい。
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朝比奈切通し8

2006年07月21日 | 切通し
朝比奈切通し六浦側は、私自身があまり興味が無く無視しそうになりましたが、、、
古代東海道を意識した時には、外せない場所で見方を変えるととても面白い場所です。

さて、平場はどの様に成っているか?
ご覧になる方は必ず平場に上がって前後の平場を見て頂きたい。
それは、平場の傾斜が前後にある平場と関連しており、前後を繋なげれば道と考えても不自然では無い状態を観察してください。
ずいぶんと謙虚なかきかたですが、、、
言葉の裏は、「古代駅路の痕としか考えられないでしょ!!」と言う事です。

古代道路の痕跡と言う事で、次回は小切通しの怪になります。
朝比奈大切通しから六浦に下りた処にある切通しです。

写真は、大切通しに近い平場で、ステレオ写真になっています。
見方が判らない人は、質問ください。
右下に現行の道がチラリと見えます。
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